43.グラウンド・ゼロII
誰にも語られることのない過去。
自らの歩いてきたその軌跡。
それはたった一人の心の中に、ひっそりと生き続ける。
思い出されることも、忘れ去られることもなく。
グラウンド・ゼロ。
それは誰かの心の根幹。背負い続け、生きていく。
ルーク=フォルセティ。
生涯をかけた「祈り」を抱き、想い続けて。
* * * *
「無事の出航を見送りました」
その日の夕刻、ダイム港から戻ってきたハーズが端的に報告を寄越してきた。
執務机にかけたままそれを受けたルークは、「ご苦労だった」と声を掛けて労った。ハーズが報告を続ける。
「トール分隊八名は、二手に分かれました。トール大佐以下バーノン副官、重騎兵トラヴィス=レイルおよび軽騎兵ノルズ=ヘイスターヴィアの四名が竜の末裔の護衛につき、日の国へ向かいました。残る四名はゴルガソス本国へ帰任したことを確認しております」
「日の国?」
「まだ任務が残っていたようです。内容までは申し訳なくも把握できておりません」
「そこまではさすがに望まんよ、ありがとう」
生真面目なハーズに対し、ルークは首を横に振った。
無事の出航。
その言葉を内心で繰り返した時、この二週間ほどずっと張りつめていた気持ちがふと緩むのが分かった。
少なくとも、無益な戦闘は回避できた。
国軍側の負傷者も、末裔側の死も、どちらも現実のものとはならなかった。そしてファティマス国軍の足元たる首都レベノスの治安は保たれ、住まう民は新年祭を例年と同じように楽しみ、また日常に戻るだろう。
竜の末裔を見た。
その言葉から始まる数多くの嘆願を受け、国軍はまず北ファティマスを入念に捜索した。本日のダイム港調査を以てその任務はほぼ終了となる。南ファティマス捜索に関しては、交易路も既に無いことを鑑みて打ち切りあるいは海岸線に沿った極僅かな平野部だけで充分な説得力を持つだろう。
結果は白。
竜の末裔はその存在を見つけられず、おそらくは光の加減による見間違いだった、と国軍上層部およびアスガルド王へ報告される。
それをやるのは他でもないルーク自身だ。
「本日にて特命任務から解任する。期待を大きく超える働きだった。礼を言う」
ルークはそっと目礼を渡した。
敬礼はできない。公的な任務ではないからだ。それでもどうにかして表したかった大きな感謝を、そこに全力で乗せた。
ハーズは直立不動のままだった。
簡単に敬礼で返してこないその思慮深さが本当にこの部下らしく、そうと認識してからは短い間だったが、それでもルークの頬は僅かに緩んだ。
「――大変貴重な経験をさせて頂きました」
言葉と共に、ハーズが腰を深く折り曲げる。
無言の時が数秒流れる。
再び頭を上げたハーズはそれ以上はなにも言わず、「失礼致します」と折り目正しく挨拶を残し、執務室から退出していった。
扉が完全に閉まったのを確認した後で、ルークは椅子に背を預けた。
ふう、と息を吐く。
思ったよりも細く長かったそれには、自分が思う以上に疲れが滲んでいた。
と、そこで執務室の扉がノックされる。ルークが在室であることは表にかけられている札で分かる。そのまま待っていると、ややあってから顔を覗かせたのはラッセルだった。
「宜しいですか」
このタイミングだ、話の内容は訊かずとも知れた。
ルークは無言のまま指で札を裏返す仕草を投げる。心得た顔になったラッセルは一度扉を閉め、それから次はノック無しで入ってきた。
「ちょうど角でハーズと行き合いました。特命は完了ですか」
「ああ」
「では、……無事に脱出できたのですね。末裔は」
特命に対して思うところを抱えているはずのラッセルだったが、その声はどこか安堵しているようでもあった。
そういうところがこの幼馴染の人間性を表している。
