彼女の日記
従者としての仕事を学び始めると、彼女と会う機会は極端に減った。
彼女には学校があるので昼間は家に居ない上、帰ってからも何か習い事のようなものをしているらしい。自身も従者見習いとして与えられる仕事が多かったから、彼女とはもう随分と会っていなかった。
そのことは、少しだけ自身を拍子抜けさせた。俺は彼女と言う人間をあまり把握できていないから、もう少し彼女についての情報が得ようと思っていたのである。
けれどまあ、従者とはいっても、自分はまだ何も知らない従者見習いの身であるし、何より彼女は当主の娘という立場にあるのだから、こんなものなのかなとも思った。
だがそう考えていたある日のこと、暫くぶりに彼女から声をかけられた。
「今日の夜、仕事が終わったら私の部屋に来て欲しい」
彼女はそれだけ言うと、そそくさと俺の前から去っていった。
その逃げるような後姿を見ながら、内心首をかしげた。
何か用があるのだろうか。
特に心当たりはなかったがこれは彼女について知る良い機会だとも思った。
主について知らなければ、主の好む行動はできないのだから。
そしてその夜、言われたとおり仕事を終えてから彼女の部屋を訪れた。
彼女は無地の単衣の上から羽織を着て、部屋にある机の前に座っていた。
「忙しいのにごめんね。そこに座ってくれていいから」
障子を開けて中に入ると、彼女はそう言って彼女の近くに置かれてある座布団を指差した。
一礼してそこに座る。
彼女は机から体を離してこちらへ向き直った。
「な、何だか久しぶりな気がするね……。突然呼び出して、ごめんね」
「いえ。構いません」
彼女はやけにそわそわしていた。
視線を色々なところに彷徨わせて、少し挙動不審だ。
彼女の落ち着きの無さは、出会った頃から一貫していた。
彼女についてまだよく知らないことも多いが、彼女は人と話すことがあまり得意ではないということは何となく理解していた。
そんな挙動不審な彼女の姿をじっと眺めていると、彼女は恐る恐ると言う風に口を開いた。
「最近、どう? その、ここでの生活はもう慣れた?」
当たり障りの無い話の導入だった。
俺は口の端を持ち上げて答える。
「ええ。屋敷の方々にも非常に親切にしてもらい、特に不便なこともなく過ごせています」
それは本当の話だった。
屋敷の人間は思いのほか自分に好意的だった。
花屋敷に居たころは花屋敷の住人の大半は自分に対して割りと冷たい態度を取っていたから、ここでもそうかと思っていた。
実際ここの屋敷についた頃は余所余所しい態度をとられたので、まあそういうものなのだろうなと思っていたが、しかし彼らは時間が経つに連れて徐々に自分に好意的な態度をとるようになった。
そう答えると、彼女は俺の言葉に「よかった」と安堵するように小さく笑った。
眉尻を下げたその力の無い笑みは、気の抜けるようなどこか不思議な笑みだった。
彼女は時々そんな笑みを見せた。
初めてみたのは、あの魔法樹の前。
俺の熱が下がったときも、彼女は同じような笑みを見せた。
その笑い方は、少し苦手だった。
そんな彼女の笑みをぼんやり見ていると、彼女は「それでね」と本題に入るように声のトーンを少し低くした。
先ほどの笑みを引っ込めて、また視線をうろうろさせ始める。
「それでね。最近その、中々会う機会が、ないじゃない?」
彼女は一言一言、自分の言っていることがおかしくないか確認するように言葉を紡いでいるようだった。
緊張しているような様子に、疑問が募る。
しかしそれをおくびにも出さずに、「そうですね」と彼女の言葉に同意をしてみせた。
彼女は返答に対してまた少し視線を彷徨わせた後で、やがて意を決したように俺に視線を合わせる。
そしてためらいがちに口を開いた。
「それでね、その……このままだと、中々話す機会もないでしょう?
