祝福を 13
カクゲンはそう返事をすると、一気に着替えを済ませた。
片手には、ネットに入ったままの茶色いボールがぶら下がっている。
「今日はさ、これでサッカーやろうと思ってんだよ。だからこれ持ってく」
「そうか」
アオの返事を聞くか聞かないかで、カクゲンは小屋を出て行った。
これから始まる退屈な時間は、昨日1人になったことで確認済。
1人で考え事をしていると、良い想像、思案などは全く浮かんで来ない。
彷徨うほどに色が抜けて、また見通しのない今後の自分たちのことを考えてしまう。
儀式のように、始めてしまう。
……忘れたらいけんって……忘れたら許さんって、何のことじゃ。
ワシが自分のことを『ワシ』と呼ぶ。
アンタのことを『母ちゃん』と呼んどる。
カクゲンは『ママ』言うとったのぅ。
ワタル兄は『母さん』言うとった、確か。
キョウコ姉はそれに『お』が付いとったのぅ。確か『お母さん』じゃ。
覚えとるんはあれだけ。
何を忘れたらいけんのんじゃ。
ワシはアンタの何なんじゃ?
母ちゃんて呼んどるいうことは、ワシはアンタの子供か?
じゃったら何でおらんくなったんじゃ。
何でおらんのんじゃ。
ワシはあの後、どうなってああなったんじゃ。
ほいで、これからどうなるんじゃ。
さっぱり分からんのじゃけど、思い出せんのんじゃ。
あの夢の後に来る虚無感は、例え拒否しても辿らざるを得ない。
難解はすぐ後ろに居る。
今日は1人で都合が良かった。
膝を抱えた姿勢は、あまり人に見られたくはない。
「………」
いい加減陰鬱な考え事を止めたいアオは、昨日どうやって過ごしたかを思い出し、小屋を出てまた坂を下って行く。
そして昨日座っていた川のほとりの石の上に再び腰を掛け、そしてまた川の流れをじっと見つめていた。
「……ハア……どがいになっとるんかのぅ、ほんまに。勉強もしとらんで、みんなと一緒になれるんかいのぅ…ハア……」
今日は昨日の退屈とは一味違う。
突破口のない懊悩はぐるりと回って無限を描く。
分かっていながら止められない。
結局川の流れる音と、自分への問いに終始する羽目になる。
小屋を出てから、時間にして1時間半ほど経っただろうか。
手慰みに足元に無数にある石を1つ拾い上げ、川に放り投げた。
……とぷん
その間の抜けた音が引き金になったのか、ふともう一つの音に気づいた。
自分の背後に人が駆け寄って来る、小さな足音。
何気なく、アオはゆっくりと振り返る。
土手を下り、河川敷をこちらに向かって走ってくるのはカクゲン。
いつもの邪気のない笑顔で。
しかし視力の良いアオはカクゲンの異変にすぐさま気づき、立ち上がった。
「……ッ!?」
その姿に、掛ける声を迷った。
……顔
カクゲンの顔
そして白いシャツ
右手が、
真っ赤に染まっている。
「……ッ!」
尋常ではない姿に似合わない笑顔で駆け寄ってくるカクゲンに、言葉が迷う。
「あのさぁ!!」
まだかなりある距離からカクゲンが声を張り上げた。
彼は一直線にアオの元へ走って来る。
近くなればなるほど、その姿に確信を持つ。
……血じゃろ
あれ、赤いの、
血じゃろ?