幾度となくそういう部分に触れてきて、これが何度目なのかはもう覚えてはいない。ただ、良い奴だなとその度に思ってきたし、今もまたそう思う。
「無事にゴルガソスまで辿り着けると良いですが」
「心配ない。万全の俺たちが護衛するより、怪我をしていてもトール分隊の方が余程安全だろうさ」
「さすがに謙遜が過ぎるのでは? それより」
ふとラッセルの視線が、執務机の一点に注がれた。
「あの祈りの石。最近見ていませんが、どうしたんです」
「ん、……ああ」
机上の隅、小さな革張りのトレイを見る。そこにずっと置いていた青い祈りの石は、確かにラッセルが指摘したとおり今はもうここに無かった。
十九年だ。
最後の末裔狩りが終わり、国軍全体に配られた褒賞。
その全てをはたいて求めた石は忠誠を誓う為の青で、つい先日までずっとルークはそれを常に目に見える執務机の上に置いていた。
勤務時間中には宝飾の類を身に付けられないからだ。
国軍に入隊してからずっと共にいたラッセルは当然、それを見慣れている。十九年も当たり前にあった光景が変われば、確かに違和感もあるだろう。
どう返すか。
少しだけ考えたが、上手い理由付けはできなかった。
「欠けたから捨てた」
不注意で引っかけて落とし、その衝撃で。
ルークがそう続けると、ラッセルは俄かに信じ難いという顔をしてみせた。
彼はなにかを言いたげに口を僅かに開く。が、とうとうなんの言葉も出ては来なかった。それはあの日、ルークが竜の末裔と密かに出逢ったことを知らないからこその反応だった。
「どうせ独り身だ。持っていたところで、……」
言い訳のように呟く。
ラッセルの鋭い指摘に、吐いた小さな嘘が棘になってルークの胸に刺さった。
祈りの石。
かつて自分には妻がいて、若い頃に病死したのは事実だ。だが本当は妻への贈り物でもなんでもない。その点だけは彼女にあの石をただ受け取らせるだけの口実でしかなかった。
個人的な思い入れを渡されるなんて、迷惑以外の何者でもないだろう。
だから少なくともルークが抱いていた気持ちを彼女が知ることはないし、表向きは彼女の先々に石の加護があれば良いと願うのみだ。
忠誠の青。
本当は誓う本人が持つべき石だが、特に長く大事にした貴石には不思議な力が宿ると聞く。それが僅かばかりでも災厄を払い除けることがあるのなら、そこで石が砕け散ってもそれはそれで良かった。
十九年間、肌身離さず大切にしてきた石だ。
それこそ祈りがしみ込んでいるだろう。
それが、――その祈りが誰に対して、そしてなにに向けてなのかは、十九年経った今尚ルーク自身でさえ言葉にできないが。
「南ファティマスの探索を明日実施して、それからアスガルド王に報告しよう」
「――はい」
ラッセルはそれ以上なにも訊いてはこなかった。
その距離の取り方に内心で感謝しながら、窓の外を見る。夕暮れだ。赤く染まる落日が、レベノスの街並みに沈んでいく。
血のようだな、とルークは思い、それから目を閉じた。
アスガルド王への報告の為に指定された場所は、いつもの謁見広間ではなかった。
国王居城の中の一室だ。
そして時間も深夜、日付が変わる手前だった。他の政務が立て込んでいたと聞かされたが、それにしても遅い。
ルーク自身は少将という職務に就いているが為に、命令があれば昼夜問わず即応する義務があるし、事実そういう任務もこれまで幾度となくあった。だから一日のどの時間であったとしても厭うことなどない。
しかしアスガルド王は違う。
いくら政務が立て込んでいたとはいえ、こんな時間にわざわざ報告時間を取らなくても良かった。
実態として「竜の末裔は発見できなかった」という速報は既に入れている。調査の詳細といっても、明朝、他の将官も揃う朝議の場で仕切り直すことで、なんら問題は無かった。
それなのに、ルーク一人が呼び出されたのである。
