15.まずは初めましての自己紹介
男は自分専用と思われる机に腰を降ろし、紅茶を啜った。
私はどこに座れば……と思っていると、
「やぁ、ずいぶん時間がかかったね」
作業台に突っ伏していたチェシャ猫が顔を上げてひらひらと手を振ってきた。
もしかしたら仕事を終えた彼は私が着替えている間に帰ってしまっているかもしれないと思っていたので、まだいてくれたことにほっとした。
チェシャ猫は決して私の味方ではないけれど、妙ちきりんな帽子をかぶった男に比べれば、私に友好的に接してくれる。
「お待たせして、ごめんなさいね。いろいろ服があって、その、悩んじゃって」
まさかメアリーの恋人の前で彼女の服を趣味ではないと言えるはずもなく、言葉を濁した。
「ふふふ、いいよいいよ、気にしないで。しばらく仕事は入ってないから暇なんだ。それにしてもさっきは白い服だったから、黒い服を着ると別人みたいだねぇ。肩のレースの部分がとてもセクシーだ」
にやにやと笑うチェシャ猫のこめかみに、リッパーが飛んできて命中した。
投げたのは男だった。
「……メアリーを変な目で見るな」
「もー、帽子屋さんは本当に嫉妬深いんだからぁ」
チェシャ猫はこめかみをさすりながら唇を尖らせた。
「というか、あの長い前髪があるのによく見えたわね……」
「お前もくだらないこと言っていないでさっさとそこに座れ」
至極真っ当な疑問を口にしただけなのに睨まれて納得できなかったけれど、男が顎先で作業台の椅子を差したので、黙ってそこに座ることにした。
「……さて、お前の質問に何でも答えよう。だが、お前にも私の質問に答えてもらう。私たちが持ちうる情報を合わせれば分かることはそれだけ増えるということだ。いいな?」
「いいわ。ただし私の分かる範囲でしか答えられないけどね」
「構わない。……まずはお前に質問を譲ろう。何が知りたい」
机に肘を突いて手を組んで、じっと私を見詰める。
男の目はいちいち鋭いので緊張する。
「そうね、まずは……あなた達の名前を教えて」
「名前?」
虚を突かれたように男が眉を持ち上げた。
「そう、名前。まずは自己紹介しましょうよ。私は伏野アリス」
正直なところ、分からないことが分からない状況だった。
そこで質問を考える時間稼ぎに自己紹介を提案したのだ。
「フシノアリス……、あまり聞かない響きの名前だな」
男が私の名前を呟きながら首を傾げる。
「へぇ、アリスっていうんだぁ、可愛いね。あらためてよろしくね、アリス!」
チェシャ猫が私に手を差し出した。
彼の手を握り返すと、チェシャ猫は嬉しそうにブンブンとその手を振った。
「チェシャ猫、あなたは名前はなんて言うの?」
「ん? オレはチェシャ猫だよ。だから名前なんてない」
「え! 名前ないの?」
思わず聞き返してしまった。
「ああ、ないよ。そもそも名前なんて他者と区別するために必要なものでしょ? でもオレはチェシャ猫だから。他と区別する必要はない。だって他はいないんだもん」
「つまりこの世界で唯一のチェシャ猫ってことなのね」
「そういうこと」
誇らしげにチェシャ猫が頷く。
彼の誇らしげな表情は、捕らえた獲物を飼い主に見せに来る猫のような無邪気さがあってなんだか憎めない。
「世界で唯一なんて羨ましいわね」
「そうでしょ、そうでしょ」
「帽子屋さん、あなたも名前はないの?」
チェシャ猫に帽子屋と呼ばれる男に質問を投げかける。
男は露骨に眉を顰めた。
「チェシャ猫なんかと一緒にするな。私はダリウスという名がちゃんとある。見ての通りどこにでもいる帽子屋だ」
「帽子屋さん、謙遜しなくてもいいよ。帽子屋さんは国外でもすごく有名なんだ。オーダーメイドの予約は一年待ちってこともあるんだから」
「へぇ、そうなの……」
帽子屋、ダリウスの珍妙な帽子を見る。
思わずこの世界の人たちの美的感覚に疑問を抱いてしまった。
「……何か言いたいことでもあるのか」
「な、なんでもないわ!」
男に睨まれ、私は慌てて首を振った。