こぼれおちるもの 7
サクラの家は、塀に囲まれた小さな庭付きの、2人にとっては大きな二階建ての家だった。
「これがサクラの住んでる家かよ……スゲェな」
「別にすごくなんかないよ」
ここへ自分が踏み入るのかと思うと途端に緊張し始めたアオとは違い、カクゲンの様子は普段と何ら変わりない。サクラと一緒にズカズカと庭を突っ切って玄関へと向かって行く。
アオはその後ろを、心持ちびくびくしてついて行く。
サクラが玄関のドアを開け、
「ただいま~!」
カクゲンはそんなサクラをじっと見つめた後、同じように「ただいま~!!」と大きな声で叫んだ。
3人が玄関に収まると、後ろでパタンとドアが閉まる。
余所余所しい小さなその音に、アオはバレるから静かにしろと言いたくなる。
3人が立っている玄関の床にはグレーの四角い石が敷き詰められており、下駄箱の上には緑の葉の多いピンクの花が飾ってあった。
アオは物珍しそうに、天井や壁をキョロキョロと見回してみる。
一般家庭の家に上がったことなど、多分記憶にない。
「ほんとだよ!カレーの匂いがする!なあ?」
はしゃぐカクゲンの言葉通り、サクラの言っていたカレーの匂いは、玄関にまで漂って来ていた。
美味しそうな匂いに、胃が動く。
しかしアオはここに来て、緊張とは違う、やはり来てはいけなかったのではないか、そんなことを考え始めていた。
追い縋るカレーの匂いを振り切って、今にも回れ右したくなる居心地の悪さ。
何となく動いてはいけない気がするのに、そうしてしまっている。
……こうなることは分かっていたのに。
考える時間や逃げる隙は、たくさんあったというのに。
アオはそうやって、この場に相応しくない自分たちを思い遣っていた。
そこへ、家の奥からドカドカと騒がしい足音がこちらに向かってきた。
何事かと2人が目を向けると、廊下を曲がって現れたのは1人の男の子。
彼は玄関まで突進してくると、いきなりサクラの肩を両手でガッと掴み、ガクンガクンと容赦なく振り回した。
「おかえりー」
サクラはその手荒い行為に慣れているかのよう。
平気な顔をして笑っている。
2人は何が起こっているのか分からず、それをただ見つめているだけ。
サクラは体を激しく揺さぶられながら、
「ちょ、ちょ、ちょっと、ターくん、ちょっと待って!」
「ただいまはー?」
「うん、ただいま。お母さんは?」
「いるー」
「「………」」
2人は突然現れた乱暴な男の子とサクラの関係が今一つ掴めず、じっと突っ立ったまま。
「おかあさーん!おかあさーん!」
大声で呼びながら、男の子がまた家の奥へと戻って行く。
「サクラ、あれ誰だよ?」
「……うん、弟。タダシって言うんだ」
……弟。
「弟かよ。年いくつだ?」
「私より2コ下。10歳」
「年下かー」
アオはその遣り取りを聞きながら、すでに気づいていた。
あのタダシという男の子。
体の大きさは、もうすでにカクゲンより大きい。
それでいて、あの行動。
浮かんだのはあの場所にもいた、手の掛かる2人。
……アレじゃ。
マサキとミチル、あいつらと一緒じゃ。
障害者ってヤツじゃ、確か。
アオはそう考えながらも口には出さない。
マサキとミチルで、少しは『障害者』と呼ばれる人たちのことは分かっていたから。