灯りがほとんど落とされた居城内の廊を歩きながら、ルークはずっと理由を考えていた。
「陛下。フォルセティです」
指定された部屋の扉をノックし、名乗りを上げる。
中からはすぐに返事があり、ルークはそっと扉を開けて中へと身体を滑り込ませた。
「来たか」
「お疲れのところお時間を賜りまして申し訳ございません」
「いい。私がそうしたいと言った。座りなさい」
アスガルド王が指し示したのは、彼の真向かいにあるソファだった。
ルークは一瞬戸惑った。
この部屋は小さいが豪奢で、明らかに王族、少なくとも貴族階級が使う場所だ。石造りの暖炉、その前に置かれた光沢の石卓と刺繍布のソファ。窓には重厚絢爛なカーテンがかかり、敷かれている絨毯は舶来の織物と見える。
ただの制服を着ているだけの自分が、入口から一歩でも先に進んでいいとは思えない。
まして長居をすれば、アスガルド王に疲れを残すだけだ。
「過分なお言葉痛み入ります。詳細報告ではございますが、そう長くはかかりませんので」
「そうか。報告の後に私からも訊きたいことがあるから、座ってほしい」
「浅慮申し訳ございません」
ルークは最敬礼の後、最初に示されたソファへと腰を下ろした。
目の前で、アスガルド王が小さく頷く。
それを契機にルークはずっと温めていた内容を口に出した。
「新年祭初日に上がった竜の末裔の目撃情報に関して、ファティマス全域の探索をこの二週間で実施しました。証言として挙げられたのは虹彩異色症ですが、結果としてその特徴を持つ人間は発見できませんでした。情報提供者にも詳細を聴取しましたが、竜の末裔と思われる人物はフードを被っていたらしく、人相風体に関してほとんど情報が得られておりません。おそらく、光の加減でたまたま瞳が異色に見えたものを群衆の中の一人が見誤り、騒ぎ立て、事実確認がないままに不確定情報が駆け巡ったのだと思われます」
つまり、竜の末裔と目された人物はいなかった。
そうルークが結んだ後、しばらくの間アスガルド王からの反応は無かった。
夜の静寂が部屋に満ちる。
分かった、という理解の言葉も、他には、という確認も来ない。
ただ深く静かにアスガルド王は考え込んでいる。その瞳は燃える暖炉の光を反射する石卓に注がれていた。
そこには杖が立てかけられている。
過去に負った傷で、右足が悪いアスガルド王が歩行補助の為に使っているものだ。木を削りだしただけの簡素な杖。貴石もはめ込まれず、装飾文様が彫り込まれてもいない。
アスガルド王は誰になにを言われてもこの杖を別のものに換えることを拒んでいる。
そうルークは人伝に聞いたが、理由までは分からない。
視界に映るものにあれこれ思いを馳せつつ、どれくらいそうしていただろうか。
これほど長く口を噤むアスガルド王は初めてだ。
そうルークが内心で気付いた時、僅かな衣擦れの音が響いた。伏せられていたアスガルド王の視線が上がる。そして、
「本当に?」
ごく短い問い。
しかし衝撃は大きかった。
「と、おっしゃいますと……?」
必然、慎重な返しになる。
これまで上げてきた報告に対し、質問を受けたことはあっても疑義を呈されたことはない。
その真意を確かめるべく待つと、やがて硬い頬のままでアスガルド王が続けた。
「言葉のとおりだ。色々なことに私は疑問を抱いている」
「かしこまりました。一つずつお伺いしても宜しいですか」
「……律儀な男だな」
疲れたようにアスガルド王が笑った。
それからまた少しの間、沈黙が訪れる。ルークは背筋を伸ばし、握った拳を膝の上に置いて静かに待った。
「私が一番訊きたいのは、……いや、違うな。言いたいのは、竜の末裔が実際にいるのではないのか、ということだ。もっと言うならば、生き残っていてほしい、とさえ」
「陛下、それは――!」
「分かっている。これを口にすることで、私は二つの過去を否定することになる」