でもね、その、私はもっとあなたと仲良くなりたいの、だから」
「今日あなたを呼び出したの」と彼女はどこか恥ずかしそうな顔でそう言った。
微かに赤らんだその表情を見て、俺はなるほど、漸く納得した。
そして、彼女について抱いていたイメージが大きく変わった心地がした。
そうか、なるほど。つまり彼女は、俺と仲良くなりたいから今日呼び出したらしい。
そう言うことならば話は早い。
俺は腰を上げて、まだ何事か話している彼女に近づいた。
そしてそのまま身を屈めると――――彼女を押し倒した。
「……え?」
彼女の大きな瞳に俺の顔が映る。
彼女は呆けたような顔で俺を見上げた。
俺は彼女を見下ろして笑ってみせた。
つまりはそういうことだろう、と。
夜に自室に呼び出すなんてどんな用かと思ったが、そういう理由なら納得した。
つまりはそう、彼女は俺と『仲良く』なりたいのである。
彼女はそういうことをあまり望まないように思っていたがそうでもなかったようだ。
そのことに、別段落胆はしない。
人と言うものは、特に恵まれた人間と言うものは皆同じような発想をするものだ。
だから別に、落胆などしなかった。
「え、あの?」
「大丈夫です。あなたのお望みどおり、『仲良く』しましょう」
せわしなく瞬きを繰り返す彼女に、俺は笑みを深めた。
そういうことなら彼女、あの夫人も望んでいたことだ。特に差し障りは無い。
俺は彼女の肩に手を置いた。
大丈夫。今までどおりならこちらとしても気は楽だ。
心の中でそう呟いて、そうして彼女の首筋に顔を埋めようとしたところで――――その瞬間、頭に強烈な痛みが走った。
ゴン、と鈍い音が間近で聞こえた。目の前に星が飛ぶ。
あまりの痛みに彼女から体を離して悶絶した。
なんだ、と思って彼女を見る。
すると彼女も自分と同じように額を押さえていた。
それを見て、頭突きをされたのだ、と認識する。
彼女は自身の額を手で押さえながら、顔を真っ赤にして、そして叫んだ。
「は、破廉恥!」
「はれんち?」
思わぬ言葉に、彼女の言葉を復唱する。
「馬鹿! あなた馬鹿! どこの世界に不順異性交遊を望む六歳児がいるの!?」
彼女は涙目だった。
俺は首をかしげた。
「しかし、仲良くなりたいとおっしゃられたではありませんか」
自分は何か間違ったことをしたのだろうか。
じんじんと痛む額を押さえながら彼女を見る。
彼女の様子からして、どうやら自分は何かを間違えたらしかった。
しかし、そうは言っても、仲良くと言われたのだから、そういうことではないのか。
かつての主、花屋敷の夫人もそう言って俺を呼んだのだから。
「違う! 仲良くの意味違う!」
彼女は怒鳴るようにそう言ってその場から立ち上がると、乱暴な足取りで先ほどまで彼女が向かい合っていた机に近づいた。
そして机の上に置かれてある何かを取って俺に再び近づく。
「私はただ、これを渡したかっただけなの!」
そう言って押し付けるように渡されたのは、無地のノートだった。
「これは?」
「交換日記!」
「こうかんにっき?」
聞きなれない言葉に再び首をかしげる。すると彼女は、自分の言った言葉に何かを思い出したのか、まるで風船がしぼんでいくように急速に先ほどまでの勢いをなくしていった。そして顔を赤らめ、俺から視線をそらす。
「そ、そうです。交換日記です」
小さく呟くようにそう言う彼女は、何だかそれを口にするのが恥ずかしそうだった。
彼女は顔を赤らめたまま言った。
「あなたと仲良くなりたいけど、お互い中々会えないし、会っても、私口下手だから、あんまり話を続けられないし。だから……」
ぼんやりと彼女を見る俺に、彼女は赤い顔を隠すように顔を伏せる。
「い、いろいろ考えたんだけど……結局それしか思いつかなくて……」
「まあ、あなたの仲良くなり方に比べたらマシだけど」と彼女は顔を赤らめながらも恨みがましい口調でそう言った。
彼女から視線をそらしてしげしげとそのノートを眺めた。
交換日記。彼女の「仲良く」する方法。
見た感じでは、何の変哲も無い普通のノートだ。
一体これで何をしようと言うのか。
そう思いながらそのノート開こうとすると――――
「わー! 見るなら部屋で見て! 本人の前で見ないで!」
彼女は慌てて俺の持っているノートを奪って開きかけたノートを閉じた。
特に抵抗することなく、彼女にノートを返す。
信じられないというような面持ちで彼女が大事そうに抱えるそのノートの表紙を見ながら、俺は彼女に尋ねた。
「交換日記、というのは……どういうことをすればいいのでしょうか」
「どういうって……ええっと、今日あったこととか交換日記をしている相手に何か質問したりとかして、気持ちを共有する……みたいな」
彼女の説明は要領を得なかった。
彼女は自分で言うようにやはり口下手らしい。
