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事故物件の終わりと始まり

その後。

私は漆喰さんと一緒に架紀ちゃんを車の後部座席に乗せ、彼女の家の住所を告げてから──気を失ってしまった。

気がついたのは、なんと翌日の夕方だった。

私は桜ノ宮の自室で、泥のように眠っていた。


その夜、漆喰さんから聞いたところによれば、架紀ちゃんを送り届けた際に彼女は意識を取り戻し、少し話し合ったのだという。今後、何かあったら漆喰さんと懇意にしている弁護士を頼るといい、といったアドバイスもしたそうだ。


漆喰さんは「彼女は大丈夫だ」と言ってくれた。

それに安堵して、私はまた深い眠りに落ち、まともに頭が働きだしたのは翌々日の朝からだった。



時刻は夜の十九時。私は今、漆喰さんと一緒に食べる食事の用意をしていた。

メインは私が作った鴨のすき焼きだ。

すでに部屋には甘い割り下の香りが漂っている。BGM代わりに、大きなテレビからは朝からずっとニュース番組が流れていた。


どこにでもある、ありふれた夕食の時間。

けれど、今日の食事は豪華だった。

鴨のすき焼の他にも、テーブルの上には私が買ってきたビールにワイン。サラダにオードブル、お寿司。カットフルーツに、鮮やかなガーベラの花。

さらにはデザートとして、冷蔵庫の中にはホールのケーキまで待ち構えている。


「箸と小皿も準備バッチリ」


厨子にもお裾分けは済ませてある。

テーブルの前で、我ながら「よくやった」と胸を張る。


そろそろ、シャワーを浴びている漆喰さんが戻ってくる頃だ。

何しろ漆喰さんはあの事件の後始末のため、ほぼ不眠不休で二日間動きっぱなしで、今日の朝ようやく眠りについたのだ。そして先ほど目を覚まし、シャワーを浴びていた。


「あんなことがあったのに、タフだなぁ。私よりずっとメンタルが強いんじゃないかな」


「誰がメンタル強いって? 布団に火をつけた階さんには負けるよ」


「!」


耳元で囁かれてひゃっとして、振り返る。

そこには白いTシャツに黒のジャージという、ひどくラフな格好の漆喰さんがいた。

髪はまだ生乾きで、やはり少し、目のやり場に困るほどの色気があった。


「ホールに車で突っ込んできた、漆喰さんに言われたくないですっ」


「違いない。……それにしてもいい香りだ。昔、俺の家もこんな香りがしていたな。懐かしい」


一瞬だけ寂しげな顔をした後、彼はすぐにくすっと笑って「用意ありがとう。美味そうだ」と私の頭をポンポンと叩き、席についた。


柔和な表情の漆喰さんを見て、今の一瞬の憂いは見なかったことにした。私も笑いながら向かい側に座る。


「ビール飲みます? それともワイン?」


「最初はビールでいい。階さんは飲めるのか?」


「はい。体質なのか、ちっとも酔わないんです。架紀ちゃんには『うわばみ』って言われてました」


「……それは結構なことで」


ふっと苦笑する漆喰さん。


「なにはともあれ、乾杯しましょう。お疲れ様会ですから」


「そうだな」


和やかな食事が始まった。話題はやはり、あの事件のことだ。

漆喰さんは、長年用意していた裁判の準備が水の泡になったことを「これでよかった」と、ビールグラス片手に語った。


裁判となれば数年単位の戦いになり、心身ともに摩耗する。三十路を前にしてそれはキツいから、ちょうどよかったのだと彼は笑った。


私は温かな湯気の向こう側で笑う彼に、微笑み返す。

今でも「私のせいで、ごめんなさい」と言いたくなる。


けれど、私を守ってくれた彼にそれを言ってはならない。優しすぎるこの人を悲しませると分かっていたから、私は微笑み続けることを選んだ。


きっと私が眠っている間、裁判の取りやめという決断と、感情の整理をつけ、至った結果なのだろう。

私はそれを尊重したかった。漆喰さんの選んだ未来に、たくさんの幸福が訪れてほしいと願うばかりだった。


