12.
世界についての話をしよう。
日本があって、アメリカやブラジルやその他様々な国があって、地球があって太陽があって銀河や天の川ブラックホールに宇宙の果て、異次元多次元辺りはもうあるのか無いのかもよくわからないが、そんなものを諸々内包したもの。
これも一応は世界だ。
しかし俺達一般市民が世界と呼ぶ時にそんなものを考えるはずも無い。地球の裏側どころか同じ国に生きる他人の事すら考えもしない。場合によっては隣家の人間の事にさえ思い至る事も無いだろう。俺だってそうだ、出会った時に挨拶ぐらいはするものの普段から彼らの事を考えたりなどするはずも無い。
……俺にとって世界とは長らく藍色がいるだけの、あとは精々叔父がいるぐらいの本当に狭い範囲のものだった。それ以上の広い世界の事はとてもとても抱え切れないと思って考える事さえして来なかったのだ。
そうだったんだがなぁ……。
施錠されている学校に侵入するというのはどこか不良になった様であまり良い気分ではない。無論、それが正式な招待を経ての事だとしても、だ。
「九常さん、これって後で先生にばれて成績下がったりしないよな?」
「いいから着いて来なさい」
今日は五月三日、ゴールデンウィークの休みに入ったばかりだというのに俺は何の因果か学校に来ている。より正確に言えば目的地は学校ではなくその裏手にある尊王会の秘密基地なのだけれど。
コンクリート打ちっぱなしで圧迫感を覚える相変わらず居心地の悪いその場所へ来て階段を下るのだがどうにも足が進まない。たぶんここにはあまり良い思い出が無いからだろう。溜息交じりに薄暗い階段を進んでいると先先進んで行く九常さんが振り向いて睨み付ける。
「ちゃんとついて来てよ」
ここまで来て帰ったりしないって……。
足が進まないのは何もこの場所の雰囲気だけでない事はとうにわかっていた。それは昨日された話が大きく関係している。
四人での食事会の後、九常さんは天使ちゃんを連れて帰ることになったのだがその帰り際の事だ。
「明日なんだけど、時間はある? この子の事とか他にも色々と調べたいことがあるから学校の裏手、尊王会の基地に来て欲しいんだけど」
言葉の上では断りたかったら断っても良いような雰囲気を出していたが彼女の目を見れば断ればどうなるかは火を見るよりも明らかだった。残念な事に藍色と一緒に遊ぶ以外の予定も無く、上手い言い訳も思いつかなかった結果、連休初日からいきなりこんなことに時間を使う羽目になったという訳である。
悲しい……、今日は一日中藍色と遊ぶつもりだったのに……。
「そんなに妹と一緒にいられないのが嫌なの?」
階段を下りて通路を歩いていると九常さんが呆れたような表情をこっちに向ける。
「顔に出てたか?」
「ええ、とても」
そうなのか。まあそうだろうな。実際めちゃくちゃそう思ってるわけだし。あ~、今すぐ帰りたい!
「まあ、なるべく早く終わるようには取り計らうわ」
「本当か!?」
「ええ、だから……」
幾つかある扉の内の一つに九常さんが手をかけた。そしてそれが開かれる。
……その向こうには数人の白衣を来た男女、しかしその瞳はどこか常軌を逸した様子で控え目に言ってもまともな医者には見えない。こんな連中を相手なら民間療法に頼った方がきっとましだろう。
「あ、ちょっと急用を思い出した!」
即座に引き返そうと思ったのだが階段がみっちりと……、羊? みたいなのによって塞がれている。
「……九常さん?」
「早く終わるように取り計らうから、抵抗せずこっちに来てね」
どうやらここに来た時点で逃げ道など無いようだ。俺にはもはや大人しく従う外に道はない。諦め、全てを受け入れよう……。
まあ結論から言えば九常さんは基本的に俺の味方だったので人体実験じみた事はされずに済んだわけだが。しかしどんな内容だったのかについては思い出したくないので割愛する。
様々な検査の結果が出るまで隣の部屋でしばらく待機となる。この何も無い空間で待ち続けるのは本来ならば酷な仕打ちだと騒ぎ立てる所存であったが、幸い今日の所は退屈とは無縁だった。