自分でも説明の下手さをわかったのか、彼女はまた一段と恥ずかしそうな顔をした。
そしてそれを隠すように、大事そうに持っていたノートを再びぐいぐいと俺に押し付けてくる。
「と、とにかく、これは相手のことをよく知るための秘密兵器みたいなやつなの! 何でもいいから好きなことをノートに書いて、また私に渡してくれたらいいから!」
どこか早口にそう言うと、彼女は強引に俺を部屋の外へと追い出した。
部屋に帰って机の前に座り、彼女が渡したノートを眺めて見た。
やはりどこからどう見ても普通のノートである。
彼女はこれを相手のことをよく知るための秘密兵器と言ったが、やはりいまいち用途が不明だった。
だが、彼女がやりたいと望む限り、やらなければならない。
とりあえずもう部屋に一人なので、ノートを開いてみた。
ノートの1ページ目には、小さく丸い文字が数行ほど文章を綴っていた。
彼女が既に書いているらしい。
『交換日記なんて久しぶりにするので、何を書けばいいのか迷います。
というか、この日記をあなたにちゃんと渡せているのか、そこからまず不安です』
ノートは、そんな文章から始まっていた。
『最近従者の仕事のほうはどうでしょうか。
まだ体も完全に治ったわけではないのですから、あまり無理はしないようにしていくださいね。
私は最近、母から生花を習うようになりました。
私には才能がないようで、母のように上手くは生けられないのですが、これから頑張って練習したいと思います。
そういえば、この間屋敷の料理人に夕飯のリクエストをしてみました。ドキドキしましたが、ためしに言ってみるものですね。今度私の好物を夕飯に作ってくれることになりました。
佳月も何か食べたいものはありますか?
あなたの好きな食べ物を教えてください』
そのノートには、彼女のありふれた、なんてことは無い日常の日記が綴られていた。
なるほど、交換日記と言うのはその名の通り自身の日記を交換するものなのだな、と理解する。
これを交換し合う意図はまだいまいちわからないが、やり方はわかった。
とにかく、最近あったことを日記としてここに書いて彼女に渡せばいいのだ。
とりあえず最近あったことを頭に思い浮かべてみた。
最近はずっと従者の仕事に追われていた。仕事を覚えてきたからか、以前よりも任される仕事の量も多くなってきている。
机に頬杖をついて、数日前の朝目が覚めたときから今に至るまでの記憶を順番に思い出していく。
日記を書くには十分な記憶の量だった。
これならある程度それらしいものは書けるだろう。
そう思い、ペンを持つ。
そして書こうとしたところで――――ぴたりとペンが止まった。
いや、止まった、というか動かなくなった。
書けなかったのだ。一文字ですら。
頭には鮮明に順序良く、ここ最近の日程がよみがえっているのに、ペンは面白いほど動かなかった。
手にしたペンは一向に進まず、やがて机の上に落ちた。
記憶は確かに存在する。
なのにそれをいざ字体に起こそうとすると、何を書けばいいのか、まるでわからなくなった。
もう一度彼女の日記を読み返す。ありふれた、日常の日記だ。
そう。彼女と同じように日常の要所を取り上げて書けば良いのである。
――――では何を取り上げればいい。
そう考えて、思わず頭を抱えた。
そうだ。日常の一体何を取り上げればいい。
それが、わからなかった。
だって自分にとっての日常には、特に特筆すべき事柄はなにもなかったから。
そこで漸く気づく。
そうだ。自分は、日常の中で特に何の感情も抱かず生活をしているのだ。
――――駄目だ。
一時間、ただ弄っていただけのペンを机の上に置いた。
これは、自分と言う人間には不向きなものだと思った。
自分と言う人間は、一般的な子どもらしさからかけ離れた性格であるという自覚があった。
利己的で、狡猾で、合理主義。
そんな自分に、日常のありふれた話などとても書けるはずもない。
彼女は一体自分に何を求めているのだろう。
羅列された彼女の、子どもにしてはどこか丁寧すぎる文字を眺めていると、何だか次第に酷く不愉快な気分になった。
いっそ、彼女の真似をして適当に書いてみようか。
半ばやけになってそう思い、ペンをもう一度持ち直して日記に向かった。
嘘をつくのは得意なほうだった。
彼女が喜びそうな内容を適当に書いてやればいいのだ。
そして適当に文字を綴ろうと日記にペンを落とすが、しかし再びペンは止まる。
脳裏には、あの気の抜けた笑みが浮かんでいた。
どうしてだか、嘘をつくことを躊躇う自分が居た。
彼女の声と表情が、嘘を書こうとする右手に絡み付いているようだった。
その後一時間また机に向かってみたが、結局その日、日記を書くことはできなかった。
それから数日経っても、日記は白紙のままだった。