「あのね、アオ!」
続いて何かを叫ぼうとしたカクゲンに、アオは咄嗟に「そこで止まれ!!」と大声で怒鳴った。
2人の距離は、15メートルほど。
その位置でカクゲンはアオの命令通り、ぴたりと足を止めた。
「……お……ッおま……おまえ……ッ」
カクゲンから目が離せない。
喉が震えて言葉が出ない。
顔
シャツ
そして、脚
カクゲンの体は、全てが真っ赤に染まっていた。
驚愕に言葉を失うアオに対し、カクゲンが口を開く。
「謝ったんだよ。僕ね、おじさんに会ってすぐ謝ったんだけどさー」
その声には迷いや気負いや悪気や、そういった感情の波は見られない。
そして混乱するアオも、それには気づかない。
「そしたらね、いきなりさ、家の入口のところでさ、押さえつけられてズボンとパンツ、脱がされちゃったんだよ」
「………」
カクゲンが何について喋っているのか、全く理解できなかった。
開きそうになっていた口を塞ぎ、そのままカクゲンの言葉を聞く。
「やめろって言ったんだけどさ、どうにもできなくってさ。近くに置いてあったハサミで突いてやったんだよ」
「ッ!!」
戦慄が背筋を駆け上がった。
―――― やはり、カクゲンに付着しているのは、血。
難儀はやはり、見た通り。
起きてしまった……起こしてしまった現実を知る必要があると、すぐさま理解した。
「こ……殺してしもうたんか!?」
大きく、悲しく、そう声を絞り出した。
「死なないよ。肩んトコをちょっと突いてやっただけだからさ。それでさ、」
カクゲンはシャツの胸ポケットを探り出す。
彼は下半身、下着と靴下だけの姿。
それにも関らず、ボールの入ったネットは大事そうに握りしめている。
カクゲンはやがてポケットから何かを取り出し、こちらに見せた。
それは先日、初めて手にしたものと同じ。
束になり、二つに折りたたまれている。
「おじさんが持ってた財布の中のお札をさ、全部持ってきてやったよ」
嬉しそうな笑顔でこちらを見るカクゲン。
「…ッ」
アオはカクゲンの様子などに構っているような心境ではない。
この後のことを考え、すぐに行動に移すべき。
頭はすぐに動き出す。
だが、足が竦む。
「お前……お前、それ強盗じゃんか!!」
アオの言葉に、カクゲンはきょとんと目を瞬かせた。
「ごうとう?何言ってんだよ。アオに教えてもらっただろ。これはちゃんとした報酬だろ?」
「――――ッ!!」
その瞬間、アオは自分の記憶にはない、自分の感覚を覚えた。
真実は、たまにやさしい。
むしろ疑いが人を、生き物を破裂させる。
「………ハ……ッ」
涙が溢れてきた。
自分は今、悲しいのか腹を立てているのか喜んでいるのか。
その感情を表す言葉は知らないが、体は正直で、アオの目からは大量の涙が零れだす。
―――― 青く実るといいね
何故かまたあの言葉が、今度は強く鼻を叩いた。
辛うじてカクゲンからは見えないだろう、泣きの屈伸。
押し寄せるものに耐え切れず、アオはその場から全力で走り出す。
カクゲンから顔を背けるように。
「あれ、アオ!ちょっと、どこ行くんだよ!?」
後ろから聞こえるカクゲンの声を無視することができない。
「知らん!!」
「知らんって何だよ!」
声の後すぐ、後ろからカクゲンが追いかけてくる足音。
「どこ行くんだよ!?」
「どっかじゃ!決まっとるじゃろう!!」
「何で決まってんのさ!?」
「もうここにはおれんのんじゃ!!」
次から次へと出てくる涙がバレぬよう、見られぬよう、絶対に後ろは振り向かない。
―――― 子供は大人に負けておけばいい
誰に言うとるんじゃ!?
ワシらは、
ワシらは、……生き物で!!
走りながら、ここ何日か過ごした小屋の前を通過する。
その目に、自分と一緒に生活してきたあの石が映った。
そして唐突に思い出す。
―――― あの石は、墓石だ。
近くで見ると、得体の知れない石。
遠くから冷静に見ると、死人への飾り。
今朝1つ減っていた、その意味。
「…ッあれを!あれを3つとも下げれるように頑張ろう思うとったんじゃ!!」
カクゲンに言ったところで伝わりはしない。
それに、あの石がそれほど大事だとも思っていない。
「ただの石じゃ!!」
「何だー?」
「やかましい!!」
「そう?」
アオはカクゲンを置き去りにしない程度のスピードで走り続ける。
土手の斜面を駆け上がり、どちらでも構わないなら左へ、アスファルトの敷かれた一本道を逃げ続ける。
……他の人らみたいに会社勤め?
そがいなこと言うとったら、笑われてしまうで ――――……
自分が特別でありながら、それを知らない、そうでない人たちと空間を共有している。
……歪だろ
一応そう感じる。
……これからもそうするで
そう言い聞かせる。
こんな立場でありながら、何故か荷物ができていた。
衣類が数着と食べ物と、少しのお金。
それらを置いたままアオは走り、カクゲンはそれを追いかけ、2人はこの地を後にする。