そんな気持ちを胸に秘め、私は明るい話題を出す。架紀ちゃんのこと、そして白狐様のこと。


架紀ちゃんは多くを語らなかったが、しきりに感謝の言葉を口にし、休職してカウンセリングに通うと言っていた。

近々、お母さんと湯治に行く予定だという話も伝えると、漆喰さんは「温泉、いいな」と箸を進めた。


白狐様については「夢の中で一日中、撫でくりまわして遊んだ」という話をすると、漆喰さんは苦笑していた。


漆喰さんも、架紀ちゃんも、私も。あの日起きた「痛み」を忘れることはないだろう。

けれど、生きているからこそ痛みを感じる。それは日常へと戻るための力になると、私は信じていた。


私は漆喰さんには言わなかったが、自分なりの「目的」として、ビジネスの資格を取ろうと考えていた。秘書や事務職で役に立つもの。誰かの手助けになる仕事に就くために。


だから今日はたくさん食べて、飲んで、明日の活力にすると決めていた。

テーブルの料理が徐々に減り、そろそろワインを開けようかと話していたとき。


ニュース番組から「健照教の続報」が流れてきた。

その音声に会話がぷつりと途切れ、私たちはテレビを凝視する。


卓上のコンロに乗ったすき焼き鍋が、くつくつと静かに煮える音だけが響いた。


『今日未明、宗教法人「健照教」の本部施設にて、教祖の健照氏を含む幹部および、信者らが集団で死亡した事件の続報です。警察は事件性の可能性があるとして捜査本部を設置しました』


──このセンセーショナルなニュースは、朝から日本中の話題をさらっていた。

最初こそ驚いたが、心のどこかですんなりと受け止めてしまっている自分もいた。

私たちが訪れたあの建物での詳細は、一切報道されていない。その理由は知らないし、漆喰さんも何も言わなかった。


ニュースは続く。


『当初は集団自殺とみられていましたが、現場に不自然な点があることから、他殺の可能性も視野に検視を進めています』


他殺の可能性。

その言葉に、瞼の裏でハニーブロンドの髪が舞ったが、そっと闇に沈めた。


『健照教については、政治家への不透明な資金提供問題や、元信者らによる洗脳、セクハラ被害の訴えが相次いでおり、警察は事件との関連について追及する構えです。では、現場の──』


そこで、ぶちっと画面が消えた。

ブラックアウトした画面に、スイッチを切った漆喰さんの姿がうっすらと反射していた。


「弟は絶対に生きている。あいつが自殺するタマなもんか。どうせ金を奪って逃げた結果だ」


「……それが集団自殺」


「あいつがどういう仕掛けをしたかは知らないが、こんな崩壊をさせるとはな」


「そうですね」


あの建物にいた人たちの顔が浮かんでは消える。

輝夜さんが穏やかに、白い指先で積み上げてきた「健照教」という歪なパーツを、最後はその手で笑いながら崩壊させたのだ。


彼は健照教の本部そのものを「事故物件」に作り変えて、次の居場所へと旅立った。

そんな風に思っていたら──。


「階さんが悩むことじゃない」


スパッとした漆喰さんの声に、思考が途切れた。


「できたら、早く忘れたほうがいい」


「忘れるなんて、できませんよ」


「だな……。ところで。階さんは、今後どうする?」


リモコンを置いた漆喰さんに、不意を突かれた。


「お見合いの話はこれで完全に消滅した。実家に戻り

たいなら、戻ってもいいと思う」


「漆喰さん?」


「俺のそばにいたら、今後どうなるか俺にも検討がつかない。あいつの言い残した言葉は不気味だが、階さんがそれに縛られることなく、自由に生きてほしいと思っている」


「それは……」


「仕事ならどこか紹介するし、一人暮らしが希望なら、別に家をプレゼントしてもいい」


穏やかな声に、私は悟った。これはお疲れ様会ではなく、彼にとっての「お別れ会」なのだと。


ここで別れるのが、世間的には「正解」なのだろう。輝夜は私からは手を引くと言ったが、漆喰さんへの執着は消えていない。私たちが結ばれることを期待している節すらあった。

