紙、そして砂糖と石
診療所では、ワタルが留守を守っていた。
「町の大人たちが、僕が疫病をうつして回ると噂しているという話をしただろう。伯父がその噂を耳にして、僕を往診に連れて行かなくなったんだ。」
勉強の機会なのに、ありがた迷惑だよね、とワタルは不貞腐れた。
医者である伯父が疫病をうつして回る心配はしないのか、と尋ねると、それより一刻も早く病気を治して欲しい。来るのは一人で十分だから、子供を連れてくるなと患者から言われたらしい。
「将来僕が診療所を継いだら、そいつの診察料をふんだくってやる」
因みに、それを伯父の前で言ったら殴られたそうだ。そして、もうやっているから忘れろ、とささやいたそうだが、聞かなったことにした方がいいのだろうか…
まあ、その患者は疫病ではなくただの風邪だったらしいので、少々の値上げでも害は少ないだろう、たぶん。
ミノが届けた桶を診療所の裏戸から運び入れる作業は、ワタルが手伝ってくれた。
裏戸を開けると、屋根がない広い庭のようになっており、ロープが張られ真っ白なシーツや晒しが干されている。白衣も2枚吊られていた。
更に奥に進むと、小さな屋根がつけられた井戸があった。
井戸の横に、桶を積み上げていく。洗濯に使うらしい。
桶の一つに、ワタルが晒しを放り込んだ。今から洗うらしい。
ミノが手伝おうと井戸の水を汲みかけると、ワタルの待ったがかかった。
「その水は使えないよ。一度沸かした水をつかわないと」
「そうなの?」
「沸かすことで、ある程度の汚れを殺すことができるんだ。もし水が汚れていたら、それが怪我から体の中に入ってしまうだろ」
ワタルは何を今更、といった顔で見てくるが、家の洗濯物にそんな手間をかけている家庭は少ないだろう。高額な診療費を取っている医者だからできること、というかこんな作業があるから手間賃が高いのか、などと邪推してしまう。
ワタルは別の桶で汲んできた水を晒しが入った桶に移し、洗い始めた。おそらく、沸かした後に覚ました水なのだろう。
ミノも手伝って洗濯をしながら、ワタルに青い小鳥とヤマネサシの話をする。
「鳥にだって、好みはあるんだろ」
とつれない返事だ。
つまらないので話を切り上げて帰ることにした。
空の台車を引きながら歩いていると、木の下で蹲っている女性がいることに気づいた。
商人か貴族なのか、白地に赤と金の上品な刺繍が入った良い服を着て、長い髪を綺麗な赤い紐で縛っている。
顔を覆って震えているが、泣いているのだろうか。
失恋とかだと面倒だな、と思いながら通り過ぎようとしたが、様子がおかしい。
近づくと、泣いているのではなく痙攣していた。
額に手を当てると、熱い。
これはあれだ、やばいやつだ。すぐに医者に見せなければ。
ミノは台車をその場に放り出して診療所に取って返した。
出先から戻ってきたワタルの伯父が話を聞いて飛んできた。
そのときに分かったことだが、彼女もワタルの伯父が往診に向かっていた家の者だった。
一家7人全員が罹患したそうだ。使用人や店員の罹患はなかったというから、店を乗っ取ろうとした従業員の陰謀説も取り沙汰されたというが、疫病と同じ症状だったためワタルの伯父がその可能性を全否定したという。
その情報はワタルからミノの両親に伝えられ、ミノは疫病の患者に触ったということで母によって問答無用で風呂に放り込まれた後、部屋に閉じ込められた。食事だけは、父が毎回部屋まで運んでくれる。
感染予備軍といったところだろうか。
何日も台車に触れていないので、何だか体が訛っているような気がする。
父が配達に呼び出してくれることを期待したが、この3日間で階下から呼ばれることは一度もなかった。
出かけてはいるようなので、配達も父がやっているのだろう。
退屈しのぎに、ヤマネサシの葉を浸した水で遊んでみることにした。
まず、平たい皿に水を少しだけ入れ、放置。数日掛けて水を蒸発させて何が残るのかを見るのだ。
何も残らないかもしれないし、小鳥が好む成分が出てくるかもしれない。
本当は煮詰める方が早いのだろうが、部屋の中で火を使うわけにはいかないので覆いをかけて気長に待つことにする。
次に、薄茶色の粉を取り出し、少量を小皿に入れる。
これは、砂糖を発酵させ作った粉に、石を削った粉を混ぜたものだ。
この小皿に、さっきの水を少量入れ、しばらく待つ。
……。
何も起こらない。
それはそのはずだ。これは、畑の肥料に反応する薬なのだから。畑の肥料が多ければ、水は青く変色する。
この薬は、以前、遠い町から期間限定でやってきた貸本屋の本で読んだのだ。確か、錬金術の本だったと思う。
両親の目を盗んでこっそりと砂糖を発酵させるのは難しかったが、石は比較的簡単に手に入った。
商人に石の特徴を伝え、手に入れてもらったのだ。3か月ほどかかった。
商人たちは、恐らくミノが錬金術を始めたと思っているのだろう。両親の協力もなく、金も無い小娘相手に高価な物は持ってきてくれないが、他の町で売れ残った錬金術関連の商品を、こっそり紹介してくれることはある。
町で疫病が流行りだす前の話だが。今は、町の外から人が来ることは滅多にない。
苦味を調べる紙のことも、錬金術の本で読んだ。
本を譲ってほしいと交渉したが、当時のミノの手持ち金では買えなかった。
両親に泣きついても、ミノが怪しい錬金術に興味を持たないようにと本を買ってくれなかったのだった。
他にも様々な実験方法が載っていたのに、ゆっくりと書き写す時間も紙もなかった。つまり。
ヤマネサシの水は、苦味があって、肥料の成分はない。
小遣いをつぎ込んで実験しても、今回分かったのはそれだけだ。
ミノは不貞腐れてベッドに横になる他なかった。
リン酸イオンの分析方法です。
アスコルビン酸とモリブデン酸アンモニウムを使います。
簡易水質キットとかで使われているやつです。
プラの小さい容器の口から少量の水を吸い込んで中の試薬と混ぜ、15分ほど静置するとリン酸に反応して青く変色します。変色の度合いで、濃度も分かる。
正式名称は、「モリブデン酸青吸光光度法」。




