逃げる。
『飯に釣られた生臭坊主が、なにを言っていやがる』
四郎兵衛は腹の中で毒突いた。
目に入った汗を汚れた袖で拭う。
『畜生め。何もかも、真田喜兵衛たらいう田舎者が、いきなり千曲川の左岸に手を伸ばして、俺達の里の塩田まで盗んでいきやがったのが悪ぃんだ』
考えただけで胸が焼けてくる。四郎兵衛は奥歯をきしらせた。
上田盆地は千曲川の川筋で南北に別けられている。
南側……川の流れでいえば左岸……には、山を遠く背にして開けた土地が広がっている。このあたりは、京の都から発して奥州へ向かう東山道の宿駅が置かれていたから、奈良平安の昔から栄えていた。
鎌倉の頃には、執権北条氏の一族が塩田荘に封じられた。この人々は塩田流北条氏と呼ばれる。
そういったわけだから、京都と鎌倉の両方からの人の行き来が、この地にはあったのだ。
東西二つの都に影響を受けた塩田平の文化的な発展は著しいものだった。二十一世紀の今日においても、この地には両地にゆかりある古刹が多く残されている。
北側、すなわち右岸は、左岸に比べると平地と呼べる場所が少ない。
平らな所は、暴れ川である千曲川が山肌を削って作った台地で、猫の額のほどの狭い平地が何段も重なっている。
その先に、あぐらをかいた巨人のような山がある。その太郎山山系の山並みは、平地の北側沿いに衝立屏風さながらに連なっている。
この屏風のような山の裏側に真田氏の本拠があった。
そこが真田という地名であったから彼らは真田を名乗っているのだが、元をたどると清和源氏で海野庄に封じられたとか、滋野朝臣の流れだとか、朝廷への貢馬を育てる牧監の望月氏の遠戚だとか自称している。
四郎兵衛のような由緒正しい塩田衆に言わせれば、
「そんな話は眉唾物だ」
ということになる。
千年前から都と往来のあった塩田に根付いている彼らから見れば、真田などは、
「未開の山奥から出てきた田舎侍」
に過ぎないのだ。
その真田氏が、ほんの二十年ほどの間に――少しばかり戦ぶりが巧妙だったからというだけで――上田全域を支配するに至った。
かつての支配者である塩田北条氏は、鎌倉幕府と運命を共にして消え去った。
そのあとにこの地を治めた村上義清は武田信玄に負けた。
村上の一族郎党の多くが故郷から追い出された。
その頃の真田は千曲川の岸から北に遠く山奥の砥石城あたり――ここも元は村上の城だったのを、真田のなんとかという生臭入道が騙り奪っていった――でグズグズしていた。
それが信玄が死ぬと急に、なんとか入道の倅だという真田昌幸とかいうのがやってきた。
この男は、このあたりに残っていた国衆・土豪達を丸め込んで、自分の家臣にしてしまった。
その真田昌幸のやり方が、四郎兵衛には気に入らなかった。
連中が侍らしく槍で領土を切り取りに来て、一戦戦い、自分たちが負けたならまだ諦めが付く。
だが昌幸という男は、塩田勢の家中の誰かに内通を持ちかけて、内部から取り崩すやり方を好んでやる。
これを、
「戦で人が死ぬのを好まないからだ」
などというのは嘘の話だ。元に、昌幸は話に乗らない奴原を幾人も密かに殺している。
村上一族の内、越後へ落ち延びた義清に従わず、塩田の地に踏みとどまり、千曲川左岸に勢力を巻き返ししつつあった室賀正武も、昌幸に謀殺された。そして室賀配下の者共はほとんど昌幸に吸収されてしまった。
ただ、その手をかいくぐって逃げ、上杉や徳川の支配下へ組み込まれた者もいないではなかった。
