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彼女の花

数日後、彼女に会った。

彼女は俺に会うと、またどこかそわそわした様子で話しかけてきた。


「ど、どうかな。日記、書けた?」


ドキリとした。実のところ、あれから一度も日記に触れていなかった。

何と答えようかと黙り込んだ俺に、彼女は不思議そうに首をかしげた。


「もしかして、まだ書けてなかった?」

「いえ……」


言葉を濁す。

まだ、というよりはこの先も書けないだろう。そもそも書く気がおきないのだ。

だが、そのことを彼女に直接言うわけにもいかなかった。

不自然な沈黙が生まれる。

しかし彼女は、黙ったままの俺に何かを察したらしい。


「白紙でもいいよ」

「え?」


彼女は優しい声色で言った。


「書けないものは仕方が無いしね。でも私は書きたいことがまだたくさんあるから。

だから日記は続けよう。返事は佳月の書けるときだけでいいから」


「だから日記を持ってきて」と彼女は俺に右の手のひらを差し出した。

そこには特に怒った様子はない。

戸惑いながらも部屋に戻り、彼女に日記を渡した。

彼女はパラリと日記を少しだけ捲ると、何も書かれていないノートを見て小さく笑った。

そしてそのまま「じゃあまた今度ね」と言って、また逃げるように俺の前から去っていっく。

すぐに遠ざかる彼女の後姿を見ながら、自然とため息が零れた。

書かなくてもいいのか。

何が何でも返事を書かなければならないと思っていただけに、少し拍子抜けした。




日記は週に数回のペースで俺に回されてきた。

彼女の日記の内容はこれといって特徴があるわけでもない、誰でも書ける様な平凡な日記だった。


『最近は晴れの日がよく続きますね。

今日は庭で秋に植えていた花が咲きました。

ムスカリという花で、とても面白い形をしています。

春の花が終わったら、また新しく花を植えます。

あなたは何かみたい花はありますか。

あなたの好きな花を教えてください』



「……駄目だ、書けない」


ため息交じりにそう呟いて、体の重心を後ろについた手にかけた。

同じ姿勢のままずっと座っていたからか、体が少し重たい。

そのままの体勢で、机の上にある花瓶に生けられた花をぼんやり眺めた。

花はまたいつのまにか変わっていた。

それを見ながら俺は大きくため息をつく。

小一時間日記に向かってみたものの、机の上に置かれた日記はまだ何も書かれていなかった。



あれから何度も彼女から日記は渡されてきた。

しかしそれに対して自分はまだ一行も返事を書くことができていなかった。

いつも白紙のまま彼女に手渡すことを繰り返すだけ。

これではただ、彼女の日記を自分が読んでいるだけである。

なのに、彼女はそれを咎めるようなことは何も言わなかった。

笑って、返事の無い日記を受け取っていく。


何も言われないのなら、このまま返事を書かずにいてもいいのではないだろうか。

そう思うこともあった。

だが、今は何も言ってこないだけで今後もそうとは限らない。

それが原因で彼女の機嫌を損ねるなんて笑えない冗談だ。

だから彼女から日記を渡されるたび、返事を書こうと何度も机に向かった。

でも、日記の前に座ると、不思議なほどに手が動かなかった。

