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ヒロイック・アバンチュール  作者: 藤乃病


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1/12

1.

 妹の話をしよう。

 勉強に部活に友達との遊びと日々の暮らしを様々に追い立てられる高校生にとって妹の存在とは往々にして面倒なものだ。

 妹とはとかく手がかかる。買い物に行くとなれば電車代は兄が払い、電車では自らの身を犠牲にしてでも必ず席に座らせ、長い時間のかかる服選びの間はずっと遠くへ行ってはならず機嫌を取るトークを続け、昼飯は彼女の気に入る店を事前に下調べをしておき、帰る頃には両手に抱え切れない程の荷物を全て持ってやらねばならない。丸一日を潰して得られるのは恐ろしい程の疲労と一日を無駄にしたという虚しさだ。

 しかしたとえ後に虚無感に襲われることが分かっていようとも妹の機嫌は取らねばならない。彼女が泣けば親はこぞって兄を責め、来月からは小遣いが半分、下手したら消え去ってしまうかもしれない。友人と遊ぶことも出来ないし帰りに買い食いをしたりゲームや漫画を買う事も出来ない。そんなことになってしまったら一体何を楽しみに生きて行けば良いのだろう。空を見上げ涙を零す。

 ああ無常、無常。

 買い物の例は全体の一例に過ぎず、世の多くの兄にとっては妹とは無慈悲な王様のようなものだ。家庭内の自身の立場を守る為には彼女を常に立てる必要があり、決して逆らうことなど出来はしない。成程、中学高校ともなると男子諸君が家に寄り付かなくなるのはそういったわけがあったのだ……、という事らしい。

 まあ、どれもこれも同級生の話でこの俺、茉莉緋色には当てはまらないが。

「藍色。帰ったぞー」

 家の戸を開けて妹の名を呼ぶ。俺が帰る時間、藍色はいつも二階の自分の部屋で宿題をこなしている頃だ。今日もその通りだったようで上の階から扉の開く音がした。

「おにーちゃん、お帰りー」

 間延びした声と共に一歩一歩ゆっくりと階段を降りる音。

 徐々に姿を現すのは我が妹、茉莉藍色。未だに小学生と間違われる大きさだがれっきとした中学生。長く艶のある名前同様に少し藍色がかった髪を揺らしながら、手すりを両手で掴み慎重に階段を降りて来る。

「今日の宿題はどうだ?」

「んー、ちょっと難しい」

「そうか、手伝いはいるか?」

「もうちょっと頑張る」

「そっか。なら頑張れ」

 そんな簡単な会話を終えると藍色は来た道を引き返し階段を上って行く。

 藍色は歳が四つ離れた妹だ。小さい頃から後ろをちょこちょことついて来ていたお兄ちゃんっ子でもある。……たぶん。

 まあそれはそれとして俺と藍色の関係は同級生が語る兄妹論に比べてかなり良好だ。藍色が我が儘を言う事は無いし可能な限りは自分の力で何とかしようとする心を持っている。俺としては寧ろ甘やかしたいぐらいなのだが……、あまりやり過ぎると煙たがられるのでほどほどに、だ。

 とりあえず今は……、そうだな。機を見ておやつでも持って行こうかな。適度な当分は勉強の効率を上げるとか嘯くとしよう。




 おやつを持って行ったあと、自分の宿題をさっさと終わらせる。藍色とは対照的に同級生の中でも身長が高くガタイもいい俺だが成績は悪くない。これも妹にいつ勉強について聞かれても良いよう努力をして来た成果だ。ふと窓から外を見ると夕焼けが町を赤く染めている。そろそろ晩御飯の準備をしなければ。

 藍色の部屋の戸をノックしてから開ける。

「晩御飯作るけど何か希望はあるか?」

 夕食を作るのは言うまでも無く兄である俺の仕事だ。藍色にそんなことはさせられないからな。

「何でもいいよ」

「じゃあ肉じゃがでいいか? ジャガイモが余ってるからな」

「人参いっぱい入れてね」

「はいはい」

 人参、今高いんだよなぁ。まあいいか。妹のたっての希望だと言うのに断っては沽券に関わる。ここは真っ赤に染まった肉じゃがを作り上げてやろうじゃないか。

 ……いや、流石にそれは嫌がるだろうな。

 台所へ向かい鍋を火にかけながら野菜をぱっぱと切って行く。人参を一本、いや小さいから二本入れるか?

