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第三話 AR表示

 砂浜で目覚めた当初、やってきたのはこのネコ科の猛獣だったのだろうか。

 海月はふと思い付く。


 この今や死骸である猛獣は、木に容易く登っていた。木の上に留まる鳥にとっても脅威だっただろう。あの時一斉に飛び立ったのは、この猛獣が鳥に襲いかかったがための騒ぎだったと考えても、無理はなかった。

 まあ確証は得られないし、この種類の猛獣が一体だけということもないだろう。だから安心はできないが――人間ではなかった。

 その意味では海月は安心してもいいのだろうか。


 自問する。


 それは結局、どんな確証があれば自分は人間に怯えなくてもいいと安心できるのか、という問いだ。


 これがあれば安心だ、という何かがあれば、海月はここに漂着する前に恐怖症を克服できていただろう。

 つまりこの猛獣を倒したことで、海月が行動指針を変更することはない。可能な限り慎重に、人間に見つからないように行動するだけだった。


 痙攣もしなくなった猛獣の死骸の首根っこを掴んで引き摺って移動する。二百㎏近そうな重さだが、向上した身体能力は簡単に引きずって行く。

 砂浜へ。そこで解体するつもりだった。


 肉食獣の肉は臭くて食えた物ではないとどこかで読んだことがある。だから目的は肉ではない。


 投擲杖による投石に耐える毛皮と、棍棒を一瞬にして噛み砕く牙。

 これらが目的だ。解体には手間がかかるだろうから、難儀ではあるが、その価値はある。


 それに、AR表示の謎も検証したい。解体することで読めない文字の内容が明らかになったりはしないだろうか。そんな期待もあった。砂浜までの道のりで、石包丁の材料になりそうな石を拾って集めておく。


 幸い、砂浜まで何にも出くわさなかった。

 岬の影で包丁を作る。昨晩は洞窟の中で行ったが、波打ち際の音でも結構紛れてくれると判断した。それに、この猛獣を狩ったことで、多少警戒レベルを下げていたのだ。

 作った石包丁を、胸骨の真下に突き刺してみる。だが、刃が立たない。

 丁寧に毛を分けて皮を露出させ、改めて突き入れてみる。意外なほど抵抗がなく刃が皮下に埋まった。

 勢い余って内臓を傷付けてしまったかもしれない。

 まあ初めてだから仕方がない。悪臭を覚悟して、下腹に向かって一気に切り裂いてみた。

 これまた意外なほどあっさり切れた。

 皮というやつは裂け目を入れれば思いの外よく切れるのだと知った。


 腹直筋に入った切れ目を広げると、少し黄色がかった皮下脂肪が露出する。想像以上にその脂肪の層は厚く、やはり臭い。ただ、胃腸の内容物が漏れているための匂いではなく、皮下脂肪が臭いのではないかと海月は推測。動物の臭いは確か低級脂肪酸などが主な芳香成分だったような覚えがあったのだ。

 岬の影の岩場に溜まった海水で手を洗いながら、臭いをできるだけ無視して、切り裂いた脂肪の層に両手を突っ込んで広げ、腹直筋に切れ目を入れてから両手で一気に開腹する。

 胃と小腸と大腸と肝臓と脾臓がまず見えた。膵臓もあるのだろうが、海月には大網や腸間膜脂肪と区別が付けられなかった。とりあえず見える範囲で腸間膜を切って小腸や大腸を体外に履き出してみる。どうやら肝臓に繋がる血管を切ってしまったせいで、粘性を帯びた血液が溢れ始める。一旦海水に浸して洗った。血を洗い流してみれば、小腸を避けたそこには後腹膜脂肪に半分埋まるようにして腎臓が見える。それらも外した。岩場の窪みに移しておく。横隔膜を切り裂いて、胃を下に引っ張り、食道を半ばから切って、消化器系をすべて取り除いた。