彼女の日記は、誰でも書ける平凡な日記だったが、どうしたって俺には到底書けないものだった。





だんだんと気温が上がって、少し蒸し暑くなってきた。

最近は雨がよく降る。

日々は淡々と過ぎていた。


また、彼女から日記が回ってくる。

けれど、一向にそれを書ける気配はなかった。



彼女と日記を交換するようになってから幾日も過ぎたある日のこと、仕事の終わりに今までにはなかった仕事を頼まれた。

内容は、彼女の母親への届け物だった。

彼女の母親とは、屋敷に来て最初に話して以来、見かけることは度々あったものの直接話したことはない。

当然、部屋を訪れたこともなかった。

届けるよう渡されたのは、青い薄手の花瓶だった。

届け物を頼んできた屋敷の人間から教えられた通りに歩いて、彼女の母親の部屋へと向かう。


部屋は縁側に沿った長い廊下の一番奥にあった。

部屋に近づくと、パチパチという小気味のいい音が微かに部屋から漏れているのが聞こえる。

部屋の障子は開いていた。

部屋の前で立ち止まると、人の気配を感じたのか、室内にいた女性がゆっくりとこちらを振り返った。


「あら。珍しいお客様ね」


澄み透った高い声だった。

その女性、彼女の母親は俺の姿を視界にいれると、切れ長の涼しげな目元を柔らかく細めた。




彼女の母親を初めて見たとき、その雰囲気にとても驚いたのを覚えている。

あの夫人を初めて見たときと雰囲気がすごく似ていたのだ。

もっとも、話してみるとまるで印象は変わったが。

彼女の母親の容姿はどこか冷たさを感じるものだったが、その実話してみるとただの世話好きの、どこにでもいる普通の女性だった。


彼女の母親は水盤の上の剣山に向かって花を生けているところだった。

紫色の花びらで、付け根が微かに黄色い花だ。

何という花だろうかと思っているうちに彼女の母親は持っていた花を置くと、「どうぞ、こちらに座って」と手招きをしてきた。

言われるまま部屋に入り、目の前に腰を下ろす。


「届け物を持って参りました」


座って早々に、持っていた花瓶を渡した。


「あら。あなたが持ってきてくれたのね。ありがとう」


彼女の母親は白い手を伸ばしてその花瓶を受け取る。

そして確認するように花瓶を眺めた後それを体の脇に置いた。


頼まれていた仕事はこれで終わりだった。

世間話をするような間柄でもないので、彼女が花瓶を受け取ったのを見届けてすぐに頭を下げて立ち上がる。

しかし、そうして退室しようとしたところで、呼び止められてしまった。


「ねえ。今からちょうど一息つこうとしていたところなの。よかったら一緒にどうかしら」


柔らかな声に、外へ出掛かっていた足を止めた。

振り返ると、彼女の母親は声色どおりの顔でこちらを見ている。

あまり長居をする予定ではなかったが、かといって断れる立場でもない。

少し逡巡した後、了承した。




「あの子とはどう? 上手くやれているかしら」


彼女の母親の前に座りなおして早々、何か期待するようにそう尋ねられた。


「……ええ、とてもよくしてもらっています」


どんな用があるのかと思ったが、なるほど、娘の近況を聞きたいらしい。

仲良くかどうかは微妙だが、そう言うわけにもいかないので無難な返答をすると、彼女の母親は嬉しそうに顔をほころばせた。


「そう。それならよかったわ。ほら、あの子すごい人見知りでしょう?