 藍色の好みを考えながら料理を進めていると階段を下りる音が聞こえて来る。その足音はこちらへ近付いて来てリビングにある食卓で止まる。

「お兄ちゃん、テレビ見ていい?」

 妹が食卓に置かれていたテレビのリモコンを掲げている。

「好きなの見ていいぞー」

 チャンネル権は当然妹にあり。兄に好きなものを見る権利などない。

 今の時間、テレビが映すのはニュースばかりだ。お金を払えば他のチャンネルも見れるのだろうが……、ま、流石にそこまで我が儘を言う気は無い。

 しばらくザッピングしていたが最終的には地元の情報が流れている番組で止まる。

 こちらは具材を全て鍋に入れ終えたし後は調味料は適当に、と。後はしばらく放っておくだけだ。そうと決まれば台所に用は無いので藍色の元へ向かう。

「面白いニュースやってるか?」

「んーん」

 あっさり首を横に振られた。残念ながらお気に召すような話はなし、と。

『―――続いてのニュースです。住宅街で複数の動物の死体が発見され近隣の住民に不安が広がっています』

「また見つかったのか?」

 最近この近隣の一大ニュースと言えばこの動物殺しだ。

「もう最初にあった時から一か月ぐらい経つよね?」

「ん-、たぶんそうだな。さっさと捕まって欲しいもんだ」

 テレビではペットを飼っている人が不安そうにしている様子や、義憤に駆られ怒りを顕わにする様子が映し出されている。

「可哀想だね」

 悲痛な面持ちでそれを見つめる藍色。たとえ相手が赤の他人であっても同情し心を痛める、我が妹ながら純粋な美しい心の持ち主だ。

「そうだな」

 ま、もし見かけたら俺が捕まえてやるとしよう。妹の心のケアをするのは兄の役目だからな。




 肉じゃがは完成、しかしまだ食べるには早い。二人で相変わらずニュースを流すテレビ、マンションの一室から夫婦の死体が出たとかゴールデンウィークの渋滞予測とか天気予報だとか。俺達はその一つ一つに茶々を入れながらその時を待つ。

 ガチャ。

 ドアの開く音、帰って来たな。

「ただいまー」

 その声を聞いて二人で玄関にお出迎えだ。そこにいるのは見慣れた壮年の男性。

「お帰り、叔父さん」

 我らが兄妹の叔父である。確か父さんの弟なんだったか。

「おかえりー」

「いやあ、今日も遅くなってすまないね」

 詳しくは知らないが叔父は機械の営業職をやっているらしい。らしいというはあまり興味が無いから詳細を覚えていないだけでもある。

 ただ俺達の学費や生活費等諸々のお金は叔父が出しているので頭が上がらない存在だ。叔父さん本人は気にしなくても良いとは言ってくれるものの、いずれは恩を返さなければとは思っている。

「気にしないでよ。晩御飯作ったから食べよう」

 今はこうして晩御飯を作るぐらいしか出来ないのが虚しい。まあ就職したら楽をさせてあげたいものだ。

「早くたべよー」

「そうだね。そうしよう」

 夕食を囲んで一家団欒の時間を過ごす。これは数年前から叔父の家に住むことになって少ししてからずっと続けられている日常だ。流石に修学旅行なんかで抜ける事はあったが基本的に毎日行われている習慣である。話では叔父も会社に頭を下げて無理矢理早く帰っているのだとか。

 最近は俺達も大きくなったのでそこまでしなくとも、と思ってはいるけれど。

 そんなこんなで食事の時間はあっという間に過ぎて行く。手製の肉じゃがは見事に無くなり空の食器を下げる。うーん、今日も大好評、俺の料理の腕前はこの数年でしっかり磨き上げられてしまったな。

 皿洗いも手早く済ませ……、もとい食洗器様のお力を借り、さっさとリビングへ。こんな家事よりも三人の時間の方が大切な事は言うまでもない。

「緋色君、藍色ちゃん。ちょっと、話があるんだけど……」

 そう思って戻ったところで叔父が神妙な顔でそう言った。こんな顔をしているのを見たのは……、この前藍色の入学祝をどうするか相談された時以来か。

「どうしたの?」

「まあ大した話じゃ無いんだろ?」

「大した話だよ!」

 いくら声を荒げられてもなかなか信用し難いものがある。ゴールデンウィークも近いしそこでどこに出掛けるかの相談とかだろうか?