 すっかり空いた腹腔から胸腔を覗き込み、心臓や肺を確認する。


 なんで自分はこんな生物の解剖学の勉強みたいなことをしているのだろうと、ふと我に返るが、まあ一応ということで、肺や心臓に手を触れてみた。

 どうという具体的な感想はない。


 消化器系を取り除き、血を洗い流したおかげか、臭いはマシになった。単に麻痺しただけかも知れないが、まあこれで毛皮を剥ぐのが少しはやりやすくなるはずだった。


 ここまで来たらもののついでということで、膀胱と睾丸も取り除く。

 そこまでやってから、傍と気付く。AR表示の一部が読めるようになっていた。


『♂』


 性別の欄が開放されたらしい。ここまでやってそれだけか、とがっくり来たのは言うまでもない。ただ、やはりこのAR表示はそれが付いている生物の特徴を示すものであるとわかっただけでも収穫だろう。雑草はともかくキノコなどに性別があるのかは全く以て疑問だったが。


 毛皮を剥ぐことに取りかかる。


 最初は皮下脂肪と皮の間に石包丁を差し込み、刮ぐようにして剥がしていたが、やがて、皮を引っ張りながら皮下脂肪と筋肉の間に包丁を入れたほうが剥がしやすいということに気付いた。


 そこに気付いてからは、自分で驚くほどの手際で毛皮を剥いでいく。

 巨体であるため、結構な時間は食ったが、ほぼ全身を一枚にできるほどキレイに剥ぐことができた。


 毛皮をなめすのを先にするか、骨から筋肉を取り除くのを先にするかで悩む。

 そこでまた傍と気付いた。


 かなりの量の後腹膜脂肪や、精巣上体など、これらは膜に包まれた脂肪の塊だ。

 脂肪の塊ということは、よく火が着くということだ。そして油だから水と混ざらない。陰干しでもすぐに撥水して、火を着けられるだろう。


 もっと早くに気付いていれば腸間膜の脂肪も回収したのだが、腸と分けるのが面倒臭そうだし、毛皮に付いている皮下脂肪だけでも相当な量が採れるので、要らないと言えば要らない。


 毛皮をなめすのは後回しだ。

 つまり筋肉を骨から取り外す作業が先である。


 その前に何度か往復して、内臓脂肪の塊を洞窟に運び入れる。乾かしておけばもしかしたら解体作業の終了と同時に火を付けられるかもしれない。


 そうしてから、かなり切りにくい腱を石包丁をいくつもダメにしながら骨から外し、筋肉を取り除く。

 欲しいのは骨だった。


 けれど肉を取り外して改めて観察するが、どこの部位を見ても使い道が思い付かない。牙は尖っていて、刺突用武器の先端に着ければ使えそうだが。どうしても使い勝手が悪そうなイメージしか湧かない。棍棒として使えそうなのは後肢の大腿骨くらいだが、骨だけになってみると意外にも軽く、骨髄が乾けばより軽くなるだろう。加工しやすい分、木の棍棒の方がまだマシな感じだった。


 しばらく悩んだが、まだ残っている肉をすべて剥がすことを止め、砂浜に穴を掘って結構な深さに埋めた。


 何か使い道が思い付けば掘り出すこともあるだろう。今のところそんなことになる予感は全くしないわけだが。


 これだけ膨大な手間と時間をかけて――すでに陽が沈もうとしている――獲得したのは、臭くて食えた物じゃなさそうな肉に、毛皮、そして脂肪だ。


 これを進歩としていいものかどうか、海月の水準が低い判断基準をしても際どいところだ。

 肉を洞窟に運び入れようとしたときに、ふと気付く。


 潮が満ちてきているのは当然なのだが、潜ろうとしたときにふと海の深瀬側にAR表示があることを発見した。


 なんだろうと眼を凝らせば、三角形の何かがあった。

 背ビレだろう。

 きっとイルカではない。鮫に違いなかった。


 ネコ型猛獣の血を海に流したことで誘き寄せてしまったのだろう。数㎞先であろうと鮫は血の臭いを嗅ぎ付けるとどこかで読んだことがある。

 慌てて砂浜に舞い戻る。


 水棲の猛獣はマズい。いかに自分の身体能力が向上しているとはいっても、勝てる気がまったくしなかった。

 しかも――海月はAR表示が付くかどうかについて、少しだけ推論が得られていた。


 というのも、ネコ型猛獣は明らかに海月の知る動物の基準を超えた攻撃力を持っていた。ネコ型猛獣の間抜けさに救われたが、そうでなければ確実に死んでいた。そもそもあんな巨体が、飛びかかる直前まで海月にその存在を察知させなかったのだ。あれも考えてみれば不思議なことだ。


