彼女の家
数話ほど、花屋敷から帰宅直後の、佳月から見た凜の話をお送りします。
彼女の手を取った理由を、自分でも正確に説明することはできない。
だがそれを、ただの気の迷いと言うにはあまりにも強い感情が、そこには伴っていたような気がする。
自分の生い立ちについて、特に嘆いたことはない。
ただ、自分と言う人間は、世間一般から見て割りと可哀想な子どもなのだろうなという自覚はあった。
育った環境はとても良いとはいえない。周囲にいた他の捨てられた子ども達に比べても自分は随分としなくてもいい苦労をしたような気がする。
だがそれでもやはり、そのことについて自分や周りを厭ったことはなかった。
要は、どんなに劣悪な環境であっても生き延びられたらいいのである。
生きられれば、自分の境遇や周りの対応は特に気にするようなことでもなかった。
そして自分は幸運にも、周りで多くの人間が死んでいく中で、見事生き残れた人間だった。
そんな風に生き延びることだけを考えて生きていたものだから、自分の環境を180度変えるような、所謂転機というものが訪れたときは、正直驚いた。
ある時小汚い路地裏に現れたやけに小奇麗な衣装を身に纏ったその女性は、俺を人目見て気に入ったといい、彼女の家へと俺を連れ帰った。
連れ帰った俺に、彼女は世間一般で言う幸せな家庭というものを与えた。
寒さに困らない家に、綺麗な服、おいしい食事に温かいベッド。そして優しい母親。
それは高価な宝石のように美しく、お菓子のように甘い世界だった。
それは、昔飢えで死んだ同年代ぐらいの子どもがいつだったか語っていた幸せそのものだった。
けれどそんな世界に浸りながらも、その世界がそう長くは続かないものだということを俺は知っていた。
自分と言う人間は、そういう世界に身をおくように作られていないのである。
その予想通り、彼女は俺を拾ってから日に日に狂人染みていくこととなった。
彼女の夫も引き連れて、幸福な世界は一気に現実と言う腐った世界へと崩れ落ちていったのである。
もっとも、それでもその腐った世界というやつは、あの自身の生まれた場所に比べたらそれはもう天と地ほどの差があったわけだけれど。
そうして唐突に目の前に広げられた華々しい世界は幕を閉じた。
けれどそれでもまあ満足ではあった。この転機によって自分は八割方死なない生活を手に入れたのだから。
しかしそんな俺の前に、もう二度とはこないであろうと思っていた転機はもう一度訪れた。
その転機は、転機と言うにはあまりにも弱弱しいものだった。
一宮凜。彼女は俺を従者にするという宣言をし、そしてその宣言通り本当に俺を彼女の家まで連れ帰った。
まさか本当に連れて帰ってくるとは思っていなかった。
別に彼女が嘘をついたと思っていたわけではないけれど、でも何かしらの反対にあって結局彼女の家へは連れ帰られないだろうと思っていたのである。
しかしどういうわけか今、俺は彼女につれられて彼女の家だという屋敷へ向かって歩いていた。
彼女に案内されたその家は、重厚な雰囲気の漂う巨大な屋敷だった。
高い土塀に囲まれた、大きな日本家屋の家。
褪せた瓦屋根が時代を感じさせるが、それさえもその家屋の風格に思えた。
屋敷の玄関には、格子のついた引き戸がはめられている。
ずっと洋館と呼ばれる屋敷に住んでいたから、その日本家屋が放つ特有の雰囲気は、何だか不思議な感じがした。
「怪我が治ったら、またゆっくり屋敷を案内するね」
彼女はゆったりとした歩調で前を歩きながら、柔らかい声でそう言った。
俺は彼女のその後姿を複雑な気持ちで眺める。
彼女は、不思議な人だった。
転機と言うにはあまりにも弱弱しく、けれど俺を拾った二人目の奇特な存在。
「どうかした?」
思わず足を止めた俺に、彼女が不思議そうな顔で振り返った。
「いや……」
言葉を濁しながら彼女から視線をそらして辺りを見渡した。
屋敷の周りは、不思議なことに甘い花の香りで満ちていた。
不思議、というのは、辺りを見渡してみてもそこには屋敷を取り囲むだだっ広い庭があるだけだからである。
「ここにも、花があるのですか?」
足を止めた理由として、彼女が食いつきそうな話題を挙げてみた。
きょとんとした表情の彼女に、言葉が足りなかったかと慌てて「花の匂いがしたので、少し気になって」と付け加える。
彼女はその言葉に少し考えるような表情をすると、すぐにその顔を嬉しそうに綻ばせた。
「これはたぶん、お母様の花壇の匂いだよ。あのね、花屋敷とは比べ物にならないんだけど、ここにも花壇があるの。気になるのなら後でまた案内するね」
「すごく綺麗だから」と言って、彼女は俺に背を向けて再び歩き出した。
