46、アカ
カツンカツンとあたしの足に嵌まったヒールの音が響いている。ぐちゃぐちゃの液体はもうすっかり消えていて、鼻呼吸に戻したあたし達の周りを、さっきのにおいの余韻だけがむわり、と回っている。誰の口も、全く動く気配がなかった。ああ疲れているんだ。今日はたくさん動いたから。
この後はどうしよう、アパートに帰るとあたしは一人。一人でいるとどうしても何かを考えてしまうから。だからきっと、あたしはあたしでいられない。気が狂っておかしくなってどんどん崩れて、きちんと朝日を迎えられる気がしない。だからといって実家に帰るのはどうも気が進まないし、他に行くところなんてないのだ。そんなことを考えていると、外に出るのが恐ろしく感じた。
階段ばかりの暗闇は恐ろしい。この先も恐ろしい。空に近い屋上には戻れない。色んなものに挟まれて、あたしはぎゅうぎゅうと潰される。息が苦しいのはそのせいだ。
誰かが小さく息を吐く音が聞こえたのでぼーっとしていた焦点を合わせると、すぐそこに階段の終わりが見えた。あと五段。あと三段。あと一段。あたしの足は無意識に止まった。
「……佑月?」
宏の声。
――佑月っ!
あたしを呼ぶ声。澄んだ声が重なって弾ける。しぶきがかかる。
――佑月、ごめんね。心配したよ
――危ない、よ
見るからに戸惑っている好実の様子が、あたしの頭の奥から徐々に掘り起こされてゆく。
――大丈夫
――落ちちゃうかもしんないじゃん
鮮明に、なってゆく。時々吹く強い風に綺麗に靡く好実の髪。あたしと宏に向く真っ直ぐな声と瞳。三日月。静かな夜の町。透明な黒。――壊れるあたし。
せっかく整った息がまた荒れて、鼻だけでは追い付かなくなった呼吸は口に代わった。速くなる。速くなる。体の震えは止まらない。混乱しきった呼吸の音に混じって声が漏れる。泣き声なのか悲鳴なのかわからないその声は、気持ちが悪い程に響いた。
急に崩れたあたしに驚いた宏と李伊が佑月、佑月、とあたしを呼ぶのが聞こえる。反応する余裕なんてあるはずもなく、あたしの泣き声のような悲鳴はますます勢いと音量を上げた。
ハッ、と振り返る好実に向けて微笑むあたし。あたしのことなんて誰も気にかけていないその間に飛び降りてやろうと思っていた時、好実が気付いてくれたから。ちょっと嬉しかったんだ。
――だめ! 佑月! だめ!!
――離して!!
フェンスを飛び越える好実。あたしに回される細い腕。耳元で叫ぶ。
急にふっ、と体に纏わり付いていた力が解かれたと思った。丸くなった瞳はやっぱり真っ直ぐにあたしを見ていた。
好実の瞳があたしに問う。それは高校時代からずっと変わらない、素直で飾らない言葉に乗せられた疑問で、――
どうして突き落とすの?どうして突き落とすの?どうして突き落とすの?
「いやあああああああああ」
事実はオブラートを纏ってはくれない。剥き出し状態のソレはまるで刃物で、何度も何度もあたしを刺した。宏が、矢田が、壊れる程に愛していた好実は、同じように壊れたあたしが突き落としたのだ。
――そうだよお前だよ! お前がこのみを殺したんだよ! このみを、殺したんだよ!!
あたしが、ころした
人の腕があたしに回されたから、体中がビクンと恐れた。やめて。この後あたしは突き落としてしまう。刻み込まれた好実の瞳がズキズキとうごめく。
「佑月」
宏の声と共に、あたしに優しく回された腕に力が込められた。好実の腕とは違う。分かっている。これは宏だ。慰めてくれてるのだ。分かっている。だけど、
「やめて! 離して!」
あたしの声は大きく響いて、頭で回り続ける記憶とシンクロする。震えが止まらない体は動くことを恐れてじっとしている。いやだ。やめて。ころしてしまう。
「ごめん」
そんなあたしの気持ちを察したのか、宏はパッ、と腕を解き、代わりにあたしの手を握った。
指と指が絡んで、宏の強い温もりが伝わる。これから嫌というほど向き合わなければならない現実の第一歩が目の前に迫っているのだ。好実がまだ生きているかもしれないというわずかな希望がもし叶っているのなら、あたしは一生孤独で惨めになってもいい。好実が生きていると分かった時の幸せで、きっとあたしは生きていける。ただの自己満足なのだけれど。
好実が視界から消えた後どうなったのか、あたしは知らない。それが現実味をことごとく削っていた原因だった。直面は、すぐそこだ。
あたしが落ち着くまで、二人は静かに待っていた。宏の手がくれる安心によって少しずつ呼吸は元に戻ってゆくのを感じて、あたしはまた怖くなる。一生の塵程の時間で落ち着ける程に軽いものなの?
――お前のせいなんだよ!!
矢田の怒声が降る。
あたしはやっぱり最低だ。
ようやく元に戻った呼吸を確認した宏は、しゃがみこんでいたあたしを立たせて前に進む。李伊もぎゅっと目をつぶり、先へ進む。最後の階段を下りた。カツンカツンとヒールの音。ビルの入口。
「……え?」
階段の黒に慣れていた目には、外の黒は随分と明るかった。広がるのは赤い色だった。そこに在るのは、夜の黒に侵食され、鮮やかさを無くした赤い色だけだった。
「…………好実は?」
李伊が三人共通の疑問をまず口にした。大きな水溜まりのように溜まっているその中心にあるはずの、好実の姿が見当たらないのだ。彼女が落ちた後は少しだけしぶきが飛んでいるようで、暗くて見えにくい中でも所々に染みが見える。あたしの足にきちんと嵌まっているモノと同じ色をしていた。ハァハァとついさっき聞いた音がまた口から漏れ出すのを聞いた。息が速くなったり遅くなったりを繰り返し過ぎて肺が助けを求めているのか、胸が張り裂けそうだ。
希望は、――?
「好実もしかして……自分で歩いて……?」
李伊がぽそりとそんなことを言ったから、光は消えはしなかった。でも、――こんな出血で?
「佑月、好実の家分かるか?」
宏の声は大きくて、少しだけ荒かった。あたしの息と同じだ。あたしは頷いた。
↓
続、