小鳥
別作品『インセイン』の関連で小品を書いてみました。
あわせてお読みいただけると幸いです。
土曜日の午後、仕事が休みだった俺は最近始めた趣味の写真撮影に出掛けることにした。とりあえず形から入るタイプなのでそれなりにいい一眼レフをカメラに詳しいヤツから教えてもらい買った俺は、その一眼レフを首から提げて家を出た。
札幌はいい街だ。適度に都会だが、少し歩けば豊平川の河川敷など自然もある。
転職先に札幌の会社を選んだのには深い理由はなかった。北海道と言えば大自然、うまいものもたくさんある。
そして。
なんとも女々しいことこのうえないが、1年ほど前の失恋の痛手からなかなか立ち直れず、社内恋愛だった彼女の顔を見ていられなくなったというのが大きい。
何せ大学時代からの付き合いでたまたま同じ会社に入ることが出来、5年間ずっと彼女一筋だった。
しかし彼女のほうは長い付き合いに既に飽きていたようで会社に入って間もなく先輩と付き合い始めていたらしい。そう、二股だ。
別れ際はとてもきれいなものとは言い難くとても苦かった。思い出したくもない。
まだ26歳、若さと勢いで一気に転職と転居を決めた。
会社は完全週休二日で普通に土日が休みだ。前の会社はシフト制だったので5日連続で働くというリズムに慣れるまではひどく疲れたが、さすがにもう慣れた。
「鍵、よし」
一人暮らしですっかり身についた独り言がついつい出る。
マンションを出ると地下鉄の駅まで数分、ぶらぶら歩きながら被写体を探す。
晴れた日で日差しは強い。ふと日が翳ったので空を見上げる。
太陽が大きな入道雲で隠れていた。何気なくカメラを向けシャッターを切る。
「暑くなりそうだな」
誰にともなく呟く。
地下鉄の駅はもうすぐそこだ。レンズに蓋を嵌めゆっくり歩き出す。
なんとなく大通まで出てみる。さすがに土曜日は人が多い。
札幌市役所前に出る出入り口から地上へ出て、行き交う人をしばらく観察する。
自分が出てきた出入り口からエスカレーターに乗って出てくる人達。
吐き出されてくる人達の中に彼女はいた。
午後の日差しに目を眇めてサングラスをバッグから取り出すと、黒というよりはやや栗色の長いストレートヘアを後ろに流すようにかきあげてサングラスをかける。縁なしの華奢なデザインのサングラスがよく似合う。
黒い膝丈のワンピースに淡いラベンダー色のカーディガンが品良く似合っていた。
二十代前半くらいだろうか。
生足ではなくてヌードカラーのストッキングを履いているのがかえって艶めかしい。
小柄で華奢な体つきはまるで少女のようだったが、丸みを帯びた体のラインが女であることを主張している。
なんだろう、この肌が粟立つようなぞくぞくする感覚。胸がやけにざわめいて、でもそれは不快ではなくむしろ快い。
彼女が目の前を通り過ぎる。
「すみません」
思わず声をかけていた。
彼女は黙ったまま小鳥のように小首を傾げる。やばい、かわいい。
チキンなはずの俺のどこにそんな勇気があったのかわからないが、思わず言っていた。
「あの、いきなりですみません、ちょっと写真を撮らせてもらえませんか?」
唐突な申し出に彼女は小首を傾げたまま怪訝な表情を見せる。
「いや、その、別に変なのじゃなくて、すごく俺のイメージに合ってたから」
なんて説明したらいいのかわからないが逃しちゃいけない、そんな気がして必死にお願いする。
「いいですよ、ちょっとだけなら」
彼女は小首を傾げたまま小さく笑みを見せる。きっと彼女には俺の鼓動が聞こえているんじゃないだろうか、そう思うくらい胸が高鳴っていた。
「じゃ、早速」
すぐに始めないと小鳥のようにどこかに行ってしまう気がしたので、食い気味に言ってしまった。
彼女は相変わらず小首を傾げたまま柔らかく微笑んでいる。
札幌市役所前には小さな公園のようになっているところがあり小さな池とその真ん中に人が一人座れそうな岩がある。
「ごめん、サンダル脱いでその岩に座ってもらえる?サングラスも取って」
彼女はサンダルを脱ぐときれいに揃え、バッグにサングラスをしまった。
岩に移るのに手を貸す。白くて小さな手。ふっと花の香りが鼻をかすめる。
「こっち向いて両手で髪かきあげて、そうそう、で、もっと笑って」
写真を撮られるなんてことには慣れていないのだろう、最初は笑いながらもやや硬い表情だった。
しかしシャッターを切り続けていると高揚したように頬を少し赤らめ、はにかんだ自然な笑顔が出てきた。
最高の一枚が撮れたと思った。
「ありがとう、気をつけて降りて」
名残惜しかったが撮影を終え、岩から降りる彼女に手を貸す。
いい写真が撮れた確信で高揚していた俺は彼女に笑顔を向ける。彼女は少し照れているように見えた。
笑みを交わすと彼女が急に慌てたようにサンダルを履きサングラスをかけて立ち去ろうとする。
どうやらあまり時間がなかったらしい。
趣味で写真を撮るようになってからサイトを立ち上げ、会社の名刺とは別にプライベートの名刺を作ってそのサイトのURLを載せていた。その名刺を慌てて取り出し彼女に差し出す。
彼女は名刺にちらっと目をやってすぐにバッグにしまい走り始めた。
「じゃあね」
声を上げて手を振ってみた。その声に既に走り始めていた彼女が足を止め軽く会釈し、そして人ごみに紛れていった。
「連絡先、聞き損ねた」
思わず呟いてがっくりと項垂れる。札幌の人口ってどれくらいだ。また偶然会える確率なんてどれくらいある。
今日はもうそれ以上撮影する気分にはなれなかったので素直に帰宅した。
データをPCに取り込んで確認する。
池の上の岩に腰かけてはにかんだ笑みを見せる名前も知らない女の子。
これが、彼女との出会いだった。
現在書いている『インセイン』が初めての小説なのに、いきなりその関連作を書くという無謀なことをやってしまっています。
感想や評価など、どんどんいただけると筆者はたぶん小躍りして喜びますのでよろしくお願いいたします。