「実はこのゴールデンウィークなんだけど」

 お、当たりか?

「出張が入ったんだ」

 あ、外れか。

「出張? 珍しいね」

「今まではずっと断って来たからね」

 そうだったのか。知らなかったぞ。藍色もそうだったんだ、と小さく声を漏らしている。だよなぁ。

「兄さん義姉さんの忘れ形見である二人を置いて出張だなんて絶対に嫌だと会社に言い続けて来たのさ。大人が駄々っ子のように暴れ回る姿には上司同僚全員が引いていたとも」

「それは俺も聞きたくなかった」

「私もー」

 想像するだに……、恐ろしい。これまで保たれていた叔父への尊敬の念が吹っ飛んでしまいそうだからこれ以上は考えるのを止めよう。

「でもねぇ、藍色ちゃんが中学生に上がったことをこの前から自慢し続けていたんだけど。ほら、正門の所で撮った写真とか見せびらかしてさぁ。そしたらもう中学に上がったんなら二週間ぐらい家を空けてもいいだろうって……」

「あぁー、成程」

 仕事の事は分からないけど藍色の事を自慢してるのはめちゃくちゃ想像がつく。叔父はどうやら俺と藍色の事が可愛くて可愛くて仕方がないようで、三者面談で叔父が俺を褒める言葉が止まらなくてたまらず横から口を塞いだ事もある。藍色も参観日は後ろでうるさいから来てほしくないって言ってたしな。職場でもその調子なのは容易に想像できるというものだ。

「叔父さんの仕事って出張するの当たり前なの?」

「まあそれなりにあるね。前から懇意にしていたお客さんがちょっと遠方に引っ越しちゃったのもあってねぇ。部長も君にしか頼めないんだとか調子良い事言ってさぁ。僕は二人の事が心配で心配で絶対に嫌だと言い続けているんだけど……」

 部長のわからず屋め、と叔父は溜息を一つ。不満を少しも隠そうとせず放っておけばこれから部長への愚痴大会が始まっても不思議はない。

 まあ心配してくれるのはありがたいけど、うん。

「叔父さん、俺ももう高校生だぜ。身の回りのことぐらい自分で出来るって」

「それは……、まあ、そうだろうけどねぇ。済まないねぇ、家の事全然やらない叔父さんで」

 実際、家事全般は俺が引き受けている部分がある。朝早くから仕事に出掛け大体は夜の七時頃に帰って来る叔父にいつ家事をする時間があると言うのか。

 藍色? 妹に家事を任せるなんてあり得ない!

 と、それはともかく。

「叔父さんのおかげで俺達が不自由なく暮らせてるんだから家事ぐらい当然だって。なあ藍色」

「うん、お兄ちゃんの言う通り」

 藍色も俺に同調する。

 不満げにしていた叔父さんはそんな俺達の言葉を聞くと息を呑み、ゆっくりと目尻を下げて段々と優しい表情へ変わっていく。

「そっか、そうかぁ」

 そして天を見上げて涙ぐむ。

「兄さん、義姉さん、緋色君と藍色ちゃんはそれはそれは良い子に、僕なんかじゃ及びもつかない良い子に育っているよ……」

 ……こういうところが鬱陶しいと思われる原因だ。

 ま、慣れて来ると悪い気はしないけどな。

 そんなこんなで叔父さんが落ち着きを取り戻すまでおおよそ十分ほど。

「えー、そういう訳で明後日から出張で出掛けます。二週間後には戻って来る予定ですが……。あぁー!  心配だ!」

 突然発狂したかの如く叫び声を上げる叔父を相手に俺達はどうすればいいんだ? 藍色もぽかんとして俺の方を見つめるばかり。

 仕方ない、とりあえず宥めてみよう。

「大丈夫だってば」

 背をさすりそんなことを言ってみるが。

「に、二週間も二人の顔を見れないなんて、そんな、そんなの……、恐ろしい!」

 ……俺は叔父さんの方が心配だよ。子離れならぬ甥姪離れしてくれ。

 騒がしい時間が過ぎ去ると、叔父は出張に向けての準備。全く心配性なものでその中には俺達がいざという時に使うお金の用意や何かあった時の連絡先、更には災害が起きた際の避難場所についてなどもあった。