一つは今、ファティマス国軍少将であるルーク・フォルセティの報告を。
もう一つは過去、十九年前の末裔狩りの結果と正当性そのものを。
淡々と、いっそ空恐ろしいほど静かにアスガルド王が言った。
その意味を理解したルークは、すぐには声を出せなかった。あまりのことに口を引き結ぶしかできない。身を硬くしていると、「覚えているか? 私が末裔狩りを命じた時のことを」と問いかけられた。
無論忘れてなどいない。
あの時に抱いた沢山の疑問――竜の一族が遺した高度な技術、旧王家がその痕跡を消した理由と新王家が逆にそれを保護している真意――それらは未だにルークの胸の中で燻っていた。
そして、最も記憶に残るあの言葉。
他でもないアスガルド王が放った「だから私は当時、最後まで反対していたのに」というあの一言が、今でも胸につかえている。
「覚えております。アスガルド王は、十九年前の末裔狩りに反対であったのだ、と私は理解しました。しかしそれを部下たちに話すべきかどうかは……私は判断を付けかねました。今もです。ですから、誰にも口外はしておりません」
「――そうか。他の将官たちも、おそらくそうなのであろうな」
「なぜ反対を?」
「やりたくなかった、というのが最も正しい言い方だ」
一度でも誰かを迫害したという事実を国として作ってしまうと、二度目は簡単に起こり得る。まして、最初は国が主導してやった迫害を、国民に対してやるなとは言えるわけがない。
道理が通らないことであるのだ、とアスガルドが言った。
「国の成り立ち、国としての建前上、一度決定したことは守るしかない。そうでなければ国としての正当性が疑われることになる。そして民からの信も得られない。まさか自分がこの国を継ぐとは思っていなかったが、どう転んでも負の遺産になることは分かりきっていた。だから反対した」
それは一見、もっともらしい理由だった。
納得しかけて、しかしそこで踏みとどまる。これは十九年前の説明に表向きなっているが、一方でルークの報告に対しての理由にはなっていない。
気付いたルークは少しだけ考えて、それから踏み込んだ。
「竜の末裔は、殺されるべきではなかったと?」
迫害そのものが悪手であることは事実だ。
だがアスガルドの発言は、迫害そのものの是非を語りながらも、同時にその対象となった竜の一族そのものに対して特別な想いが滲んでいる。それがどういう言葉で象られるものなのかは、ルークには分からない。
分からないから、訊くしかなかった。
「――なにがあったのですか」
反省すべき、という言葉で一括りにできるほど簡単な過去ではない。
十九年前、一兵卒に過ぎなかったルークと、王家の重臣だったアスガルド。
同じ日を生きながら、互いに見ていた景色は絶対に違う。
問われたアスガルド王は、苦渋の顔のままそっとその右頬に触れた。
そこには古い傷がある。
引き攣れた傷は火傷の痕で、それは足の怪我と共に十九年前彼に刻まれたものだ。その事実を知っている人間は、今のファティマス国軍にはほとんどいない。
躊躇いの間の後、「これは、」と小さな呟きが零れた。
「本来ならば私が墓場まで持っていこうとしていた話だ。聞いた後でどうするかは、お前に委ねよう」
* * * *
十九年前、同じ部屋だった。
暖炉は変わっていない。ただ、中にある調度は違う。ソファもテーブルももっと絢爛豪華で、壁には宮廷画家の手による国王肖像画が掛けられていた。
そこに当時二十八歳だったアスガルド=レイノアと、当時のファティマス国王エイギル=ヴァンはいた。
「陛下……? なにをおっしゃっておいでです……?」
アスガルドの口の中は乾いていた。
たった一言の呼びかけを出すにも難儀したくらいに。
その一方で、初老に差し掛かったエイギル王は穏やかな笑みを浮かべていた。それはいっそ、慈愛に満ちていると評しても過言ではないほどに。