 そして、自分の向上している能力。


 きっとAR表示が付く動植物は、それが付いていない動植物にはない能力があるのだ。例えばAR表示の付いているキノコは毒性が強いとか、そういったことがありえる。自分を観ることができないが、海月を海月と同じような存在が観れば、AR表示かそれに対応する何かが感知できるのではないか。


 それは一旦措いても、AR表示が付いている動植物は能力面で警戒を強める必要があると海月は考えた。


 AR表示の付いた鮫なんか、どんな能力を持っているかわかったものではない。近寄るのはおそらく自殺行為だろう。未だ鮫の巨体が泳げるような深さではないが、それも確実ではないということだ。


 潮が引くまでは洞窟に戻るのは諦めた方がよさそうだった。

 手持ちの肉と毛皮を持って、海月は密林の奧へと引っ込むことにした。



 そういえば肩口の傷が痛む。樹木に肩を擦らせてしまったためだ。


 どうして今まで意識しなかったのかと、海月は首を傾げた。

 アドレナリンの分泌のおかげか、血は早期に止まっていたし、思ったよりも深い傷ではなかったためだとしても、海水に触れれば激痛だったはずだ。


 まあいいか、とすぐに切り替える。気にしなければ気にならない程度の痛みなら、気にしなければいいのである。それに、向上した能力にはおそらく回復力も含まれているのだろう。すでにうっすらとした皮膜が傷口を覆い、その膜を引きつらせなければ痛まない。慎重に行えば作業の邪魔にはならないだろう。


 毛皮のなめしを行うことにしたのだ。

 といっても、必要な材料は何もないので、まずは皮に付いている脂肪を刮ぎおとすことだ。


 解体で慣れていたのか、それともこの毛皮の膜が特別頑丈なのか、その行程は意外に簡単にできた。具体的には陽が沈みきる直前には終わっていた。


 今できるのはこれだけなので、刮ぎ取った脂肪を樹皮と大きな葉っぱにくるんで蔦で縛り携帯しやすくする。肉も同じようにした。


 そして川を探すために移動する。


 途中で思うところあって、AR表示付きの雑草を根っこから回収して集め、束にして蔦で縛り、持ち運ぶ。


 散々歩き回ったが、幸運にも猛獣にはでくわさなかった。

 すっかり暗くなっていたが、暗視によって移動にそれほどの苦労はしない。耳をそばだて、ついに水の音を捉えた。


 地形に縦に窪みがあって、その傾斜の底に細い川が流れていたのだ。

 喉は渇いていたが、飲むのは止めておいた。

 石や泥を集めて、川を堰き止める。


 水溜まりになったところで毛皮を頑張って洗った。雑草も洗う。

 ちょうど良い岩があったのでそこに毛の側を下にして毛皮を広げる。その上に雑草を敷き詰めた。そして、丸い石を使ってひたすらに雑草を潰してその液を毛皮に浸透させる。


 ひたすらだ。向上した腕力がなければ早々に諦めただろうというくらいにひたすら潰す。刷り込む。もっと拾ってきて、敷き詰め、刷り込む。ただひたすらに刷り込む。


 無心でそれを行い、手がなんだかガビガビになり、足下に垂れてきた雑草の汁が痒みを誘発したが、やっぱりひたすらに刷り込んだ。


 何をひたすらに行っているのかというと、タンニンなめしという手法を試しているのだ。


 すり鉢もすりこぎもないし、作ったタンニン入りの液体を溜める器もないので、いっそ毛皮に直接刷り込めばできるのではないかと思ったわけである。


 上手く行くかは不明だ。AR表示が付いている雑草ならもしかしたらなめし効果が強くなっているかもしれない。そんな程度の根拠である。

 裏返して同様にひたすら刷り込む。思い付いて、刮いだ脂肪を乗せて雑草と一緒に潰してやっぱりひたすら刷り込んだ。リンス効果を狙ったのだ。


 元々上手く行くかどうか不明なので、やれることをやってみているだけだ。タンニンなめしには最短でも一月はかかるとどこかで読んだので、AR表示付きの雑草が海月の思った通りの効用がなければ絶対に失敗する。


