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鳴らない鈴  作者: 久賀 広一
3章 遠き思い、近き人
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第6話 保留


 ツムギは縫い目を掴んだまま、足を踏み替えた。

 見えない紐が、足首を引いている。

 転ばない程度の力だが、“ここに居ろ”という強制だけは、はっきり伝わってきた。


 机の人間のペン先が、次の欄に落ちた。

 『隔離番号』

 文字ではなく、番号。

 いったん振られたら、人権が適用されない“処理対象”になる――そんな冷たさが、欄の白さに感じられた。


 コハクが唇だけで言う。

(番号って、手錠みたいなもんでしょ。やだよ)

 青年は布切れを握りしめ、固まっている。

 怖さもあるが、動いた瞬間、何かを差し出すことになると分かっているため、戸惑っている。


 ツムギは、縫い目を一気に剥がし切る――その衝動を、飲み込んだ。

 乱暴に裂けば、帳面は“欠損”を補うために、別のものを奪って釣り合いを取る。

 子どもの喉や口は、まだ安い代替品だったろう。


(ここは、戦って勝つ場所じゃない。――ただ押し返す場所だ)

 ツムギは、机の人間の目を見た。

 相手に悪意は、無論ない。彼は命令するのでも脅迫するのでもなく、ただ運用だけをこなしている。


 ツムギは息を吸い、口を動かした。

 ――隔離番号は不要。

 ――照会は「外交印」による。

 机の人間の眉が、ほんの僅かに動いた。

 “外交特権”は存在する。確かにある。

 ツムギは続ける。


 ――外部者は、隔離ではない。

 ――客人として認可申請。

 ――そして、照会内容は、外交官の帰途予定。

 コハクが、横で口の形だけ笑った。

(ツムギ、いま完全に役所の人みたい)

(仕方ないだろ)

 ツムギは、青年の胸元を指で示す。

 布切れ――まだ残っている印。“手続き”の存在は、国あればこそ。その力を利用しない手はない。


 青年が再度、布切れを帳面の『照会者』の欄に押し当てた。

 白い紙が、ほんのわずかに沈む。

 ――吸われた、というより「認められた」沈み方だった。

 机の人間のペン先が止まる。

 書こうとしていたのは番号だったが、布切れが照会者として沈んだ今、それでは誤りになる。


 机の人間は、こちらを見ない。

 見ないまま、帳面の端を指で押さえ、ページを一枚――ゆっくりめくった。

 パラ。

 新しいページの上部に、最初から印刷されていたように文字が浮かぶ。


 『保留』

 ツムギは息を止めた。

 勝ったのでも、納得させたのでもない。

 ただ――「机の人間の手続きは止まった」。


 見えない紐が、足首からすっとほどける。同時に、背中側の光が少しだけ近くなる。

 コハクが、おどけるように言った。

(いまの、いちばん強い魔法だね。“保留”)

(魔法って言うな)

(言いたくなるよ。準備不足なのに、バシバシ人を切ってたなんて)


 机の人間は、まだ無表情だ。

 だが、その手だけが確かに疲れている。

 人間の手だ。

 書き続け、自身の私見は求められず、止めることを許されなかった手。


 机の人間は、ペンを置いた。

 代わりに、帳面の隅を一枚だけ、指で摘まんだ。

 書類を丁寧に破り取ると、紙片がひらりと宙に浮く。

 まるでこの部屋の空気にもきちんと力が作用しているように、それはあやつられるような流れで、ツムギの足元へ滑ってきた。

 そこに書かれていたのは、簡素な記号。


 道筋でも地図でもない。

 「行き先だけを示す線」。

 青年が、喉を動かした。

(……これ……街の中心の──)

 机の人間が、初めて顔を上げる。

 目が合った。

 冷たい目じゃない。どちらかと言えば、配慮すら感じられる。

 

 ――照会、受理。

 ――期限、短し。

 ――次。

 ツムギの背筋が冷えた。

 机の人間は“戦う相手”じゃない。

 ただの運用係であり、「次へ送る装置」でしかない。


 背後で、子どもが石を叩いた。

 コツ、コツ。

 合図だ。急げ、という。

 ツムギが振り返ると、子どもは喉を押さえ、必死に口を開き――息を押し出した。

「……い……る……」

 短い。

 でもそれは、確かな言葉だった。

 青年の顔から血の気が引く。

 控えの記号を見て、子どもが指さす方向を見る。

 尖塔の外――無人の街の奥、白い旗が立つ尖塔よりさらに向こう。

 コハクが紙片を覗き込み、問いかける。

(ねえ、これ……次は、より大物ってこと?)

(たぶん)

(最悪。……でも、行くしかない)

(うん)


 机の人間が、もう一度だけ口を動かす。

 意味だけが落ちる。

 ――保留中、接触禁止。

 ――国民に触れれば、記載が要る。

 ――記載されれば、番号が戻る。

 ツムギは、理解した。

 ここでは、安易に人を助けられない。外部の人間と関わることが、お互いのためにならないルールが作られている。


 救う順番を変えるしかない。

 ツムギは子どもに膝をつき、声を出さずに口を動かす。

 ゆっくり。はっきり。

 ――ついてくるな。

 ――どこか安全な場所で待て。

 子どもはうなずき、近くの建物に行くことを手ぶりで示した。

 ……青年が彼に指で丸をつくる。そして布切れを、胸に押し込み直した。

 失わないように。忘れないように。

 それからツムギを見る。


 目が「行こう」と言っている。

 ツムギは立ち上がり、コハクを見る。

 コハクは小さく肩をすくめる。

(はいはい。次の受付へご案内)

(やめろ)

(だってツムギ、もうすっかり手続きの人)


 扉の外へ出ると、光はちゃんとあるのに、国の空気は薄いままだった。

 草の匂いはちゃんとするのに、生活の匂いがしない。

 遠くつづく無人の街――屋根の輪郭だけが並ぶ景色が、いっそう書類上の“紙の街”みたいに見えた。


 青年が、控えの記号を握りしめる。

(──終わってない)

(まだ、いる)

 ツムギは、彼が指す方角へ顔を向けた。


 尖塔の中から、最後に一度だけ、紙をめくる音が聞こえた。

 パラ。

 追ってはこない。

 ただ――期限が進む音だった。

 コハクが、口の形だけで言う。

(ねえ、ツムギ。ここから先、たぶん“国の中心”に行くよ)

(うん)

(……で、中心ってだいたい、嫌なものが待ってる)

(分かってる)

 ツムギは、青年と目を合わせる。

 三人の足は、そろって動いた。


(――行こう)

 机の人間は、保留で止めた。

 今度は、保留が効かない場所へ。

 おそらく、この国の“手順”が始まった場所だ。




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