だからね、中々お友達もつくれていないみたいで、心配だったの」


どこか憂いを帯びた表情でそういう声からは、娘を心配する色が伺えた。

「そうなんですか」と頷きながらも、こんな話を俺として何か意味があるのだろうかと思う。

近況を話すにしたって、俺は彼女とそこまで親しくしていない。

仲良くするためだと渡された交換日記だってまだ一度も手をつけていないのだ。

そんな俺の疑問に気づかないまま、彼女の母親は話を続ける。


「でもね、最近は少し積極的になったのよ。この前なんて、私に生け花を習いにきたんだから」


心配そうな声色に微かに嬉しさを滲ませてそう言うのを聞いて、そういえば、と彼女の日記を思い出した。

確かに、生け花を習い始めたと日記に書いてあった。


「どんな花を生けられているのですか?」


特に興味があるわけでもなかったが、聞いておけば日記を書くときに何かの助けになるかもしれない。

そう思って尋ねると、彼女の母親はおや、という顔をした。


「どんなも何も、あなたはもう見ているはずだけれど」

「見ている?」


不思議そうな声色で首をかしげた彼女の母親に、こちらが首を傾げたくなった。

見ているといわれても全く心当たりが無い。

彼女からは交換日記を渡されたぐらいで花を見せられたことはないはずだ。

そう考えていると彼女の母親は「ええ」と頷いていった。


「だってよく、あなたの部屋に飾ってあるでしょう?」


そう言われて驚いた。

俺に部屋に飾ってあるもの。

思い当たるものは一つしかない。

確かに部屋にはいつも花の生けられた花瓶があった。

まさか、あれは彼女が生けたものだったのか。


驚いて固まっていると、「恥ずかしいから黙っていたのかしらね」と、娘の秘密をばらしてしまったことを特に気にすることも無く彼女の母親は軽く笑った。

確かに彼女の性格ならば自分から率先して生けた花を見せびらそうとはしないだろうな、と思う。

そしてそう思えるぐらいには彼女の性格を把握していた自分に少し驚いた。


「それで?」

「え?」


彼女の母親は笑みをしまうと、その表情をどこかわくわくしたような表情に変えた。


「とぼけても駄目よ。私知ってるんだから。凜と交換日記を始めたんでしょう?」


その言葉は意外だった。

まさか彼女の母親からその単語を聞くとは思っていなかった。

「知っていらっしゃるのですか」と尋ねれば、彼女の母親は少し得意げな顔をして「もちろん」と頷く。


「少し前にねあの子に相談されたのよ。交換日記をしようって誘っても相手に引かれないかって!」


彼女の母親はどこかおかしそうにそう言った。

彼女は事前に母親に相談してから交換日記を俺に持ちかけてきたらしい。

てっきり彼女の恥ずかしそうな様子からして周りには隠しているのだとばかり思っていたが。

いや、恥ずかしいからこそ最初に母親にだけ相談したのか。


「それで、ね、上手くいってるの?」

「上手く、というか……」


好奇心を隠せないというような表情で尋ねてくる彼女の母親に言葉を詰まらせた。

俺の反応に彼女の母親は意外そうな顔をする。


「なあに? 上手くいっていないの? もしかして、日記を交換するのが恥ずかしい?」

「いえ、そういうわけでは……」


恥ずかしいと感じたことはない。

元来自分には羞恥という感情はあまりないと思う。


「じゃあ、あの子の日記が返答に困るようなものだとか」

「困る、というか……」


困るといえば困るが、だがそういう問題でもない。

そう、恥ずかしいとか困るとかそれ以前の問題なのである。

俺は言葉を濁しつつ言った。


「そもそも返事を一度も書いていないので」


そう言うと彼女の母親はきょとんとした表情になった。


「あら、どうして? 別に文字がわからないというわけではないんでしょう?」


文字の読み書きはかつて夫人からも教わっていたので特に不便は無い。

そう言うと彼女の母親はますます不思議そうな顔をした。


「ならどうして書けないのかしら」

「……書くことが何も、みつからなくて」


言いながら、本当のことを話してしまった自分に慌てた。

こんな相談、彼女の母親にするべきではない。

交換日記という単語を持ち出されて動揺しているのだろうか。

だが、正直もう藁にもすがる思いだったので、誰かに話してアドバイスをもらいたいという気持ちもあった。

もう何十回と交換日記を回されているのに一度も返事をかけていないという事実は、自分でも相当参っていた。

彼女の母親は俺の言葉にまたきょとんとした顔をしていた。

そしてその表情のまま、あっけらかんとした口調で言い放った。