 ひたすら行ったため、海月はちょっと頭がどうにかなってしまっていた。絶対失敗するとわかっているのになぜこんなことをしているのか。


 けれど、無駄ではなかった。

 なぜならある時を境に、突然AR表示に変化があったのだ。


【ヤマネコの毛皮】

【ナメシ草】


 何、その都合のよさ。

 海月は呆然とした。


 あまりにもご都合主義が過ぎて、そのインパクトのせいであのネコ型動物がヤマネコと称されるということに対する疑義などは吹き飛ぶ。

 それらのAR表示には他にも色々と注釈が開放されていたが、それを読む気力も湧かない。


 海月はその場にへたり込んだ。

 ガタガタと震えてガチガチと歯が鳴る。


 これは人為だ。

 海月が知らないことが表示されるということは、何者かがその注釈を書いているということである。


 人間の影が見えたことで、海月は精神に恐慌を来したのだ。


 不意打ちだった。

 AR表示を視ることができるのは海月の能力であっても、AR表示が付く物を特別に作った者がいる。それは何らかの目的があってそうしているのだ。


 皮をなめし加工するなんてことをするのは、人間以外でありえるだろうか。


 少なくとも同等以上の知性的な存在であることは間違いない。


 ――いや、だとしてもそれが人間であるとは限らない。


 別に海月は人間が知性を持つから怖いのではない。それは条件の一つでしかない。ただ、人間が怖いのだ。


 徐々に落ち着いてくる。

 不意打ちだったから恐慌に至ってしまったが、考えてみれば人間にそんな技術はない。少なくとも海月の知る範囲では、本来なら最短でも一週間はかかるなめしを一時間強程度の時間で済ませてしまうような植物を作るような技術はなかった。


 従って、これらは少なくとも海月の知る人間という存在の生み出した物ではない。


 絶望するのはまだ早い。

 酷く喉が渇いていた。落ち着いたらそれが猛烈に意識された。


 ナメシ草の注釈に『葉汁を水に混ぜると解毒する』と表記されていたので、それを信じて葉に溜めた皮の水に汁を垂らして、飲んでみる。

 緑茶を不味い方向に渋くて苦くしたような味だった。

 気付けの効果は表記されていなかったが、苦みがその効果を発揮したのかも知れない。汁を混ぜた水にAR表示が出現したが、取り乱さず、すっかり海月は平常に戻った。


 一口では足りなかったので、何度か口に運んだ。

 そして考察を始める。


 AR表示はその対象の効果を一つでも明らかにすれば概ね開放される。そういうルールなのだと把握した。


 採取しただけではダメで、使わなければならない。もしくは加工することだ。毛皮の例がそれを示している。


 性別のような特徴は明らかにしても連鎖開放はしない。おそらくもっと見ただけではわからないような特徴や効果を把握しなければならないのだろう。これは正しく使用したら開放されるというルールに包含される。


 毛皮の注釈には防御効果という欄があった。具体的な数値ではないが、防刃効果と衝撃軽減効果があると記されている。防腐効果もあるらしいが、これはなめしたからだろう。実際その効果は後付けされたということを示すように、一番後ろに表記されていた。


 つまり、加工して効果を増やすことができるわけだ。そしてそれは必ずしもAR表示が付いている対象同士を掛け合わせなくともよい。ナメシ草の汁を混ぜた水がAR表示を示すようになったことからそれがわかる。


 従って、AR表示に書いてあることは、その対象の特徴や効果のすべてを記してあるわけではない。条件によってはそれが変化することも充分にありえる。ナメシ草の効用は他にもある可能性があるということだ。


 何者がこんな風にしたのかは、保留にしよう。どう考えても情報が足りない。


 都合がよすぎて恐ろしいが、有用であるならば利用するだけだ。海月は人間を恐れるが、人間が集積した知識を拝借して今まで生きてきている。自分のものにした知識ならば平気なのだ。そこまで忌避することはない。


