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終話 真心をあなたに

夜伏やぶせ彰楽子あきらこを抱えあげ、一歩足を踏み出した。その瞬間、忽然とそこにいたはずの人々の姿が失われる。彰楽子は首を巡らせた。

「ここはもう、他界だ」

 石段を踏みしめて登りながら、夜伏は説明する。「他界はどこにでも偏在している。人の国と同じ場所もあるし、そうでない場所もたくさんある。この社もそうだ。神に捧げられたものだから、なおさら両方に跨っている」

 別宮には真新しい注連縄が飾られていた。夜伏はずかずかと別宮のなかに入る。なかに蝋燭の火が入っていて、ぼんやりと明るい。

 五十畳ほどの板敷の一間、中央に布団が敷かれており、その奥に祭壇が設えてある。彰楽子はぎこちなく布団からは視線を逸らした。ふわりと体温が上がり、脈拍が早まった気がして彰楽子は男の肩に置いた手の指を丸める。

 一年前のあの夜から、初めて二人きりになる。そんな日は、もう来ないと思っていた。

 布団からは外れ、夜伏は床に直接腰を下ろした。胡坐をかいた膝の上に彰楽子を後ろ抱きにして乗せる。髪をひと房手にとり、梳きながら、夜伏は「髪が伸びたな」と感慨深げに呟いた。

 肩よりも十センチばかりしたの位置で、彰楽子の髪は揃えられている。

「もう……あちらでは一年以上が経ちます」

「こちらでは、たったの十四日だ」

 穏やかな語り口、彰楽子を引き寄せて鼻先を髪に埋め匂いを嗅ぐように呼吸される。皮膚が戦慄く。

「だが……根の国に閉じ込められたような、日日だったな。またお前をこの腕にできて、これほどの喜びはあるまい。家のものも安堵するだろう。帰ってくるのを待っているぞ」

 鼻先が首筋を辿り、筋にかるく噛みついた。ふる、とちいさく震えた彰楽子は半身振り返り、夜伏の太股にてのひらを置く。

「お怒りでは……ないのですか。どうして。あなたも、皆も。わたしはあなたに……、――あなたを刺して、約束を違えて、……逃げたのに」

 あの空寒い感触は忘れようにも忘れられない。忘れたくもない。夜伏にとってはほんの二週間前のこと。怒りにまかせ、彰楽子を殺してしまってもおかしくないのに。屋敷の皆だって、大切な主人を刺されて、憤っていないはずがないのだ。

 顔までも侵食していた赤い紋様はいまはもう見えないけれど、あのときはひどく苦しんでいた。御山に異変が起こるほどに。まさか死んでしまいはしないかと、彰楽子の方がしばらくは無事でいられなかったくらいだ。

「気づいていたんでしょう、あのとき。――なぜそのまま刺されたんですか」

「賭けをした。お前を手に入れられるか。幸せにしてやりたかった。私もお前と幸福になりたかった。あのままでは不可能だったろう。剣を持っている臭いがして――、いっそ、腹をくくるしかないと思った。くくっただけの成果はあったな。どちらにせよ、逃がす気はなかった」

 賭けに勝った、と夜伏はご満悦だが、彰楽子はその代償が気になってしかたがない。

「傷は。……大丈夫なのですか」

「まあお前から受けた傷だからな。大丈夫とは言わん。だがもうさほど支障はないよ。――お前の弟の氣も混じって濁ったしな」

 ふん、と夜伏は面白くなさげに鼻を鳴らす。「見るか?」夜伏はおもむろに諸肌を脱いだ。引き締まった上半身、鳩尾のあたりに赤く引き攣った傷跡が生々しく残っている。すでに塞がってはいるものの、自分がしでかしたことだから傷の深さがどれほどのものか、よくわかる。文様も傷を中心にまだ広がりを見せていて、完治とは絶対に言い難い。しかも先ほど、そこを梓伊那に殴られてはいなかったか。

「いた……痛、み、ますか」

 自身が傷を負ったように顔を歪め、彰楽子は堪えた。どのような具合か確かめたいが、あまりに傷が痛々しくて容易には触れられない。葛藤する彰楽子を夜伏は引き寄せ、面白がるような調子で訊ねた。

「後悔しているか、これを」

「はい……」

 夜伏は彰楽子の頭がはっきりと動いたことを確認すると、満足げに目を細めた。

「……咎めを負う覚悟はあるか」

 冷然とした問いかけに、彰楽子ははっとした。悲鳴が漏れる。

「いかようにも罰してください……!」

 彰楽子は咄嗟に床に平伏した。

 咎めてほしい、詰ってほしい。夜伏が能うだけのやり方で、徹底的に彰楽子を傷つけてほしかった。そうしてくれなければ、彰楽子の気が済まない。

「ああ、だがその前に先ほどの返事を聞かねばならん」

 そこで彰楽子は、中途半端になっていた夜伏の問いを思い出した。

「お前の憂いは払ったはずだ。家族も村も、今後は無事だろう。後はお前の感情の問題だ」

 彰楽子がどうにもできない領分はなんとかした。だから次、お前は私への気持ちと、罪悪感、それにどう折り合いをつける。

 強い眼差しが、彰楽子に注がれる。

「――――選べ」

 彰楽子は伏せたまま、じわりと夜伏から距離をとった。

「ゆ……、赦されずとも、二度と逢えずとも、ここであなたに一生お仕えしようと思ったのです、夜伏神……」

 なぜなら、それが唯一、彰楽子が成せる夜伏への証明だったから。夜伏が心底彰楽子に愛想をつかせていても、そんなもの必要としていなくても、自分自身への証として、それは必要なことだった。でも。