珍しくもない、そんな記憶。
「ここで靴脱ぐんだろ?上がっていいのか?」
「うん、上がって」
カクゲンが靴を脱ごうとした時、同じ家の奥から、今度はスリッパのパタパタという音が近づいてきた。
それに気付き、アオもカクゲンも動きを止める。
廊下の影から現れたのは、大人の女性。
サクラの母。
「サクラ、おかえり。あなた、テーブルに鍵忘れてったでしょ。……あら?」
サクラの母が2人に気付いた。
そして驚いたように、
「あら!?ちょっと、お友達!?」
「うん。さっき友達になった。第三小のアオキダイスケくんとタロウくん。兄弟なの」
「あらまあ!」
サクラの母は淡いベージュのスカートを揺らして、ふわふわと近づいてきた。
「………」
アオはサクラの母を見上げたまま、取り合えず動くことは放棄する。
あの場所に、大人の女性はいなかった。
教師と名乗る大人は全員男ばかり。
だからといって、大人の女性にこれまで会ったことがないわけではない。
が、アオは見惚れてしまう。
サクラの母は色が白く、髪が長く、とても綺麗な人だった。
アオの目には、彼女の周りが霞がかったように白くぼんやりと光っているように見えた。
それを見ていると何故か顔が熱くなり、汗が噴き出してくる。
サクラの母はにこっと笑顔を見せながら上がり框に膝をつき、突っ立ったままの2人を見上げた。
「いらっしゃい。サクラがお友達連れて来るなんて久しぶりなのよ。しかも男の子!ありがとうね」
ぼーっとしているアオとは反対に、隣のカクゲンは何一つテンションを変えることがない。
「サクラのお母ちゃんか?」
「うん、そうよ」
「今日な、サクラと知り合ってな、バスケット教えてもらったんだ。それでな、サクラと兄弟分になった!」
「兄弟分?すごいねぇ。ありがとね。えーっと、…タロウくん?」
「別にいいよ!」
アオはといえば、先ほど押し寄せた感情がまた緊張に掻き消され始めている。
そわそわして落ち着かない。
「ね、お母さん、2人ね、お昼ごはんが家にないんだって。ウチで食べてもらっていい?カレー、たくさんあったでしょ?」
「うん。昨夜たくさん作ったからね、いっぱいあるよ」
それを聞き、カクゲンが慌てて靴を脱ぐ。
「ほんとかよ!おかわりもあんのか!?」
サクラの母は笑みを浮かべて、
「あるよ」
タイプで言えば、自分もカクゲンと同じ。
だが、遠慮と緊張と熱で行動がどうにかなってしまいそうな中、何とか行儀を思い出す。
そして勢い良く家に上がろうとするカクゲンの肩を、直前でガッと掴んで止めることに成功した。
異常なほどに顔を真っ赤にさせたまま。
サクラの母の目も、見ることができない。
「……あのう……ワシら、何ちゅーたらええんか……いきなり来てしもうて、悪いことしたんじゃないかのぅ……」
チラッと上目で顔色を窺ってみた。
「そんなことないよ。ウチのごはんが口に合うかどうか分かんないけど、良かったらどうぞ?」
しかし1秒がやっと。
アオはすぐに視線を逸らして、
「……う、うん……いや、はい。……ありがとう」
この赤い顔を、隣で不思議そうに見ているカクゲンには気づいていたが、気づかない振りをした。
挨拶は済んだ……かのぅ?