 ……俺、叔父さんの口座のキャッシュカード普段から持ってるし、叔父さんの携帯も会社の連絡先も知ってるよ。それに災害が起きた時なんて考え過ぎだってば。ニュースでやってた動物殺しの方がまだ身近で可能性あるって。




 早朝、四月も終わりを迎えようとしている今のこの時期はまだ少し肌寒く、薄いパジャマだけで玄関前に立っている藍色は両脇を抱えて少しでも自身の身体にある温もりを逃すまいとしているようだった。

「じゃあ、行って来るから。くれぐれも、くれぐれも気を付けてな!」

 キャリーケースを引く叔父さんがそう言って出て行くのを藍色と二人で見送る。くれぐれも気を付けてって、それは出掛ける叔父さんに俺達がかけるべき言葉では? しかしそんなツッコミはギリギリまで、本当にギリギリまで家の中で粘り続けたせいで走り去って行った叔父に伝える事は出来なかった。帰ってきた時に覚えていたら言うとしよう。

 それはともかく今日から二週間ばかり藍色と二人だ。ま、やることは普段と変わらないけど。

「……とりあえず学校の準備でもするか?」

「うーん……、そうする」

 藍色はまだ眠たそうに目を擦っている。まだ日も昇っていない時間だしな、仕方ないか。

「お兄ちゃんはご飯作ってるからもうひと眠りして来ても良いぞ」

「……わかった」

 うつらうつらとしながら階段を上る藍色は少々危なっかしい。無事に部屋に戻ったのを確認し台所へ。冷蔵庫の中身は潤沢、肉、魚、野菜、うむ、いくらでもおかずが作れそうだ。

 ま、藍色はそんなにたくさん食べないから大量に作ったところで仕方ないが。普段通り普段通り、と。

 叔父さんがいないというのは確かに珍しい事ではあるが高校生にもなるとある程度は世の道理を弁えられるものだ。大人が忙しさの余りに子供に構えないという事が珍しく無いのは流石にわかっている。寧ろその辺りは過保護気味な叔父がおかしいのだろう。

 ま、今回の件で俺たちが多少手を放しても大丈夫だとわかってくれればよし、だ。

 朝日が昇り、藍色を起こし、朝食を仲良く食べて、いざ学校へ。いつも通りの日常だ。

 ……の、予定だったが。

「……まだ眠いのか?」

 藍色は朝食を終えて外に出た今でも目を擦り眠たそうにしている。

「ん~、そう、かも」

 ふむ、どうしたんだろうか。あまり眠れなかったのか? とはいえとりあえずは元気そうだし学校に行かせても問題は無いだろう。

 しかしこのままだと藍色が遅刻してしまうかもしれない。それは見過ごせないな。

「送ろうか?」

「お兄ちゃん遅刻しちゃうよ」

「自転車で爆走すればギリ間に合う」

「……じゃあお願い」

 では早速二人乗り、してもいいのだが世間の目はそれを許さないだろう。というわけで藍色を自転車に座らせつつ俺は立ったままハンドルを持つ。

「じゃあ行くぞ」

「うん」

 ハンドルを持つ手に力を加え地面を蹴る脚にも徐々に力が入る。自転車の車輪が回り出し俺と共に道を駆ける。

 傍から見れば異様な光景だろうがこれこそが法に触れずに藍色を自転車で運ぶ裏技だ。問題があるとすればバランスを取るのが難しく慣れないと普通にちょっとしたことで転びそうになることだ。これを可能とする為の特訓の日々は辛く苦しい物だったが藍色の為となれば大したことでもない。

「お兄ちゃん、もっと早くー」

「ははは、それは無理」

 まあ妹の為でも限界はある。まだまだ鍛える余地があるって事で。

 風を切る事数分、中学校の校舎が見えた。周囲にも制服を来た生徒がちらほらと見え始める。藍色の学友たちに挨拶をしておいた方がいいだろうか、なんて叔父なら考えたのだろうか。俺はそこまで馬鹿じゃないぞ。

「ここまででいいよ」

「そうか」

 藍色の言葉に従い自転車を止める。藍色は降りると眠気はようやく飛んだのかそのまま小走りで近くにいた女の子の元へ。どうやら友人らしい。うーむ、藍色の友人にぐらいは挨拶をしておくべきなのだろうか?