「おにいちゃん」
指差しと共に俺をそう呼ぶのは天使ちゃんだ。う~む、まるで幼稚園児のような発音だ。なんとなく、文字で書かれているなら全部ひらがなで書かれているようなどこか舌足らずな音と感じる。真面目に考察するならこれまで喋るという行為をしていなかったから慣れていなくてそうなるのだろう。
「天使ちゃん、元気か?」
「げんきげんき!」
ばたばたと跳び回っているので間違いなく元気なのが見て取れる。そもそも身体能力で言えば俺は天使ちゃんにたぶんぼろ負けだからなぁ。腕力ぐらいは勝ってるんだろうか? 試してみたいが……、ま、これからいくらでも機会はあるだろうし今日の所はいいや。
「ここの人は良くしてくれるか?」
「んー?」
「あー、まあ……、どう言えばいいんだ? 優しくしてくれるか?」
首傾げ、と。天使ちゃんって知識の偏りが激しいから話をしてもどこまで理解してるのかわからないんだよなぁ。
天使ちゃんは尊王会の監視下に置かれることとなっている。基本的には九常さんが監視役として傍に配置され持っていた剣は尊王会の管理下にある金庫に保管されるとかなんとか。あまり興味が無かったので真面目に聞いてはいない。
とりあえず偶に会いに行くぐらいは出来ると聞いていたがこんなに早い再会になるとは思ってなかった。
……実は結構気まずいんだよなぁ。
二人並びベッドに座り込む、というか俺が座っていたら隣に来ただけだけど。呼吸を整え、覚悟を決めて、ゆっくりと口を開く。
「天使ちゃんにさ、ちょっと聞きたいことがあったんだけど」
「ききたいこと~?」
「俺のやったことは迷惑じゃなかったか?」
剣を持った時の天使ちゃんはまともな状態では無かったのは間違いない。目に捉える事すら難しい程の異常な身体能力だとか放たれた殺気だとかは恐らく武王の御物だったというあの剣の仕業なのだろう。そして俺はあの時、深い水の底に沈んだような暗い瞳をしている天使ちゃんを放っておくことは出来なくて、まあ、彼女のヒーローになろうとしたわけなんだが……。
本当にそれは正しかったのだろうか、と、冷静になった今になって思うのだ。
別に俺は人の心の内が読めるわけでは無いし、表情や態度の機微で読み取れることが全てなはずも無い。そしてあの時の天使ちゃんは少々不気味ではあったが笑みを浮かべていた、声を上げて笑っていたのだ。あれが心の底から楽しくて笑っていたのだとすれば……、俺のやった行動は滑稽な自己満足に過ぎなかったと言わざるを得ないのだろう。
結果に対して後悔があるわけでは無いのだが、そこに問題があったのならば謝る必要ぐらいはあるはずだ。
「俺は天使ちゃんを……、こっちの世界に引き留めて良かったのか?」
だから尋ねる。天使ちゃん本人に俺の正否を決めてもらおう、そう思ったのだ。
しかし尋ね方が悪かったのか、或いはそもそもそんな質問に答える気が無いのか天使ちゃんは何も答えなかった。溜息と共に俯き目を閉じる。まあそりゃそうだ。俺の我が儘でやったことだ、その結果に対して責任を取るべきは俺だろう。きっとこれから先も俺はこのどうにもならないもやもやとした気持ちを抱えて行くしかないのだ。
後悔は無い、無いのだが。彼女にとってもっと良い結末を奪ったかもしれない事だけは胸に刻んで行こう。
不意に手が強く握られた。
「……天使ちゃん?」
目を開けると目の前には俺を見つめる天使ちゃんの姿が。そして、
「わっ!」
不意に勢いよく手を引かれた。身体が自然と起き上がり前に進む。天使ちゃんに引かれるままにこの狭い空間の中を走る、走る、走る!
速い、速い、速~い! いや、速過ぎる!
結局、天使ちゃんが止まったのは人間の限界を超えたような動きをさせられ続けた俺が疲弊し足もまともに動かなくなってただの重りになった頃の事。走力、体力、共に俺は天使ちゃんに全く敵わないというわけだ……。
く、悔しい! 俺はもっと強くなるぞ!