だから──テーブルの下で拳を握り、背筋を伸ばした。


「そうですね。漆喰さんにプロポーズまでされて、下の名前で呼ばれたり抱きしめられたりしたのに、この家を出ていくのが正解なんですね」


「……」


漆喰さんは分かりやすく目を逸らして、ビールを飲んだ。


「そして漆喰さんにプレゼントされた家で、漆喰さんの知らない誰かと結ばれて、幸せに過ごせということですか。あ、それとも白狐様の嫁になればいいってことでしょうか?」


飲み終えたコップをコツンと置いたとき、漆喰さんは私を射抜くように見据えていた。


「じゃあ、俺と結婚するか?」


「──!?」


突然の言葉に、椅子がガタリと鳴った。


「ほら、俺と結婚するつもりはないだろ。だったら、年頃なんだから誰かと恋愛するほうがいい。このまま俺のところにいたら、君は他の人と恋愛ができない」


「っ、そうやって正論ばかり言って、大人ってズルくないですかっ!?」


立ち上がって抗議する私に、漆喰さんも立ち上がり、そばに寄ってきた。


「大人はそんなもんだよ」


「……なんですか。今すぐ放り出す気ですか」


「まさか。手を出して」


おずおずと手を出すと、掌にキラキラと輝くシルバーリングが置かれた。


「それ、あげる。俺と結婚したくなったら付けて。あとは……そうだな。ここに残るのも、出ていくのも、階さんの好きなようにしたらいい」


いや、待って。頭が真っ白だ。これって、まさか。


「……し、漆喰さん。これって、婚約指輪!?」


「正解。じゃ、食事の続きをしようか。すき焼きも残っているし、ワインも開けたいな」


呑気なことを言いながらキッチンへ向かう漆喰さんの、ズルい背中に言葉を投げる。


「またそうやって、ビジネスプロポーズする!」


「ビジネスプロポーズじゃないと、俺がお狐様に祟られるねん……はぁ」


肩を落として冷蔵庫を開ける漆喰さん。


「え、今、なんて言いました?」


「いや、別に。……そうだ、今度の休み、悪いけど付き合ってほしい場所がある」


指輪をくれた直後に別の話題を切り出す。これが大人の余裕なのだろうか。手の中のリングはシンプルだが洗練されたデザインで、からかいではないことが伝わる。


「……どこですか?」


「──お墓参り」


「!」


「階さんとなら、大丈夫な気がするから」


また綺麗に微笑まれるが、私は騙されない。


「告白した後に誘う場所がお墓だなんて、あんまりですっ! きっと周りに悪霊がいて、私に憑いている白狐様の力で祓いたいからでしょうっ!?」


漆喰さんは楽しげに苦笑する。


「そうそう。階さんがいたら、俺は大丈夫なんだろう。お墓参りが終わったら、好きなところどこへでも連れて行くから」


「……世界一周でも?」


「ええよ。世界二周ぐらいしよか」


どこか本気めいた口調。優しくて温かなオリーブグリーンの瞳で言われたら……もう、リングも受け取ってしまっている。


──まるでハネムーンじゃないか、と思ってしまったので、そっぽを向いて「もうっ」とお茶を濁した。

今すぐ返事なんてできない。しっかり考えたいし、何より今はまだ食事の途中だ。


私がこのあと、本当にこの指輪をはめたら、この人はどんな顔をするだろう。

私はリングをポケットにそっと忍び込ませた。


そして二人でワインとグラスを持ち、美味しい香りが漂う食卓へと戻るのだった。


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