祝福を 12
毎日嬉しそうに出向いて行くカクゲンは、面倒なことは全く考えていないように見えた。
カクゲンの話を聞いても、向こうで彼が一体何をしているのかは分からない。
分からないから不安にもなる。
アオは小屋が建つ丘を下り、川のすぐ傍に腰を掛けた。
こんな早い時間からカクゲンにいなくなられてしまうと、退屈で仕方がない。
やることを思いつかず、緩く長く流れていくその動きを、何ともなしに眺めることにする。
……ん!?川の流れがこっちと向こうじゃ違うで。何でじゃ?
……どうでもええか。
例えば、脚が1本足りん奴は他より目立つよのぅ。
……ワシャぁ2本あるで!
耳を引っ張ってみる。
それから口をパクパクさせてみる。
聞こえるし、喋れるのぅ。
ワシャぁ便利じゃ。
たまに1人でおると、こんなことも出来て便利じゃ。
……たまにはの。
水面に虫が輪を創る。
魚が飛沫を上げる。
それを眺めながら、思い出したように小石を投げてみる。
座る向きを変え、視線を変え、溜息を吐き、
…そうやって1日、何をするでもなく過ごしていた。
夕方、土手の斜面で寝そべっていると、カクゲンが帰ってきた。
昨日と同じく、両手いっぱいにお土産を持って。
正直なところ昨夜の料理を食べたことで、単純に土産を楽しみにしている自分も半分いる。
あの、見たことも味わったこともない料理の数々。
紛らわしきれなかった退屈な時間も助け、カクゲンに近づいたのはアオの方。
知らず笑顔で迎え、荷物を一つ受け取り、2人一緒に小屋まで歩く。
手提げ袋の中から漂ってくる、芳しい香り。
これまで嗅いだ事のない、いい匂い。
2人並んで土手を下り、河川敷を渡り始めたそこで、アオはふとカクゲンが大人しいことに気づいた。
昨日とは明らかに違う言葉少ないその様子に、違和感を覚える。
隣にちらりと目を遣ると、彼は視線をやや下に落とし、神妙な面をしていた。
カクゲンは内面がすぐに顔に出る。
アオはその面倒を知っていた。
「何じゃお前、今日元気ないじゃんか」
「え、そう?」
「おう!」
敢えて声高に返事をした。
「……今日はね、昨日言ったでしょ、あの家にこーんなでっかいテレビがあるって。それを見させてもらったんだ」
「そうか」
「大人がね、テレビで何かバカなことやってた」
「そうか」
「………」
カクゲンは沈んでいるというよりは、何か考え事をしているように見える。
気を遣うアオは頬を引き攣らせ、鼓舞するように精一杯の笑顔を浮かべた。
小屋に入るとすぐに、2人は明るいうちに食べてしまおうと料理を広げ始めた。
そして昨日と同じように法律に則り、アオはポケットから500円を取り出して、カクゲンに差し出す。
すると彼はそれに手を出す前に、困惑したような顔でアオを見た。
「あのさ、アオ」
「ん?」
アオは手にお金を持ったまま。
「今日もさ、いろいろ遊んでもらったんだよ、おじさんに」
「おう」
「それでさ、もう帰ろうかなぁって言ったら、一緒にお風呂に入ろうって、おじさんが……」
「うん」
「それでね、おじさんが先に僕の体洗ってくれて、僕もおじさんの背中とかお返しでゴシゴシやってたんだよ」
「うん」
「そしたらさ、何だか分かんないんだけどさ」
「………」
「おじさんがち○ち○を舐めてくれないかって、僕にさ」
「………え?」
「だからさ、ち○ち○を舐めてくれってお願いしてきたんだよ」
「………」
2人の知識では到底答えの出ない、そんな出来事。
「だからさ、僕さ、ヤだよ汚いって言ったんだよ」
「………」
「そしたらおじさん、急に慌てだしてさ、今日は帰りなさいって。僕、何かやっちゃいけないことやったのかなぁ…」
当然アオも返事に困る。
『おじさん』とカクゲンの遣り取りが何か特殊なことだとすら思わない。
知識の調べは何かに乗っては来ないのだ。
「……お前それ、洗うてくれ言われたんじゃないんか?ほんまは。聞き間違えたんじゃないん?」
「いや、違うよ。聞き間違えてないよ」
「そうかぁ?」
「でもおじさん、明日もおいでって言ったんだよね。だけど今日は帰れって……」
カクゲンはそう言って、言葉を切った。
ここで言うべき自分の言葉など、持っていない。
アオは大急ぎで頭の中を掻き回す。
そして、
「………そりゃ向こうは大人じゃけぇ、お前が何かしでかしたとしてもやたらめったらにゃ怒りゃせんよ。じゃけど、お前が何か悪いことしたんかもしれんで?明日会うたら一応謝った方がええんじゃないんか?こんなにごはんも持たせてくれて、良うしてもろうとるんじゃけぇ」