 俺が真剣に悩んでいると藍色は友人と共に校門の向こうへ消えていく。となるとこれ以上こんな場所に居る意味は無いな、そう判断し自転車に跨る。

「さて、俺は間に合うかな、と」

 もう自転車のハンドルを握りながら横を走る必要はない。本来の使い方を実践すべくペダルをこぐ足に力を込める。気持ちの良い朝日の中、過ぎ去っていく景色を見送りつつ考えていたのは遅刻した時の言い訳だった。




 ドアを開けて教室の後ろをずかずかと歩き、疲労困憊で乱れた息をしながら席に着く。いやはやぎりぎりだった。生徒指導の先生が校門前で鋭い視線を向けて来ていたのが印象深い。変に目を付けられてないと良いけど。

「緋色く~ん、ギリギリ遅刻回避おめでと~」

 前の席の真柴が揶揄うような事を行って来るが返事をするより呼吸を整える方が先だ。

「汗だくだくだぜ。夏はまだ先だぞ」

「あ、あぁ、ふぅ、すぅー。……そうだな」

「寝坊か?」

「藍色を送ってからこっち来たら思ったよりギリギリだった」

「あ~、妹ちゃんね。また甘やかしたのか?」

「うちの藍色はお前の所の我が儘な妹とは違うんでね。甘やかして何が悪い」

 はいはいシスコンシスコン、と真柴は適当に俺の言葉を流す。奴の妹はそれはもう我が儘らしく女王様と陰で呼んで愚痴を言っていたが、藍色の事を思うとそんな妹がいるというのは信じがたいほどだ。まあ、おそらく会う事も無いだろうし考える必要も無いか。 

「ところで聞いたか? 今度転校生が来るらしい」

 そして話題は変わる。もしやこいつこの話をしたくて俺が来るのを心待ちにしてたんだろうか?

「転校生?」

「そうそう。うちのクラスだって」

「また急だな。新学期始まったばっかだぞ?」

 まだ四月も終わってないこの時期に転校とは慌ただしい事だ。一か月前に転校しとけば新学期と同時に転校で丁度良かったろうに。家庭の都合とかあるんだろうがどうにかならんかったもんかね。

 俺がそんなことを考えていると真柴は目をキラキラさせてこちらを覗き込んで来る。

「どんなやつか知りたいか?」

「……まあ興味無いとは言わないが」

「じゃあ数学の宿題見せてくれ」

「お前それが目的かよ」

 この男、まともに宿題をやって来ない事に定評がある。俺が話をするようになったのも向こうから宿題を見せてくれと泣きつかれてからだったな。そんなことを思い出しながら数学の宿題を手渡す。

 ありがてぇ、と叫ぶ真柴を余所に転校生について少しだけ思いを馳せる。……さっきは興味無いとは言わない、とか言ってみたけど……。うん、興味ねぇな。

 漫画やアニメじゃ突然の転校生なんてのは非日常の始まりだったりするものだ。そう思うと俺はここで期待と不安の入り混じったわくわくドキドキの時間を過ごすのが正解なんだろうが、生憎ここは現実だ。俺の生活に転校生が差し挟まる余地は無い。