やはりここにも花があるのか。
それは何だか奇妙な心地だった。
あの屋敷とはどこか違う優しい花の香りにつつまれながら、ぼんやりと先を歩く彼女の後姿を眺める。
彼女は、不思議な人だった。
その小さな背中は、やはり出会った当初のように頼りない。
彼女の第一印象は、人と関わるのが苦手そうな、弱い人。
誰かに大切に守られて生きてきた子なんだろうなと思った。
屋敷に入ると、とにかく暫くの間は安静にしているようにと彼女や彼女の父、そしてついで現れた彼女の母に言われた。
後から部屋を訪れた医者も、怪我の具合を見て驚いていたようだから、思いのほか自分の怪我は悪かったらしい。
そしてその怪我の具合の悪さを証明するように、その夜、高熱が出た。
殴られた後に熱が出るという経験は何度かしたことがあったから特に苦痛ではなかったが、彼女は寝込む俺を見て、何か悲しいものでも見たかのようにくしゃりと顔をゆがめた。
彼女は俺が熱の出ている間頻繁に、俺の元へ訪れた。特に何をするわけでもないが、医者や屋敷の使用人達を手伝って、看病をしているようだった。
訪れるたび彼女はしきりに大丈夫かと声をかけてきた。
熱で意識が朦朧としていたが、答えられるときは必ず「大丈夫だ」と答えた。
だがそう答える度、彼女はますます悲壮な顔をした。
「大丈夫だ」という言葉は、彼女の望む言葉ではないようだった。
やはり彼女は不思議な人だった。
熱に魘される中で、ふと、ここに来るまでの彼女のことを考えた。
初めて会ったときの彼女と、屋敷を出るときの彼女は、印象が大きく変わっていた。
一緒に戦おう、と言って向けられた瞳は力強く、初対面で異常なほど怯えていた子どもの影はまるでなかった。
だから勢いに飲まれて手を取ってしまったのだろうか。
彼らと彼女。両者を天秤にかけてみて、自分にとって都合のいいほうは彼らのところに残ることだとわかっていた。
彼女は自分に執着していない。そんな相手についていって、この先も自身の後ろ盾になってくれる保証はなかった。
だが、強い声で行こうと声をかけられたとき、何を考えるでもなく、自身の右手は彼女の手の中にあったのだ。
熱の出ている間、あのとき取った彼女の手は、ずっと俺の手を握っていた。
彼女の手は、想像していたよりもずっと冷たかった。
熱も下がり、怪我が治り始めた頃になって、俺は彼女付きの従者見習いという役割を与えられた。
いくら彼女が望もうとも、他所から来た人間にすぐに従者の仕事が任されるわけもない。
だからこの家で昔から働いている人たちについて、従者としての仕事を学ぶ時間というものが与えられた。
従者としての仕事以外にも、一般的な知識も一通り教えてもらった。彼女の通っている学校というものに自分の歳の子どもは通う必要があるらしいが、自分の健康状態ではまだ難しいという。
学んでいる内に気づいたが、自分があの屋敷で教えられていた知識は随分と偏りがあったようだった。
従者見習いの役割を与えられたときに、彼女の父から従者としての服をもらった。和服と洋服どちらがいいかと言われて、洋服の方を選んだのは、ただそちらの方が着慣れていたからだった。
白いカッターシャツに袖を通し、その上から黒のベストを羽織って、部屋に備え付けられてあった鏡に自分の姿を映した。
腫れあがっていた頬はもうすっかり元通りになっていた。体中に合った傷ももうほとんど治っている。
それはここに来てからもう随分と時間が経過していることを意味していた。
鏡から離れて部屋を見渡す。
来て早々に与えられた部屋にも、少しだけ生活感が出てきていた。
自分に当てられた部屋は、丸窓の障子から光の零れる、明るい八畳ほどの和室だった。
部屋の中には机にタンス、鏡台、そして行灯が置かれていて、それらは全て好きに使って良いと言われている。
この部屋を自分は割りと気に入っていた。部屋の丸窓の外には庭があって、そこからいつも花の香りが香ってくるのだ。
花の匂いはもう嗅ぎなれたものだったが、その香りを嗅ぐと何故か妙に落ち着いた。
花といえば、そういえばいつごろからか、部屋の机の脇に花を生けた花瓶が飾られるようになった。
花瓶はいつも知らぬ間に取り替えられていて、何週かに一度、新しい花が生けられていた。
今は花瓶には赤色と白色の同種類の花が生けられている。
そういえば、彼女の母が花を生けるのが趣味だといっていたことを思い出した。
この屋敷は所々に、彼女の母が生けたという花が置いてある。
だからか、いつもこの屋敷内は木造建築の木の香りに混じって花の香りがしていた。
その生けた花のあまり物でも置いているのだろうか。
花を見ながらそうぼんやり思った。