自分を大人に置き換え、出来る限りどこかで何かで見聞きしたような言葉を読んだ。
「………」
「お前、明日も行くんじゃろ?」
「………うん」
遠くまで見渡したところで、アオの返事はこれが限界。
カクゲンが見、体験してきたことを知らないアオ。
「………」
俯くカクゲンを見ながら、不意に『青く実るといいね!』
誰かがそう言っていたのを思い出した。
意味も分からず『うん』と応えた自分も思い出した。
子供は大人に負けておいた方がいい。勝ち負けではなく、負けておけばいい。
仄かにアオはそんな風にも考えていた。
アオには以前から、週に一度は必ず見る夢がある。
それが面倒でもあり、取り付く島とも分かっていた。
毎回内容は全く同じで、これで何度目になるかは覚えていない。
背伸びするようにして握る手は、自分のものよりも大きく、少し柔らかい。
アオはその相手と、ある一軒家を見上げて立ち尽くしている。
面と向かわない、届かない視線から、
「母ちゃん、中に入らんのん?」
拙い自分の言葉に、限りなく白いその相手はしばらく沈黙する。
やがて返事をするように、アオの小さな手を握り締めるあたたかな手にほんの少し力が加わった。
平面的ではない、その感触。
アオは訳が分からないまま、もうすでに飽きてしまったにも関わらず相手の真似をして、同じようにその家を見上げる。
そうやってしばらくの間、2人その場に立ち尽くしていた。
「……もう……行こうか」
ようやく口を開いた相手の声は、掠れたように悲しげで、消え入るようにか細い。
一見軟化したかのように見え、それでいて手強い目の前の光景。
2人は凸凹の手を繋いだまま、その家に背を向けてゆっくりと歩き出す。
アオは、自分たちがその家に入らないことを不思議に思うようだった。
「ねぇ、中には入らんのん?」
再びの問いに相手は足を止め、アオに視線を合わせるように屈むと両肩をぐっと握りしめてきた。
そして必ずこう言う。
「あのね……忘れちゃあいけんよ。絶対に忘れんといてね。あの家のこともね、母ちゃんのことも……忘れたら許さんのじゃけぇね」
肩から背中に腕が回り、ぎゅっと抱き締められる。
あたたかく、やわらかいのも毎回同じ。
その後場面が飛び、アオはその相手と新幹線に乗っている。
初めて乗る新幹線に興奮し、飛び上がるように窓にへばりつき、遠くと間近の景色を交互に目で追う。
そこで、いつも目が覚めてしまう。
週に一度は必ず、忘れるのを阻止するかのように走り書きを残して来た、夢。
忘れてしまった、忘れてはいけないこと。
絞って取られた割には贅沢な、微かな生き物は、それでもまだそこかしこで生き続けている。
あの頃から使っていた言葉だけは、今でも何とか忘れずに。
取り合えず、と狼煙を立てながら。
朝、アオはいつもの時間に目を覚ました。
そしていつものように隣で寝ているカクゲンを起こさぬよう小屋の外に出、日課の筋トレを始める。
1時間ほどそれを済ませた後、今日もまたあの石に手を掛け、持ち上げてみる。
「うん――――……ッ!!」
浮いた石に納得し、それを地面にドスッと投げ落とす。
「ハ――――……ッ」
やはり今日も一度が限度。
アオはいつものように力の抜けた体を石に預けようとして、
「………?」
そこで気付いた。
昨日まであった3つの石。
昨日の夕方までは確かに3つあったのに、1つ足りない。
横たわっている石は2つしかない。
「………」
アオの知識で今、理解できる傾向や現実はこう。
こんな重たいモン、誰が運んで行ったんや。
その場で持ち上げるのがやっとじゃのに。
世の中にゃよけぇ人がおる。
ワシはまだまだダメみとうなのぅ…。
少し肩を落とし小屋に入ると、カクゲンはすでに起きており、着替えを始めていた。
低くなった肩がバレないよう、話しかける。
「何じゃ、今日もえろう早いじゃんか」
「そうだよ」
「こがいな時間からもう行くんか」
「うん。アオが昨日言ったじゃん。僕が何か悪いことしたんだって。だから早く謝りたくって」
昨夜自分が言った言葉。
もちろん確信などはない。
ただ思い当たることを言ってみた。
それしか思いつかなかったことを言ってみた。
「そうじゃったのぅ…。まぁアレじゃ、世話になっとる身なんじゃけぇ、怒っとるようなら取り合えず謝っときゃええよ。のう?」
「そうだね」