 更なる検証のために、刮いで纏めておいたヤマネコの皮下脂肪をしっかりと見てみる。


【ヤマネコの皮下脂肪】


 ちゃんと皮下と付いているからには内臓のそれとは違うのだろう。

 効用に『傷薬として使用が可能』とある。

 肩口の傷に指で伸ばしてから塗布してみた。

 傷口の皮膜が厚くなったような気がする。腕を大きく動かしてみると、引きつれるような痛みがなくなっていた。


 どうやら先ほど樹木で擦過するまで傷を意識しなかったのは、ヤマネコの死骸を運ぶときにヤマネコの血が触れてこの皮膜を作っていたからのようだ。血の中には脂質が溶けているから、その効用だったのだろう。


 このことから、偶然的にその効用が発揮されてもAR表示内容が開放されるわけではないということが明らかになった。意識的にそれを使おうとしなければならないということだ。


 そういうことなら、とAR表示の付いている、剥がせる樹皮の樹木を探し、剥いでくる。


 その樹皮に、すり潰したナメシ草とヤマネコの皮下脂肪を混ぜて、塗り付けてみた。


【シジュの撥水紙】


 AR表示内容が開放された。

 あの樹はシジュという名前らしい。加工したことで開放されたのだ。

 そしてナメシ草を改めて観察する。

 効用表記が増えていた。


【植物性繊維に動物の脂と混ぜて塗布することで撥水性が得られる】


 起きた事象そのままだ。どうも注釈の内容は海月の作文能力が反映されている気配である。事象の解釈が間違っていたら、表記の内容に誤謬が生じる可能性があるということになる。なるべく詳細に観察しなければならない。

 だが有用だ。


 シジュの撥水紙を集めて容器を作った。不格好だが、紙コップのできあがりだ。


 川上から水を汲んできて、ナメシ草の液を絞り入れ、飲む。

 完璧だった。

 何かわからないがとても達成感がある。


 次はヤマネコの肉である。

 なにやら細かい部位がそれぞれで表記されているが、それは無視して適当な塊を手に持って観察する。


【体力回復効果】【強壮効果】


 とある。


 味については書かれていない。美味というのも効果であるような気がするのだが、違うのだろうか。


 些細な疑問はさておき、とりあえず毒はないようなので、念のためナメシ草の汁入り水(ナメシ茶。消毒効果がある)に浸してから、囓ってみた。


 噛み切ろうとしても歯が立たなかった。硬質ゴムでも噛んでいるかのようだ。しかも臭い。


 諦めて、焼くことにした。


 もうここまで来たら火を使うことを躊躇っている場合ではない。どういう場合なのかは知らないが。


 海月は自棄になっていたのだ。


 そんな心理状態でも、岩場の影に回り、枝などで庇を作り、煙を遮るといった工夫をすることは忘れない。ヤマネコの毛皮には【弱敵疎遠】という効果があった(この毛皮の効果はやたら多い)ので、それも乾かすついでに吊しておいた。海月の解釈が間違っていなければ、ヤマネコよりも弱い獣は寄りつかなくなるのではないかと思ったのだ。


 十数分もかけてから火を熾し、シジュの薪に火を付けて、石で組んだ竈差し込む。


 肉の筋繊維を分けるようにして木の枝を差し込み、串のようにして、表面を火で炙る。そうしてから、ヤマネコの皮下脂肪を塗った石竈の上に置いて、待つ。


 肉汁が表面に出る頃合いを見てから、裏返し、同じように待って、今度こそ齧り付いた。


 なんとか噛み切れた。それでも硬い肉だったし、臭みが強いのは相変わらずだが、食えた。


 AR表示の効果は焼いても変わらなかったが、はっきりとした体力回復や強壮の効果は感じられない。股間のそれは屹立していたが、プラシーボ効果と言われれば否定はできない感じだ。


 だが、なんだか充実感が溢れてきた。

 なんだろう。この感覚は。


 ヤマネコと戦っていたときにも感じなかった、生の実感らしきもの。それが海月の心身に満たされていた。


 涙が溢れ出てくる。


 ――ああ、俺は生きている。


 これが感動なのだ。楽しむということなのだ。


 決して旨くはない肉なのに、なぜだかいくらでも食べられる。

 二㎏は食べただろうか。


 胃がパンパンに張れたせいか、眠気が襲ってくる。


 吊した毛皮を降ろし、それにくるまって、海月は眠り落ちた。

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