「聞こえなかったか、アスガルドよ。時は満ちた。我がファティマスにおいても、竜の末裔狩りを進める時分となったのだ」
「いけません、エイギル王」
ほとんど反射で、アスガルドの口から否定が出た。
心臓が嫌な音を立てる。
ここで対応を間違えると、取り返しのつかないことになる。
焦りと緊張が襲いかかってくるが、それを必死に悟られないようアスガルドは強く拳を握りしめた。こんな、薄氷を踏むような会話。いかに周囲から重臣の誉を頂こうとも、この流れを切り抜けられるという自負も経験も持ってはいない。
大勢の命が掛かっている。
アスガルドは噛んで含めるように「いけません」ともう一度繰り返した。
「少なくともエイギル王の統治下においては、竜の一族に関する研究は王宮直下の機関以外には認められておりませんが、それに反対する民や組織的に逆らう者はおりません。少なくとも、表向きは。これ以上の強硬姿勢は却って民からの反発を招きかねません」
上手く運んでいる統治が危ぶまれる。
そんなアスガルドの進言に、エイギル王は首を横に振った。
「逆だ、アスガルド。既にカルキノス、ゴルガソス、サルディアの三大陸が末裔狩りに踏み切った。世界の流れは決まったのだ。これに乗らなければ、ファティマスは世界から取り残される」
「他大陸はそうかもしれません。しかし状況がファティマスと同じとは言い切れないのではありませんか」
「状況? 竜の末裔がいるのは知れたことであろう」
「おっしゃるとおりです。他大陸の末裔と各国軍が激しく交戦していることも、存じております。しかしファティマスに住まう末裔は、未だかつて我々に――エイギル王に対して刃を向けてきたことは、一度たりともないはずです」
仇為してきたならまだしも、なにもしていない相手を捕らえ命を奪うなど、どんな大義名分をもってできるというのか。
王家が携える、ファティマス国軍という矛。
その切っ先が向けられる先が、定められた罪状の有無ではなく王家の一存で決まるなど、絶対にあってはならない。それを認めたが最後、王家の権威は失墜し、最悪は革命へと繋がり得る。
アスガルドは必死に進言した。
「ここ数年の時勢で外交的に他国と同盟はありませんが、貿易の線は生きています。我々は世界に対して輸出――供給側を担っております。特に最北カルキノス大陸に対して、少なくない影響力を持っているのが事実です。ファティマスの温暖な気候がそうさせる以上、これは地政学上で絶対に覆せない地の利ですから、各大陸の動きがどうであれファティマスが孤立することなどあり得ません」
だからどうか翻意してほしい。
祈りにさえ似た気持ちを込めて、アスガルドはエイギル王の目を見た。
「ですから陛下、末裔狩りは何卒ご一考を」
「アスガルドよ」
「はい」
「まかりならぬ」
たった一言で、アスガルドの心臓は凍り付いた。
「最後のヴェルド神託は、竜の一族を駆逐しなければ緩やかな破滅が訪れる、と述べておる。私はこの国と民が憂き目を見るようなことだけはあってはならぬと思っている」
「その神託は私も存じ上げております。しかし恐れながら、過去授けられてきた神託とはあまりに違いすぎます故、どうか慎重の上にも慎重を期してご判断を……!」
「過去と違う? 一体なにが違うと言うのだ、アスガルドよ」
「他でもない竜の一族の統治で、有史三千年の歴史は私たちの生きる今日この日まで来たのです。十一年前の神託のせいで竜の一族は表舞台からは去っていますが、それでも。ファティマス国史を当たりましたが、その竜の一族を毀損するような神託はこれまで一度たりともありませんでした」
「どうであろうか。千年前の大戦、その審判が下るとされている。責めを負うべきは竜の一族以外おるまい?」
