事故物件の闇
私たちは言葉少なく部屋を退出した。立入禁止の看板を背にした、その時。耳に変な音楽が聞こえてきた「あれ……」と思い、足を止める。
すると漆喰さんも足を止めて「どうした?」と視線を投げかけてきた。
「何か、音楽が聞こえませんか?」
「音楽?」
「どこかで聞いたことがある……なんだろう、このテクノサウンドみたいな歪な音は……」
周囲を見回すと、そこには清々しい青空が広がっていた。
登校する小学生。自転車で走り去る人。駐車場からゆっくりと動く車。
そんな平穏な朝の光景に、ノイズを走らせる不協和音。眉をひそめた私の視線の先に、一人の老婆が佇んでいた。
老婆は蓑虫のように、季節感を無視した服を何枚も重ね着している。その手には、一台の古いラジカセ。
……あれは、夢で見た祠の前で流れていたものと同じ型だ。そう気づいた瞬間、背筋にゾクりと冷たいものが走った。
「階さん、どうした。大丈夫か」
「漆喰さん。あのお婆さんが持っているラジカセから流れている音……夢で聞いたものと同じです。それに、あのラジカセも……!」
夢と現実の不気味な一致に、思わず漆喰さんの側へ寄る。すると老婆は、シワに埋もれた口をがぱりと開けた。
「あぁ〜! お前たち、そこで何をやっているんだ! また不幸が溜まる! 子供を殺したくせに、次は私を殺す気か! 私はカルマを追い出す! 私はカルマを追い出す! あぁ〜!!」
心ここに在らずといった狂気の声。
老婆はラジカセのボリュームを最大まで上げ、その場で一心不乱に拝み始めた。
朝の風景の中で、老婆の周囲だけが異質な空間へと変貌していく。
意味は分からない。けれど「カルマを追い出す」というフレーズは──きっと、健照教だ!
得体の知れない恐怖に足がすくみかけた瞬間、ガシッと漆喰さんが私の肩を掴んだ。
「漆喰さん、あのお婆さんは……」
「あの人は、健照教の最初の被害者だ。かつては人望も厚い主婦だったが……子供が亡くなってから今は、ずっと一人で過去から抜け出せずにいる。階さんが気にすることじゃない。行こう」
漆喰さんはそれだけ言うと私の肩を抱き寄せ、老婆の横を素早く通り過ぎた。
周囲の人たちも、いつものことだと言わんばかりに、遠巻きに無視を決め込んでいる。
背後からは、あの妙な音楽と叫び声がいつまでも追いかけてくる。
それは耳の奥にこびりつき、いつまでも反響を続けていた──
※
俺は泉北の団地から階さんを家に送り届けてから、身支度を整え、厨子の手入れして手を合わせ。すぐに家を出た。
向かったのは、なんばパークスの屋上ガーデン。
そこは管理の行き届いた都会のオアシスで、遊歩道や花壇が公園のようにならんでいる。
その奥のベンチに腰掛け、俺はアイスの缶コーヒーを開けた。
いつものスーツを脱ぎ、ダークブルーのカーディガンに白シャツというラフな格好だが、気持ちは少しも休まらない。
「……眠いな」
ネカフェで仮眠とシャワーは済ませたが、横になりたいのが本音だ。
朝から泉北の団地を走り回り、職員への説明と鍵の返却も終えた。これで、あそこの一件は終了だ。
「これでまた、協力者を確保できた……」
ふぅ、と息を吐くと、寝ぼけた階さんに抱きつかれた時の柔らかな感触が蘇った。眠気と感触を払うようにコーヒーを一口流し込む。
指先に伝わる冷たさと、暖かな日差し。光が妙に目に染みた。
「あの主婦……普段は引きこもっていると聞いていたが、階さんがいたから現れたのか」
独り言は爽やかな風に溶けていく。真実はわからないまま。
平日昼間の屋上に人は少ない。天満橋もそうだが、俺はこういう管理された自然が好きだ。
安心ができる。人の手の届かない領域は、どこか恐ろしい。
そんなのどかな空間に、ガラガラとキャリーケースを引く音が響いた。
センター分けのウェーブヘアに分厚い眼鏡。古着をゆるりと着こなした怪しい男──望が現れた。
「神楽氏、お待たせ。相変わらず、勝手に撮影所を抜け出してきたモデルみたいな姿ですなぁ」
「うるさい。誰がやさぐれモデルや」
望相手では、素の言葉が自然に出る。
予備で買っていた缶コーヒーを投げると、望は危なっかしくキャッチして俺の隣に座った。
「ふぅ。有り難く頂戴するナリ。して、神楽氏にはコレを」
望が肩に掛けていたバッグから、厚みのある封筒を取り出した。封筒からは微かにお香の香りがする。
「青蓮寺氏から預かった、お清め済みの書類一式。それと健照教の調査報告。あとは宗教訴訟に強い弁護士の情報満載ナリ」
「助かる。呪物は多めに箱詰めして配送手配済み。近いうちに届くから確認しておいてくれ」
望は満足そうにコーヒーを啜ると、ふと真面目なトーンで呟いた。
「神楽氏。……拙者、余計なことを今から言うお」
「あぁ」
「輝夜氏のことは、もう放っておいてもいいのでは。世間的には、神楽氏の両親は不審者に殺害され、弟の輝夜氏も巻き込まれて行方不明……未解決事件となっているのが定説で……」
俺はコーヒーの苦味を味わいながら、望が口にしにくい真実を先に言ってやった。
「──本当は、弟の輝夜が両親を殺した」
ビクッと望の肩が揺れる。
この事実は望と、俺の身元引受人となった祖父母しか知らない。