自信はなかったが、1人で納得することにする。
「さあ、どうぞ。上がって」
2人はサクラの母に招かれ、家へと上がらせてもらった。
廊下を進みドアを開けると、その奥には食事をする、あの場所で言うなら食堂のような場所があった。
「ごめんね、ちょっと待っててね。椅子出すから。普段3つしか出してないのよ」
サクラの母が物置をごそごそしている間、2人は台所をキョロキョロ見渡していた。
やけに明るく綺麗で、窓際には花なんかも飾ってある。
とても立派で、洗脳されそうな、そんな風景。
夢にすら出てきそうにない、想像すら不可能な。
アオは自らの立つこの空間に、心を奪われていた。
ここは美しすぎて、きっと心安らかに眠ることはできないだろうが、いつまでもここに居たい。眺めていたい。
ぼんやりとそう思う。
やがて、サクラの母が2つの椅子を持って台所に入ってきた。
長方形のテーブルの短辺には母が、右斜め前にサクラ、そしてその隣に椅子を2つ並べる。
先ほどのタダシという男の子は母の左斜め前に座っている。
「2人はここに座って」
サクラの母がそう促した。
アオは言われた通りサクラの隣に座ったが、カクゲンは与えられた椅子を持ち上げ、テーブルをぐるりと回り越えた。
彼が椅子を置いたのは不自然に空いていた、サクラの弟の隣。
「お前、タダシって言うんだろ?」
「んー」
「僕な、タロウってんだ。一緒に並んで食べようぜ!」
「んー」
行儀や、そういった類のものは、あの場所でやってきたことが2人の限界。
アオはあの場所で教わった行儀というものが、世間とも一致していればいいと願っていた。
守ってはいなかったそれをフルに思い出し、何とかこの場を繕わなければと。
タダシは椅子に座ったときから、親指と人差し指の股でテーブルの角をぎゅうぎゅう押している。
その度にサクラの母が手を添え、静かに下へ下ろす。
繰り返し、何度も。
アオはそのタダシの癖を何となく見つめていた。
マサキも平面に手を置くと、小指から親指に向かって順番に爪で弾いて音を出す、そんな癖を持っていた。
指に触れるものに対し、何かせずにはいられないのだろう。
みんなが席に着いたのを見て、サクラの母がアオとカクゲンにごはんとカレーを大盛りでよそってくれる。
サクラ、タダシ、サクラの母の皿が白いだけの深皿なのに対し、カクゲンと自分の皿は花の絵の描かれた、縁が波打った綺麗な皿。
それを見て、またアオは自分を疑い始める。
特別な自分たち2人。
たまたま服は綺麗なもの。
朝、体も洗った。
後は一体何をすれば……?
ふと横に首を向けると、母の後ろ、流しの前に小さな窓。
いざとなりゃあ、あそこから……。
後ろめたさのあるアオは、人がする振る舞いのことを知らない。
「はい、どうぞ。たくさん食べてね」
惑うアオと笑顔のカクゲンに、サクラの母はそう言ってスプーンを渡してくれた。
おいしそうな匂い。
大きな銀のスプーン。
これなら大丈夫。ちゃんと使えるはず。
頭の中の錯綜は、やはり一つひとつをうまく処理できない。
先ほどまでとはクリアする対象が異なっている心に、自分でも何がしたのだか分からなくなっている。
ぐるりと視線を回してみた。
サクラ、サクラの母、カクゲン、そして自分。
スプーンの扱いに目が行き、同じであることにほっとする。
タダシはテーブルをぎゅうぎゅう押すことをやめ、その手でシャベルのようにスプーンを握っている。
彼の使い方が違うのは、……マサキとミチルと同じ。
あの2人も、他の人に何回教えられてもああいう握り方を止めなかった。
それを片隅で思い出し、今度は目の前に座るカクゲンの食事を観察してみる。
こいつは、ああ見えて行儀はええんよのぅ…。
姿勢を崩すこともなく、こぼすこともなく、カクゲンは笑顔でカレーを食べている。
本当ならサクラの母やサクラの食べ方をじっくり見て学びたかったが、そちらに顔を向けることは憚られた。
「うめぇな!なぁアオ!うめぇな!!」
「お、おう。そうじゃのう、うまいのぅ」
あの場所のカレーとは、見た目も味も全てが違った。
肉や野菜が大きなまま、ごろごろとたくさん入っている。
「お母ちゃん!」
カクゲンが笑顔でサクラの母を呼んだ。
「ん?」
「本当におかわりしていいのか?僕、これいっぱい食べちゃうぞ?」
「いいよ。たくさんあるからね。たくさん食べてね」
「やったぁ!!」
カクゲンは先ほどまた自分のことを『アオ』と呼んだ。
起伏の波で、つい癖が出てしまうのも理解できるが……。
幸いサクラからもサクラの母からも、何か問われるわけでも突っ込まれるわけでもない。
目の前で行儀良く食べているカクゲンに、アオはそれ以上不満を思うことを止めた。
いつかしてみたいと思いながら想像もできなかった現実に、勘が鈍って行く。
それだけは自覚していた。