 頭に浮かぶはピースしながらほんのり笑顔を浮かべる藍色。うん、やっぱり藍色の事が一番だ。

「そういや転校生の情報だけどな。誰かが言ってたんだけど転校生女子らしいぜ」

 まあそんなことを思っていたところで真柴は話したいんだから当然その話を続行。別にそれが嫌なわけではないけどな。

「女子なのか」

「可愛い子だと良いけどなぁ。誰かが職員室に見慣れない制服の子を見たって言ってただけだから詳しい情報は無くて顔とかわかんないんだよな」

「そうなのか」

 可愛い子ねぇ。俺に取っちゃ学校生活は平和が一番。転校生が可愛い事よりも波風立てない穏やかな奴であることを祈っておくとしよう。

 授業が始まる。数学、国語、理科、社会と勉強を黙々とこなし、昼休憩。弁当を食べれば昼からは体育だ。

「今日のサッカーは俺が勝つぜ」

 真柴はやる気満々らしい。前回負けたのが余程悔しかったと見える。

「サッカーなんてチーム次第だろ。流石に前回は偏りが酷かったな」

 出席番号順で分けられたチームは俺がいた側にサッカー部が四人、相手は一人とまあ偏っていた。流石に今回は分け方を変えるだろう。

「余裕こいてられるのも今の内だからな!」

「余裕こいてるわけでもねえよ」

 結局、同じチームになったのだが真柴はさっき言ったことなど既に記憶に無かったかのように肩を組み絶大な仲間意識を発揮していたと言っておく。ついでに俺達のチームは鉄壁のディフェンスで勝利を収めたという事も付け加えておこう。

 さて、なんやかんやで授業も終わり。今日もいつも通りの一日だった。

 後は部活にも通わず寄り道もせず真っ直ぐ家へと帰るだけだ。今日は晩御飯の食材を買いに行く必要も無いだろう。

 早速教室を出ようとしたところで真柴が肩に寄りかかって来る。

「緋色~、お前もバスケ部入ってくれよ」

 自称バスケ部のレギュラーである真柴は時々こんな風に勧誘をしてくる。特に体育のあった日は顕著だ。

「藍色が待ってるから部活はする気が無いって」

「藍色ちゃん、もう中学生だろ? 過保護だぜ」

 過保護で何が悪い。

「サッカーでボール弾きまくってただろ? あれ見て思ったんだよ。あんだけでかくて跳んだり跳ねたりできるならバスケで大活躍だってな」

 突然だが高校二年生の平均身長は知っているだろうか?

 物の話ではおおよそ170センチらしい。

 俺の身長は今で178、それなりに鍛えているのでガタイも良い方だ。偶に町行く人に二度見されることもある。

 そんなわけで運動系の部活をやっている人から見た俺はある種の逸材らしい。高校に入り立ての頃はよく勧誘されたものだ。今でもそうするのはこいつぐらいだが。

「バスケで全国行ってさ、藍色ちゃんにかっこいい所見せたくないか?」

 ……む、それはちょっと、惹かれる誘い文句だな。

「……いや、だめだ。やっぱり心配だ。藍色に何かあったらと思うとこんなところでじっとしていられない!」

「バスケ中はじっとできねえぞ」

「ともかく、俺は藍色より部活を優先なんて出来ない。それに今日から叔父さんもいないからな。早く帰らねば!」

「ちぇー、じゃあ叔父さんが帰って来たら一回ぐらい来てくれよ」

「気が向いたらな」

 真柴に別れを告げて教室を去る。

 朝に無茶苦茶な速度を出して走った自転車を帰り道でも酷使する。田舎道故にろくに建物も無いのだが、人通りもほとんど無いので俺のような先を急ぐ者にとっては好都合だ。

 藍色、待っててくれ! お兄ちゃんが今帰るぞ!




 辿り着きましたるは我が家、長年閉められることの無い形だけの門を通り抜け玄関横に自転車を颯爽と乗り捨てる。藍色一人の時は鍵を閉めるように言っているので扉は必ず閉まっているだろう、鞄から鍵を取り出し扉へ。鍵を差し込むのは少しコツがいる、軽く戸を持ち上げるようにしながら位置を調整、一気に奥まで差し込みぐるりと回す。

 そして引き戸を一気に開け放つ。

「藍色、帰ったぞー!」

 そしていつものように声を上げたのだが……。

「んー?」

 返事が無い。まだ帰っていないのだろうか。

 まあ学校が終わって全速力で帰っているのでこんな日もある。なにせ藍色も中学生、小学生の時よりも授業時間が長くなっているのだ。

「高校と中学は帰る時間変わらないんだったっけ?」

 自分も通っていたと言うのに正直二年も前の事なのであまり覚えていない。まあ現役生がいるのだから帰って来たら聞いておこう。

 そんなことを思いながら階段を上がる。

 この家の二階には三つの部屋があるのだが一つは俺の部屋、もう一つが藍色の部屋、最後の一つは物置だ。叔父がまだ子供の頃は六人ぐらい住んでいて部屋が足りないと嘆いていたらしいが時の流れは残酷なもの、今や部屋の一つは物置になっている。おそらくは当時と比べて随分と静かな家になってしまっただろう。座敷童の類が居れば寂しさに涙を流している頃だ。