「はぁ、はぁ、げほっげほっ」
……それはそれとして息が、まずは一旦呼吸を整えよう。
深呼吸、深呼吸、ベッドに縋りつくようにして体力回復を図る事五分ほど。ようやくまともに動けるようになって来たので立ち上がる。
「天使ちゃん、楽しいか?」
「うん!」
満面の笑み、うむ、苦労した甲斐があったというものじゃ。
「しかし何でまた急にあんなことを?」
まあそれはそれとして気になることは聞いておく。あまりに急だったので何か意図があるのだと思っているのだけれど、具体的には俺がした話に関わるような何かが。
それで俺が何か言ってくれるのを待っていると、天使ちゃんはこちらに来て手を前に出した。まるでこの手を取れと言わんばかりに。
「……俺、もう一回はやらないよ?」
「え~」
何度かのやり取りを経て絶対に走り回らないという約束を交わした上で天使ちゃんの手を取る。約束が破棄される可能性を考えて身構えていたのだがそれは杞憂で終わった。
「たのしかった?」
ただ彼女は手を取った上でそう尋ねただけだ。そしてその言葉が持つ意味は……、まあ、言葉通りだろう。
「走り回るのなら、まあまあ楽しかったかな。ただ今日はちょっと疲れたかな、次やるまでにはもうちょっと鍛え直しとくよ」
その答えに天使ちゃんは満足したようで瞼を閉じて目を細め唇の端を緩める、そんな穏やかな笑みを浮かべる。この時ばかりは天使ちゃんが幼稚園児などではなく、まるで歳の離れた姉が弟のやんちゃを許す余裕というか包容力というか、そんな静かな温もりを湛えているように思えた。
「え……、っと?」
しかしまあ俺は少々脳味噌が貧弱なもので天使ちゃんがどういった意図でこんなことをしたのかさっぱり掴めていない。そんな困惑の最中、再び天使ちゃんが俺の手を強く引く。
「おっとぉ?」
一瞬また走り出すかと思ったが天使ちゃんは俺の手に無理矢理に彼女自身の手を握らせた。
「……ん~?」
そして強く、強く、握らせて、それからこちらを見た。輝きを放つ瞳で。
天使ちゃんのその表情には不安もあったと思う。それはその真意が伝わるかどうかの不安である、最初はそう思ったのだが。
不意に気が付いた。
「……あぁ~」
思わず声が出た。頭を掻きむしり苦悩懊悩、真意を理解したからこそ漏れ出る呻き声に我ながら情けなさを感じつつ、だ。
でも、そうだ。確かにそうだ。
「天使ちゃん」
理解し、納得し、だからこそ呼び掛ける。
天使ちゃんが見せていた不安はこれから先に待ち受ける未来への不安だ。しかしそんなものよりもずっと大きなものが彼女の瞳の輝きを形作っていた。これから先に待ち受ける未来に対し人が持つのは不安だけじゃない。それよりも大きな期待、輝かしい未来への期待だ。
俺は天使ちゃんをこっちの世界に引き戻した。だから。
「これから楽しい未来が待ってるぜ」
だから本当はあったもっと良い結末よりも、楽しくて笑いが絶えなくて、そっちの天使ちゃんが羨んで嫉妬するような未来を作ってやるよ。
「たのしみ」
期待と高揚に溢れた声が未来への道を彩った。
しばらくして俺はもはや聞き馴染みのある声に呼ばれて部屋の外へ。そこにいたのは背が低い、女の子自分より高い位置の全てを敵視するように睨み付けているのがよく似合う元転校生にして現同級生。
「九常さんの方の用事は終わったって事で?」
「そうね。あなたの身体の中にある武王の御物についてはとりあえずこれ以上の調査は不要との結論が出たわ」
「おお、面倒事が無くなったのはありがたいね」
「結果としてあなたの持っている力は自己治癒能力ではあるけど若干特殊という事も分かったわ」
「特殊?」
再生に特殊も何も無いだろう。要は傷が治るのが早いってだけなのに。
「少し疑問があったのよ」
「というと?」
「自己治癒能力なのはともかく痛みを感じないのは違うでしょ?」
「ん~?」
そう言われて見るとここ数日痛いと思った記憶があまり無いな……。冷静に考えると結構色々な目に遭っていたような気がするのに、さっき天使ちゃんに引っ張られて走った時も痛みを感じた記憶は無い……。
なんかちょっと怖くなって来たな
「結論から言えば、あなたの身体は全身トカゲの尻尾なのかもしれない」
「全然わかりませんが」
「いざという時に切り捨てられる、みたいなことね」
「どういうことだよ……」
俺はトカゲの尻尾のように身体の一部を地面に投げ捨てた記憶は無いが。
「例えば……、ちょっと上を見てみて」
九常さんが天井を指差すので思わず釣られて上を見る。瞬間、手に何かが触れた、と思ったら。
「うわっ、えっ? 折った!?」
俺の右手の指があらぬ方へ曲がっている。今の一瞬で九常さんがやったことだ、が。
「……全然痛くない」
「でしょうね。そして今治療が進んでるわ」
「そうなのか?」
見ていても全く分からない。というか明らかに折れてないとおかしい方向に指が曲がっているのに痛みが無いというのは不気味な感覚だ。大丈夫なのか俺?