千年前、世界を引き裂いた一族だ。罪は深く、容赦されなくとも不思議ではない。
エイギル王は淀みなく言い切った。
「もはや旧世界は終わる。否、終わらせるべきなのだ。そして新世界の幕開けが来る」
「陛下!」
「もはや竜の一族は極少だ。それ以外の大多数の安全と平和を私は守らねばならぬ。アスガルドよ、手伝ってくれるな?」
穏やかな口調とは裏腹に、エイギル王の目は強い光を湛えていた。
多数の為に少数を切り捨てる。
そこに大義はある。たとえそれがどれほど危うい思想であったとしても、為政者の理由として据えられてしまった以上は。
もはや覆らない決定であることを悟り、アスガルドの内心は打ち砕かれた。
むしろ、最初からこの方針を伝える為にこうしてアスガルドは呼ばれたのだろう。これまで同様、否、これまで以上に右腕となり末裔狩りという国策を推し進めろと命令されているのだ。
「手始めに機関を解散する。機関に保管している竜の一族に関する資料も跡形なく処分せよ」
「お待ちください陛下! 文献を、……歴史を焼くのですか!?」
「旧世界の遺物だ。残っていれば却って混乱を招く。我々が作る新世界にはもはや不要であろう」
「っ、……!」
あまりのことに、とうとうアスガルドは二の句を継げなかった。
過去を焼く。
怖ろしい決断だ。都合の悪い記録を消して上書きする、その対象が行きつく先は人だ。
それが「無い」と誰が言い切れる。
今まさに、竜の一族が一方的な言い分で害されようとしているというのに、それが自分たちに降りかからないとなぜ信じられる。
危険すぎる。
脳内に響き渡る警鐘に、アスガルドは目眩すら覚えた。
そして同時に、微かな違和感に気付いた。
エイギル王がこれほど頑なだったことはかつてない。少なくともアスガルドが進言することには一定の理解をしてくれていたし、迷うことなどは助言を要求されたことさえあった。
それが、なぜ。
痛む頭で考えた時、ふと顔も知らない第三者の影がちらついた。
「――陛下」
「うむ」
「いけません。今ほど伺いました決心では、末裔狩りの理由にはなり得ません。してはいけない、と私は強く思いますし、もう一度……いえ、何度でも進言させて頂きます。末裔狩りはおやめください。彼らに関する文献の処分も撤回すべきです」
「見損なったぞ、アスガルド」
これまで日々を共に過ごしたお前ならば、理解してくれると信じていたのに。
そう言って、エイギル王は酷く落胆した様子を見せた。
そんな主を見て、アスガルドの中にも大きな失望の波が押し寄せた。しかしそれを言葉にすることは到底許されない。アスガルドは口を噤んだまま、変わってしまった為政者の顔を見つめ続けた。
「だがこれは命令だ。お前が私の理念を理解できなかったのは残念だが、どうあれ委細構わぬ。やれ」
お前の手腕に期待している。
残酷なその言葉がアスガルドの胸を刺し貫き、同時になにかが切れた。
「――かしこまりました」
アスガルドの返事に、エイギル王は満足げに頷いた。
その日を境にアスガルドは迅速に動いた。
重用されているという立場を利用し、表向きは末裔狩りの準備を進めながら、裏では密かに抵抗した。
機関に保管されていた竜の一族に関する資料の一部を持ち出し、厳重に秘匿した。そして出来得る限り、国軍展開の情報を市井に流し、竜の末裔たちが逃げる或いは応戦する手筈を整える時間を確保できるよう努めた。
全てを諦めたくはなかった。
終わりだと思いたくなかった。
だから、ほんの僅かであっても文書を持ち出した。竜の一族の痕跡そのものを消すなど到底許容できなかった。最後は機関そのものの建屋が焼き払われ、それに巻き込まれて右足と顔に大きな火傷を負うことになったが、後悔はしなかった。
後の世がどうなるかは分からない。
止められなかった己がなにを叫んでも戯言と一笑に付されるだろう。