 階段を上ってすぐ、藍色の部屋がそこにある。扉が半開きになっていてそこには勉強机に向かっている藍色の姿があった。

「なんだ、帰ってたのか」

 思わず漏れた言葉に反応し藍色がこちらを向く。

「……あれ、お兄ちゃん? いつ帰ったの?」

「今だよ今」

 そう返事しながら藍色をじーっ、と観察する。

 なんだか、あまり調子が良くなさそうだな。

「眠いのか?」

「……うん。でも、宿題、やらないと」

 藍色は真面目で責任感のある良い子です。

 でもまあ今はちょっと違うかな。

「土日挟むんだし明日でもいいだろ。少し横になっとけって。間に合いそうに無かったら手伝ってやるから」

「……お兄ちゃんが言うなら、そうする」

 うーむ、素直で聞き分けも良い。兄としては手がかからないことを喜ぶべきなのか、それとも素直にこの提案を聞き分けるぐらいに体調が悪いのかもと心配すべきなのか。

「……熱、測るか?」

「大丈夫だよ。学校からもちゃんと帰って来たでしょ?」

「まあそうだけどな。……ちゃんと休めよ」

「うん」

 藍色はノートを閉じると立ち上がりゆっくりベッドの方へ向かう。俺はそれを見送って自分の部屋へ行くことにした。本来なら熱があるかどうかぐらい測りたいところだけど、本人が大丈夫と言うのにあまりしつこく言うのもうざったいだろう。

 ……とはいえ準備はしておくべきだろうな。

 藍色は幼い頃からあまり身体が強くない。ちょっとした環境の変化の度に熱を出したりして世話の焼ける奴なのだ。最近では中学校に入って三日目にして熱を出していた。あの時はおそらく進学し新しい学友や先生に囲まれ緊張のあまりという事だろう。

 今回は……、何でだろうか?

 まあいずれにせよ俺のやることは変わらない。

「熱冷ましはまだあるな。晩御飯はお粥にするか? あんまり食欲無さそうならゼリーの方が良いか……」

 とりあえず冷蔵庫を開き中身を確認。うーん、ほれぼれするような食材の山。何でも作れそうだけど……。

「あぁー、ゼリー無いのか」

 となると果物の類が良いか? ……いや、そっちも無いな。

「失敗したなぁ。帰りに買っとくべきだったか」

 まあそうは言ってもあの時は藍色が体調が悪いなんて思ってなかったしな。いや、今思えば朝も眠そうにしていたのだからそのぐらい想定すべきだったか? まだまだお兄ちゃん力が足りてないな。自省するようにリビングに飾ってあるフィギュアを見つめる。

 うん、俺がやるべき事は一つだな。

「しゃーない、買いに行くか」

 そうと決まればさっさと行こう。できれば藍色が眠っている間に事を済ませたい。

 二階、藍色の部屋を覗くと既にベッドに横になっているのが見えた。とりあえず起こさぬように書置きだけ置いて行こう。

 それが終われば鞄に財布とスマホを突っ込んで外へ。

 玄関施錠確認、良し!

「さあ行くぞ」

 目指すは近所のコンビニだ、全速前進!