「あなたの身体はダメージを受ける際に、それを理解した直前にその部位を殺すみたいよ」
「部位を殺す?」
「切られたトカゲの尻尾を切ろうが潰そうが痛くも痒くも無いように、死んだ部位への攻撃は痛みとは無縁になる」
「……成程?」
「危機が去るとあなたの身体は死んだ部位の治療を始める。そういう仕掛けらしいわ」
「しかし指ぐらいならともかくそれって場所によっては自爆になるのでは? 例えば心臓を撃たれそうだからって心臓が死ぬような事があれば当然死ぬだろ。使い辛ぁ~」
「理論上、この自死で死ぬことは無いらしいけどね」
そう言われたところで信用できるかは別だ。理論上はなんて聞いたってわざわざ試したいとは思わない。そもそも正直理屈がどうこうはあまり興味無かったしなぁ。結局は怪我が早く治りますよってだけじゃん。
という事を考えていたのだが九常さん的には少し違うようだ。
「おかげで一つ謎だったことが分かったわ」
「謎だったこと?」
どうやら俺のこの体質? のおかげで世界の深淵に一つ迫って行けるらしい。きっと武王の御物における古くからの謎とかそういうやつに違いない。
「何が分かったんだ?」
「なぜあなたが切られずに済んだのか」
「ん?」
俺が切られずに済んだのか……、って。それってどう考えてもつい昨日の、天使ちゃんが俺に襲い掛かって来た時の事では?
「不思議だと思わなかった? 私の可愛い眷属たちはあんなにあっさり切られたのにあなたが無傷だなんて」
「人と人とを繋ぐ絆がその手を止めさせた、みたいなことだろ? 天使ちゃんがあの剣の支配を打ち破って手を止めたってわけだ」
人と人との絆の勝利、美しきかな。しかし九常さんはそうは思ってないらしい。指を立てどこか得意気に口を開く。
「あの剣、生き物を殺す剣なのよ」
「……つまり?」
「切られそうになった瞬間にあなたの身体はその部位を殺すから殺すに殺せない、だから斬られずに済んだってわけ」
……俺はあの瞬間、人と人との絆とか友情とかそういうものを天使ちゃんとの間に感じていたわけだけど、その意見を認めるのであればそれは全て勘違いでたまたま得ていた力の相性が良かったってことになりません?
「九常さん」
「何かしら?」
「その意見は撤回してもらう」
「残念ながら既に公式の見解としてまとめられたわ。良かったわねぇ、あなたのおかげで研究が一歩進んだみたい」
「い、嫌だ! あの瞬間はもっと、もっとなんか感動的な場面だったはずなんだ!」
俺が心の底からの叫びを上げるのを九常さんはけらけらと笑って眺めていた。九常さんの笑顔は転校して来てから初めて見た気もする。案外素直に笑えるんだな、とそんな陳腐な感想が浮かんでいた。
ようやく用事を終えて薄暗くて息の詰まる打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた空間から抜け出す時が来た。時間は昼間を回って既に二時過ぎ。藍色はちゃんと昼ご飯を食べただろうか?