 妻なんて、そんな過分なことを望んだわけではなかった。もう望めないと思っていた。それでよかったのだ。夜伏などと呼び捨てられる立場にない。その隔たりが安らぎだった。

「お前は自身の罪悪感をとるんだな? 私の気持ちは、無視か。それとも罪悪感から仕えるのか。それなら要らん。神と呼ばれるのも不愉快だ」

「ですが……!」

 夜伏は彰楽子の細い腕をとり、無理やり顔を上げさせた。

「その言葉づかいもなんだ? 何のつもりだ。いい加減我慢がならん。生身より偶像の私を好むと言うのなら、はっきりそう言え。いますぐ殺してやる」

「……っだって、おかしいでしょう……!」

 瞳を歪め、彰楽子は叫ぶ。

「私が何をしたのか分かっている? 刺したの! この手であなたを! 普通なら死ぬの! あれだけ血が出て、普通ならわたしは人殺しなの……! 誰かの命を引き換えに、誰かを助けるような、絶対にしちゃいけないことをわたしはしたのよ! どの面下げて赦しを請えるって言うの……っ」

「だが私は生きている。人ではなかったから、刺したのだろう。そもそも物差しがおかしいのだから、さっさと捨てろ。もし滅びていたらお前の好きなように殉じればいいが、私が生きてここにいる以上、私を選ぶのは当然だろう」

 夜伏は彰楽子の薄い腹に手を当てる。鋭い眼差しが彰楽子を動けなくする。

「私を愛したと言った。産むなら私の子だと。それは嘘か?」

「っう……嘘じゃない、けど……!」

「賭けはぬか喜びだと言わせるつもりか? 私に神楽を舞っておいて、それでもそのつもりがないだと?」

「だって……!」

 視界が熱く濁り、夜伏の瞳の金縛りが解ける。ぼろぼろと涙が床に落ちる。

「……何度もっ、――裏切ったのに……っ」

「……お前はなにも切り捨てられぬ子どもだから」

 夜伏は鋭い目もとを和らげた。「それでいい。お前は逃げる、と言っていた。それを実行しただけだ。だから、」

 ぞっとするほど美しい笑みが、夜伏の口の端に乗る。ささやかれる低音に、どれだけ自分が夜伏に執着されているかを思い知る。

「いい。赦す。――――何度でも逃げろ」

 彰楽子はたまらず顔を覆った。

 やさしい、やさしすぎて、怖いくらい。馬鹿だ、夜伏は。思い通りにならないこんな人間、縊り殺してくれればいいのに、彼は絶対にそれをしない。夜伏の愛情は、恐怖と紙一重だ。

「私はどこへもやらないと言った。……さいわい時間はたっぷりある。何千も何万も。何度でも連れ戻して、最後にはお前に思い知らせてやる。どれほど私がお前を愛しているか。お前の居場所はここだけだと、――――彰楽子」

けれどその感情が、彰楽子に喜びを与えてやまないのだ。

「お前は肝心なところで諦めがよすぎる。もっと貪欲に求めろ。私が欲しくないのか? 私が別の誰かのものになっても、構わないんだな? 私を縛りたくはないか」

 彰楽子は目を見張った。

 夜伏を自分のものに。夜伏が他の誰かのものに。そんなことは、考えたことがなかった。でもそう考えると、相反する感情に心臓が痛くてたまらなくなる。

「そんなこと、言っていいの……」

 彰楽子は、本当はとても欲深い少女だ。いろんなことを諦めてきたから、手に入れられたものはきっと決して手放せなくなる。

 夜伏だけは、もう二度と。

「言え」

 彰楽子はぽつんと呟いた。

「――もう、どこへも行けないわ……――」

 その深さに囚われてしまった。そして夜伏は、それを心底願っている。それが、わかる。彰楽子は指先でそろそろと夜伏の傷を確かめた。痛むことがないよう、そっとくちびるを寄せる。もう二度と夜伏が傷つくことがないよう、願いを込める。彰楽子の氣を受けてゆるゆると癒えていく傷に、彰楽子は泣きそうになりながら微笑んだ。傷を辿り顔を上げると、そこに目を慈しむような眼差しで彰楽子をみる夜伏の顔がある。

「――――もう二度と、あなたを傷つけたりしないわ、夜伏」「――彰楽子」

「……わたしを望んでください、夜伏。あなたの妻になりたいです。あなたが他の人のものになるなんて、耐えきれないのです」

 返答は口づけで返された。懐に強く抱きこまれ、深くふかく口づけられる。

 想いすべてをぶつけるようなそれに、彰楽子は夜伏の広い背にしがみついて応える。

 夜伏は何度も口づけ、彰楽子の名前を呼ぶ合間、「愛している」と囁いた。そんな夜伏の一言ひとことに彰楽子は溺れて抜け出せなくなる。 

 彰楽子は覆いかぶさってくる男の重みを抱きしめた。こころの底に落ち込んできた感慨にひたすら涙を流す。

 帰ってきた、と彰楽子は思った。帰ってこられた。夜伏のもとに。

 もう何の憂いもなく、彰楽子は夜伏のものになれる。

「……すきなの」

 ふっと夜伏は目を見開き、その驚いた様子に、彰楽子はとうとう泣いてしまった。泣きながら、笑う。とてもとても、幸福な涙。夜伏が同じような顔をして、また彰楽子をきつく抱きすくめる。

「――――すきよ、夜伏」




 一生告げられなかったはずの言葉を、やっと言えた。



                                        《 終 》


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