第一章 勇者、故郷の味を見つける
魔王が滅んでから、もうずいぶんと長い年月が過ぎた。
王都の中央広場には今でも勇者一行の像が立っている。聖剣を天へ掲げる勇者、その隣で祈りを捧げる聖女、杖を手にした賢者、そしてなぜか腰に剣を下げながら吹き矢を構えている剣聖。最後の一人については造像を担当した彫刻師が何度も首を傾げたらしいが、本人が「これでいい」と言ったので、そのまま完成したという。
その英雄たちの一人、真田蓮は、その日の朝、王都の市場で麻袋を抱えて立ち尽くしていた。
「……これ、蕎麦じゃないか?」
袋の中には、黒みがかった小さな実が詰まっている。
香りも形も、蓮の記憶にある蕎麦の実によく似ていた。
「旦那、そいつなら北の山間部で採れる雑穀だよ。パンにしても膨らまねえし、貧しい村で粥にするくらいのもんさ」
穀物商の男が興味なさそうに言う。
「粉にはできるか?」
「そりゃできるが……うまくないぞ?」
「いいから。これ全部くれ」
「全部?」
商人が目を丸くした。
それから一時間後。
蓮は大きな袋を肩に担ぎ、自宅の扉を開けた。
「ただいま」
居間の奥から、ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「おかえり、お父さん」
長女のリナだった。
肩まで伸ばした淡い茶色の髪は母親譲りで、目元には父親の面影がある。年齢の割にしっかり者で、最近では蓮が忘れた予定を教えてくれることすらあった。
「それ何?」
「秘密兵器」
「また?」
「またってなんだよ」
「この前は魚を干してたでしょう」
「あれは干物を作ってたんだ」
「お母さん、すごく怒ってたよ。洗濯物が魚臭くなったって」
痛いところを突かれ、蓮は目を逸らした。
そのとき台所からクレールが現れた。
かつて聖女として魔王討伐に参加したフランス人女性であり、今では蓮の妻である。結婚当初より少しだけ髪を短くしているものの、その青い瞳と凛とした表情は昔と変わらない。
「Ren. What is that?」
「食材」
「その答え方をするときは、大抵ろくなことにならないのよ」
「失礼だな」
「魚」
「リナと同じこと言うなよ」
クレールの日本語は、結婚当初とは比べものにならないほど上達している。
もっとも、怒ったときは今でもフランス語に戻る。しかも恐ろしく早口になるため、蓮はいまだに半分ほどしか理解できない。
「蕎麦に似てるんだよ」
「Soba?」
「ああ」
蓮は袋を開けて実を見せた。
クレールが指先で一粒つまみ、眺める。
「これを麺にするの?」
「そのつもり」
「面白そうね」
予想外に好意的な返事が返ってきた。
そこへ、もう一つ小さな影が居間から飛び込んできた。
「ごはん?」
長男のルイである。
「まだだ」
「食べられる?」
「粉にしてからな」
「今食べられない?」
「固いぞ」
ルイは袋に手を突っ込もうとした。
クレールがその腕をつかむ。
「Louis」
「……はい」
蓮が呼んでも止まらないのに、母親が名前を呼ぶだけで止まる。
父親として少し納得がいかない。
午後。
蓮は市場の粉挽き屋で実を挽いてもらい、灰色がかった粉を持ち帰った。
水を加え、こねる。
しかし思ったようにまとまらない。
「こんなだったかな……」
「お父さん、料理できるの?」
「一人暮らししてたからな」
「それ、料理できるって意味じゃないと思う」
「リナ、最近お父さんに厳しくないか?」
娘は答えず、母親の隣へ行った。
クレールも黙って蓮の手元を見ている。
「小麦粉を少し混ぜるか」
蕎麦だけではつながりにくい。
記憶を頼りに配合を変え、何度もやり直した。
夕方近くになって、ようやく細長い麺らしいものが出来上がった。
「できた!」
蓮は得意げに声を上げた。
鍋の湯へ麺を入れる。
茹で上がったものを冷水で締め、簡単なつゆを用意する。
醤油そのものはないが、この世界には魚醤や発酵調味料がある。魔王討伐後の長い年月を使って、蓮はかなり日本料理に近い味を作れるようになっていた。
食卓に四人分の蕎麦が並んだ。
「これが、お父さんの国の料理?」
「そう。まあ、本物とは少し違うけどな」
リナが麺を一本持ち上げる。
ルイはすでに食べている。
「おいしい!」
「早いな!」
蓮も口へ運んだ。
香りは違う。
つゆも違う。
それでも、喉を滑る感覚に懐かしいものがあった。
「……これだな」
小さく呟いた。
クレールは黙って何口か食べている。
「どうだ?」
「悪くないわ」
「悪くない?」
「おいしいって意味よ」
「最初からそう言えよ」
するとクレールは、残っていた蕎麦粉を見た。
「少し使っていい?」
「何するんだ?」
「私の国にも、これと似た粉を使った料理があるの」
水と塩を加え、薄い生地を作る。
平たい鉄板を熱し、油を薄く引いて生地を流す。
香ばしい匂いが立ち始めた。
そこへ卵を落とし、燻製肉とチーズを乗せる。
蓮は腕を組んだ。
「クレープ?」
「ガレット」
「ああ」
そういえば、そんな料理があった。
焼き上がった一枚を四等分する。
リナとルイが真っ先に手を伸ばした。
「おいしい!」
「こっちも!」
蓮も一口。
「……うまいな」
「でしょう?」
クレールが勝ち誇ったように微笑んだ。
「でも蕎麦の方が、この粉の香りは分かるな」
「ガレットの方がいろいろな具材を合わせられるわ」
「蕎麦だろ」
「ガレットでしょう」
夫婦の間に静かな火花が散る。
リナがため息をついた。
「どっちもおいしいのに」
ルイがガレットを食べながら頷く。
「両方!」
その一言に、蓮とクレールは同時に黙った。
しばらくして、クレールが言った。
「ねえ、Ren」
「ん?」
「これ、他の人にも食べさせてみない?」
「他の人?」
「お店」
蓮は彼女の顔を見た。
「食堂ってことか?」
「週に何日かだけでも」
思いつきに近い話だった。
魔王を倒したときほどの決意もなければ、国家の命運も懸かっていない。
けれど蓮は、目の前に置かれた蕎麦とガレットを見た。
「……面白そうだな」
「でしょう?」
リナが身を乗り出した。
「私もやる!」
ルイも手を上げる。
「ぼくも!」
「お前は食う方だろ」
「食べる!」
「やっぱりな」
家族四人の食卓から、王都に一軒の奇妙な食堂が生まれようとしていた。