「おうちに早く帰りたいでしょうし、送りましょうか?」
見送りに来ていた九常さんは俺がスマホで時間を確認しているのを見てそんな提案をした。実際、それは願っても無い提案だ。
しかしその前に、一つ思い出したことがあった。
「九常さん、連絡先教えてよ」
「は?」
「これから先お世話になることが増えると思ってさ」
「……私は別にあなたの世話係じゃないけど」
「まあまあそう言わずに」
そんな風に押してみると九常さんは案外すぐにスマホを取り出して連絡先を交換することと相成った。うむ、これで俺の少ない連絡先が一つ増えたわけだ。
で、だ。これは実のところ本題じゃないのだ。その前哨戦と言うべきか。
「それでさ、九常さんは明後日空いてる?」
「は?」
「予定ある感じ?」
その問いに対しては疑心暗鬼というか、眉間に皺を寄せてあからさまに訝しむようにしてこちらを睨む。そんな対応をされるとこちらとしては苦笑いを浮かべる他にどうしようもない。
「どういうつもり?」
「いやいや、普通に遊びに誘おうと。同じ学校、同じ学年、同じクラスだぜ?」
「それはそうだけど……、あなた妹の事以外はどうでもいいんでしょ?」
……それを言われると痛いなぁ。これまでの俺が積み上げて来た信頼と実績故と言うと悲しみが溢れるばかりだが。
「……まあ、さ。今回の件で色々と思う所があってね。考えを改めたというかな」
そう言ってもまだ胡散臭い物を見る目でこちらをじっと睨み付けている。うーむ、信用無いな、俺。
「まあまあまあ、クラスの親睦会みたいなもんだと思ってさ? 真柴や常見も折角同じクラスに来たんだから是非にと申しておられましたよ?」
「は?」
む、急に変な言葉遣いをしたせいかあからさまな威圧を喰らってしまった。ううむ、これ以上の交渉は難しいか?
「……要するにあなた個人の誘いじゃなくてクラスの人みんなで遊ぶ会に来ないかって言われてる?」
「そうだけど……。あ、言ってなかったな」
普通に言い忘れてた。まあ仕方ない、俺は人を誘うだなんて事は初めてだったんだ。最初は誰だって間違えるものだ、次からは気を付けるとしよう。
それはそれとして九常さんは溜息をついてあほらし、と呟いた。もしかしたら独り言のつもりかもしれないが聞こえてるぞ。
「悪いけど断っておいて、私は忙しいから」
そのままどこかへ行こうとする九常さんに回り込みを仕掛ける。悪いが逃がすわけにはいかない、色々な意味で。
「ちょっと?」
「いや、送ってくれるって約束をね」
「あ」
「だから空の上でもう少しお話ししましょうか」
あからさまに嫌そうな目を向けられたが仕方ない。こればかりは仕方ないのだ。
結局、空の上で再三にわたり勧誘を続けた結果、仕事の調整を出来るかどうかわからないので後で改めて連絡をすると言う約束を取り付けた。まああれだけ嫌がっていたのだからこの約束を取り付けただけで値千金だろう。
家の前に下ろされ、九常さんが去って行った空を見上げる。
雲は薄く、青空が広がっている。
俺は頭の中で連休の予定を組み直していた。今日は後の時間で何をしようか。藍色が宿題をやっていないようなら一緒にやるのも悪くない。それとも時間のあることだし久しぶりにケーキでも焼こうか。藍色の好きなチョコレートケーキを作るには材料が足りないかな。
明日は完全にフリーだし藍色と一緒に遊びまくろう。たまには一日中ごろごろする日があっても悪くないだろう。いや、天使ちゃんと遊べるなら藍色を連れて会いに行くのも悪くない。しかし明後日の事を考えると何かお菓子の一つも作っておくべきだろうか?
明後日は真柴や常見たちと遊ぶことになっている。スマホを開きメッセージを改めて見る。九時に駅前集合と書かれた文章で終わったそのトークルーム。遡って行くと昨日の夜にしたやり取りがまだ見直せる。やっぱり行くという一文を送った後の真柴の反応は一晩経った今見てもあまりに大袈裟で面白い。その後の常見はなぜか熱でもあるのかと心配する一文だ。俺がどんな風に見られているのかよ~くわかる会話だなぁ。
「……まあ、楽しみ、かな」
不安と期待が半々ってところだが、ここは前向きな言葉を言っておくのが吉だろう。
風が吹いて植木や髪を揺らして行く。気が付けば十分以上もこの場で立っていたらしい。
「そろそろ入るか」
そう思った直後、スマホが通知を伝える振動をした。その内容を見て俺は、たぶん、笑っていただろう。
世界が広がる感覚は、まるで空に足を踏み出すような気分だ。どうしようもなく落ちて行くのではないかという不安と、どこまでも行けるのではないかという期待。
俺はそんな一歩を踏み出していた。




