ねえ、綺麗でしょ
写真でしか見たことのない景色。
その風景は、十歳になるかならないかくらいの詠斗に強烈な印象を与えた。
理系と呼ばれる科目の習得には天才的だった彼は、周囲の風景にはとことん無関心だった。
風景というのは景色だけではなく、人間や動物にも適用される。
養父である崎下でさえ、毎日顔を合わせているから覚えているだけで、三日も会うのをやめればしばらくだれか分からなくなるくらいだった。
崎下も仕事に関連する本ばかりで、例えば文学や絵画の本は一切なかった。
そんな崎下が唯一、本棚にしまっていた風景の写真集を一度だけ見せてきた。
『見てみるかい?』と。
何気なく本棚に目線を向けていただけなのだが、崎下は興味を抱いたと思ったらしい。
物珍しく開いてみたが、数ページ見てもなんの感慨も湧かない。
いつものことだ、と詠斗が無機質に呟いて何気なく開いた最後のページが、不意に詠斗の心を捕えた。
崖を越えたような場所から見える、夕陽の写真。
撮影場所の目線から、綺麗な長靴型の半島を包み込むように水色の海が揺蕩い、その海の中と上を、太陽が沈む際の鮮烈なオレンジ色が飛行機雲が差し込むように照らしている。
―——不覚にも、詠斗は初めて『綺麗だ』と思った。
それは自然の産物でありながら、幾何学で示す図面のように計算しつくされたようなものだ、と当時の詠斗は思っていた。
それでも、詠斗の目の輝きがほんの一瞬変わったとはいえ表情は無表情のままだった。
そして意志とは裏腹に、崎下に『全く興味がない』と伝えてしまった。
『綺麗だ』と感じても、それを言語化することは当時の詠斗にはできなかった。
その反応を見て、崎下はそうかと諦め気味に笑っていた。
崎下は記憶改竄の刑を受けている。詠斗のオリジナルも知っているはずだが、それは記憶から消えているはずだ。
写真だけで終わるはずだったその記憶が、今目の前で形になっている。
あの写真と全く変わらない、『綺麗な』景色が見えている。
「フフフ、この景色を、エイトと見たかったの!」
サオリがニコニコと微笑みながら、詠斗の横に立った。
やや冷たい、隙間風が二人の間をすり抜ける。
詠斗は景色の美しさで、思わず口がポカンと開いていた。
「…サオリさん」
感動が少し落ち着いて、サオリの方へ身体を向ける。
「綺麗でしょ?本物は」
―—————サオリの崩壊が、本格的に始まった。
彼女の身体がパキパキと音を立てて、結晶の粉となって崩れていく――――
結晶の粉は横切る風たちがまるで<元に還る>ようにオレンジ色の空へ舞いあげて消えていく…