「そんなの簡単な話じゃない」


その声のトーンと内容に反応が一瞬遅れた。



「簡単?」


彼女の母親の言葉を繰り返しそう言うと、彼女の母親は「そう、簡単」と頷いて言った。


「あなたにも、心というものはあるでしょう。

思うまま感じるまま、その感情を書けばいいのよ」


その言葉に表情が引きつりそうになった。

心、とはまた抽象的な概念を持ち出してきたものだ。

俺は引きつりそうになる顔を抑えて彼女に言った。


「それが、わからないのですが」


思ったこと、感じたことを日記に書けばいいというのはわかっている。

だが、どうやればそんな風な感想を抱けるのかがわからないのだ。

彼女の母親なら何かいいアドバイスをくれると思ったが当てが外れた。

思わず顔を伏せた俺に、彼女の母親はしたり顔で笑った。


「ほら、ね。あなたにだってちゃんとあるでしょう?」

「え」


顔を上げた。

彼女の母親は目を伏せて自分の胸に手を当てて言った。


「わからない。それも素敵な感情の一つだわ」


どういうことだろう。

意味を理解しようと脳を動かすが、理解できない。

そんな俺に、彼女の母親は静かに目を開いて言った。


「大丈夫。あなたならきっとすぐに書けるわ」


それは優しい母親の声だった。








部屋に戻ってまた机に向かった。

机には開きっぱなしのノートが置いてある。

ノートは右半分に彼女の日記が書かれてあるだけで、もう半分は白紙だった。


――――あなたにも、心というものはあるんじゃないかしら。


心。まさか心なんてものを持ち出されるとは思っていなかった。

ふと彼女の母親が押さえていたように、自分の胸元を押さえてみる。

俺にも、心というものはあるのだろうか。

そんなこと、一度も考えたことは無かった。



例えば心というものが感情の集合体のようなものならば、自分は心と言うものを持っていないわけではないと思う。

しかし今それは所在不明だ。

だって、死なないためなら何だって、それこそ心と呼ばれるものだって捨ててきたものだから、今自分の心がどこにあるのかもわからなかった。

だからこそ、彼女のように日記を書けない。



「心、と言われてもな……」


また頭を抱えた。

彼女の母親の言葉はやはり解決策になりそうもない。

また何時間か日記の前に座るが、ペンは一向に進まなかった。

駄目だ。やっぱり書けない。


顔を上げて頬杖を付いた。

そこでふと、机に置かれてある花瓶が目に入る。

そういえばこの花は、彼女が生けたものらしい。

今の花瓶には、紫色の、けれど彼女の母親が生けていた花とはまた違う花が生けられている。

生け花を始めてまだ日が浅いようだがこれでも随分上手なように感じた。

もっとも、自分の花に関する知識は乏しく、この生けられている花の名前さえ自分は知らないのだけれど。



――――わからない。それも素敵な感情の一つだわ


不意に彼女の母親の言葉が過ぎる。

わからない、こと。

付いていた手から顔を離して、じっと花を見つめた。

花からは微かだが花の甘い香りがする。


迷ったが、結局手はペンを持っていた。

そしてその日初めて日記に文字を綴ってみた。




『最近私の部屋に活けられている紫色の花の名前は何と言うのですか』


たった30文字程度の、何のひねりも無い、短い文だ。

お世辞にも日記と呼べる代物ではない。

こんなものでいいのだろうか。

書き終わってから、心配になってくる。

文法的に変なところは無いはずだが、問題は内容だった。

もう少し何か無いかと頭を捻るが、それ以上の言葉は出てこない。

仕方が無い。これでいくしかない。

何よりそれは、今までに比べればマシなことは確かだった。

白いページに1行だけ書かれたノートを閉じて、俺はそれを彼女に届けるべく立ち上がった。



翌日にはもうノートは返された。

返されたノートを開いて、圧倒された。

数行だけ文字がつづられたページの次のページが、これでもかと言うぐらいに黒い文字で埋め尽くされていたのだ。

内容は、昨日俺が言った花についての話だった。


「桔梗……か」


わかりやすい人だな、と思った。

桔梗というらしい花を見ながらふと思う。

たったあれだけの返事に、ここまで反応できるものなのか。


『返事をくれて嬉しいです。ありがとう』


そう書かれてあるのを見つけて、目を眇めた。

彼女は俺と仲良くなって、俺を知って、どうしたいのだろう。

あんな数行で喜ぶ彼女の心が、まるでわからなかった。





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