だがそうであっても尚、諦めなかった人間がいたこと、全てが敵ではなかったという証左になればいいと願いながら、アスガルドはファティマス大陸を席捲した末裔狩りをその目に焼き付け続けた。
ファティマス国軍は、竜の末裔を蹂躙した。
彼らの守り続けた墓所さえも暴き、そしてその中から『アルヴァイン文書』を持ち出した。
そしてあの冬の日が来た。
ファティマス大陸最後の末裔狩りの日。
前線に出たエイギル王は最後の末裔の返り討ちに遭い、命を落とした。同時に、最後の末裔も国軍の手にかかり絶命した。
エイギル王の遺体と共に、アルヴァイン文書が後送されてきた。
貴重な竜の一族の家書、膨大な記録だ。
受け取ったアスガルドは数ページに目を通し、内容の重大さに気付いた。自らの手で保管しようとしたが、しかしそれは叶わなかった。国葬の準備の為に一瞬、離れた隙を突かれたのだ。
部屋に戻った時、窓が開いていた。
訝しんだと同時に衝撃が襲ってきて、アスガルドは昏倒した。
痛む頭、赤く霞む視界。訳が分からないままかろうじて見えたのは、一人の侵入者だった。
窓の向こう、バルコニー。
そこに立っていたのは黒のローブをまとった誰かで、その首には緑色の祈りの石が掛けられていた。顔は窺えなかった。アスガルドが声を上げる間もなく、その黒ローブはバルコニーから飛び降りた。
長らく続いたヴァン王家の統治は絶えた。
最後の王エイギルが求めた竜の一族の記録、アルヴァイン文書も消えた。
そうしてファティマス大陸での末裔狩りも、終わった。
* * * *
「十九年前に全ては終わった。それなのに私は、今回上がってきた報告に対して『真実であってほしい』と願わずにはいられなかった」
アスガルド王の視線は、使い古された杖にずっと注がれていた。
組まれた手。
そこに顎を預けながら、アスガルド王は続ける。
「だから問うた。本当に? と。まだ諦めきれていない私の気持ちがそうさせた」
「陛下……」
「もう一つある」
「はい」
「竜の一族を駆逐しなければ緩やかな破滅が来る、と警告した三十年前の神託。その期限がいつか、知っているか?」
静かな問いに、ルークの心臓がどくりと脈打った。
この世界には期限がある。
これまで考えてすらいなかったことを目前に突き付けられ、息が止まった。
「あの日、一度だけ目を通したアルヴァイン文書。そこに書かれていた一文が目に焼き付いて離れない。あの文書には『起点を大戦終結とし、千年の結果の審判が下る。良くならなければ世界は終わる』とあった」
「起点?」
「時系列で見るならば千年前の大戦だろう。終結したのは901年の末、冬だ」
「では、……残り一年と少し、ということですか」
暦は今、1900年の春を迎えた。
もしも審判が本当に下り、結果として世界が終わるというのなら、その日は想像以上に近かった。
「しかし、俄かには信じ難いですが……」
「私もだ。だがアルヴァイン文書にはそれ以外にも、予言としか思えないような記載があった」
「予言、ですか」
「あの日から先、未来のことが書かれていた」
アスガルド王がアルヴァイン文書を見たのは十九年前だ。
しかしそこにはその翌年のファティマスにおける王朝交代とゴルガソスで始まった七年に及ぶヴェルド掃討作戦、その後のゴルガソス内戦と、カルキノス戦役までもが羅列されていたという。
「あまりにも荒唐無稽なことばかりで、ただの妄想だと思いたかった。それなのに全てが現実になってしまった。怖ろしい的中率だ」
その最初がファティマスの王朝交代で、ヴァン王家の代わりにレイノア家が立ち――他でもないアスガルド王が誕生したのである。
「アルヴァイン文書に書かれている予言らしきものと、ヴェルド神託の関係性は私には分からない。だが、あの日見た黒ローブ……あれはヴェルド神官だ。祈りの石が緑だったことを覚えている」
中央ヴェルド列島の神域に住まう、ヴェルド神官たち。
神託を下ろす彼らはその神聖性を示す為に、緑の貴石を身に付けているというのが知られていた。
「私は今回の騒動が、どうしても偶然とは思えない」
「……」
「竜の一族、その末裔を駆逐したはずなのに、世界のどこにも平和などない。我がファティマスは増え続ける魔獣に今にも飲み込まれそうだ。ゴルガソスの内戦は激しさを増すばかりで、カルキノス大陸のラ=シェイとセヴァス公国の交戦も終結の兆しは見えない。サルディアの部族間抗争もだ。末裔狩りをしたにもかかわらず、破滅に向かっているのではないのか、と思う」
だから、末裔狩りは本当に取り返しのつかない過ちだった。
かつて見た予言が現実になる度、それはアスガルド王の中で確信に変わっていったという。そしてその都度打ちのめされた。間違っていたと気付いたのに、もはややり直しはできず、甘んじて審判を受けるしかないであろう現実に。
諦めたくはなかった。
それでも諦めるしかなかった。
誰にも言えない過去を抱えながら、黒く塗り潰された未来を覚悟したという。だが。
「なぜ今になって、竜の末裔を見たなどという騒ぎが起こる? これまで十九年間、そんな情報は一切出てはこなかったのに」
見えない力が働いているような、そんな気がする。
至極真面目な顔で呟いたアスガルド王を目の当たりにして、ルークはすぐに言葉を出せなかった。
報告すべきかを迷う。
暫時考えたが、しかし思考は全く整ってはくれなかった。与えられた情報があまりにも重篤すぎて、すぐには飲み込めなかったからだ。
「……今しばらく、時間を頂けないでしょうか」
ルークは額に手を当て、どうにかそれだけを絞り出した。
* * * *
時刻は深夜を回っていた。
ルークは口を引き結んだまま、国軍内にある宿舎棟の自室へと戻った。部屋の奥にある机、その引き出しを開ける。中に入っているのは一つだけ、勇壮な飛竜の頭部が象られた金のロケットペンダントだった。
手でそれを掴み、胸元へと差し入れる。
それからルークは竜舎に赴き、自分の飛竜に跨った。
春とはいえ深夜の風は冷たかった。
しかし構わずに最高速で漆黒の空を駆ける。
手袋の中でも手がかじかんで感覚が無くなった頃、東の空が僅かに白み始めた。そして遥かな大森林の中に目的地が見えて、ルークはそこに降下した。
「あなたの娘ではないのか」
二つ並ぶ墓標のうち、左側に向かってルークは語りかけた。
ここにはファティマス大陸最後の竜の末裔が眠っている。
束の間、十九年前の記憶が昨日のことのように目蓋に蘇ってきた。
あの日、大軍を蹴散らしながら駆けていった最後の末裔。
彼は「死にたくなければ退け」と声が枯れるほど叫び、このガラティアまで後退した。
地面に払い倒されたルーク。
その拍子に、末裔の首から千切れて落ちたロケットペンダント。
これだけの大軍に囲まれながら尚、一兵士を殺そうとはしてこなかったその末裔の姿が今でも目に焼きついている。
そしてルークはなにが正義か分からなくなった。
しかしルークが取り残されても、末裔狩りは止まらなかった。
ガラティア。
最後の末裔がその身を預けた、大森林の中の静かな寄る辺。ルークは打ち捨てられた亡骸を背負い、そこに墓標を立てた。
名は彫ることができなかった。知らなかったからだ。
それでも年に一度は訪れた。
最近は忙しすぎて来ることができていなかったが、それでも今日、ここに来た。
夜明けの風が吹く。
仰ぎ見ると白み始めた空がある。夜から朝、狭間の濃い青がそこにある。
「――あなたの娘なんだろう。似ていたよ、強い瞳が」
形見のロケットペンダントを握りしめる。
静かな薄明の光の中、ルークは墓標へ祈りを捧げた。彼女が行く先への加護を、そして幸多きことを。