 近所のコンビニ、とは言うものの実際の所然程近くにあるわけでも無い。自転車で十分かかるぐらいの距離だ。因みにスーパーは十五分かかるので更に遠い。

 本来なら金を稼ぐことも出来ない居候の俺達は可能な限り節約に努めるべきなのだろうけど、ま、今日は緊急事態だ。叔父さんには後で謝っておこう。

 住宅のまばらな道を通り過ぎて行くとやがてこの辺りでは大きな道路に行き付く。その道路に面したところ、ではなくなぜか通りを一つ中へ入ったところにそのコンビニがある。目立たない場所にあるせいかいつ来てもあまり人がいないこの場所は潰れてしまわないか心配だ。

 道中、小さなアパートの外壁を見上げると時計が目に入る。

 今が五時半か。六時までに、いや四十五分までには帰れるな。

 そんなことを思いながらペダルを踏む足に力を入れ、

 目の前に誰か出て来た。

「うわっ!」

 思わず急ブレーキ。自転車が聞き苦しい悲鳴を上げて速度を一気に落とし、体は前につんのめる。

「……おぉ、セーフ」

 幸い、ブレーキの効果はばっちりだったようで突然出て来た誰かにぶつかる直前で自転車も俺の身体もなんとか止まったようだ。

 さてお相手だが、顔立ちや体付きから見るに女という事は分かる。髪はぼさぼさで整えられていない、服もあまり見かけないというか、ただぼろぼろの布を適当に身に付けているだけのようにも見える出で立ち。何だろう、こう……、独特なファッションセンスですね!

 まあそれはそれとして。

「あんたさ、急に出て来るなよ、危ないだろ? しかもそんなところからさ」

 言うべき文句は言っておく。

 事故をすると大抵の状況では歩行者よりも自転車の方が過失が大きいという話は聞いたことがあるが流石に今回は違うはずだ。この女、何を思ったか横の塀を飛び越えていきなり前に出て来たぞ。ぎりぎりで止まれたから良かったがもしも反応が遅れてたらどうなっていた事か。全く、何とか言ったらどうだ?

 ……えー、何とか言ったらどうですかねぇ、その、ね?

 この女、なんか微動だにせず反応を示してくれないのだけれど。

「えっと、俺の声聞こえてる?」

 とりあえずそう尋ねるとにこっ、と思わず釣られて微笑んでしまいそうになる笑顔と共に頷いた。

 ……うーん、背丈やら顔立ちから見るに君は少なくとも俺と同年代以上だよねぇ。反応だけだと幼児のそれと言われても納得してしまいそうだ。さてどうしよう。

「あー、っと。何でそこから出て来たんだ?」

 塀を超えて飛び出してきた理由を尋ねる、が、返答は無い。ぼさぼさの髪を揺らしながら困ったように首を傾げるだけだ。

 おいおい、本当に幼児か何かですか?

「今な、お前がその塀を飛び越えて来ただろ?」

 こくこく、と女が頷く。

「どうしてそんな事したんだ? 普通にやったら駄目ってことぐらいは分かるだろ?」

 今度は首を傾げられる。

 そこからかよ!

 幼児みたいとは思ったが本当にこいつの中身って幼児じゃねえか! くそっ、こんなことしてる場合じゃないのに。

「ああいう塀はな、乗り越えて通る為にあるわけじゃないんだよ。人がそこを通らないように建てられてるの。あんな風に飛び越えちゃ駄目なんだよ」

 仕方ないので幼子に言い聞かせるつもりで当たり前の事を告げる。うーん、藍色が小さい頃はこんな風な事を色々言っていたなぁ。懐かしさを覚えると同時に何でこんな大きな相手にこんなことを言わないといけないのかとも思う。

 と、そんなことを思っていると目の前の女児が塀に向けて一歩、二歩、三歩と。そのまま塀の上に手をかけて、その手を戻す。それからこちらに向けて手でばってん。

 ……これ、ジェスチャーか。

「もしかして喋れないのか?」

 こくこく、と頷く女。

 ああそうそれはちょっと、想定外。まあでもこっちの言葉が届いてるのは何より。

「えっと、さっきの、塀を越えたら駄目なのかって聞いてたんだろ? そうだよ、駄目なんだよ」

 そう言うと女はしゅんとなって縮こまる。反省してるって事かね。

「……まあ、これから気を付けてけよ。何か急いでたのか? 何も無いなら家に帰った方が良いぞ。もう六時になるし暗くなる前にな」

 反省したならさっさと話を切り上げよう。藍色が家で待ってるんだ、早く帰らせてくれ。

 そんな祈りが通じたのか女はこくこくと頷くと踵を返して走り出す。去りながら手を振っていたのはただ単に別れの挨拶なのか、それともまた会おうという祈りの声なのか。

 どっちでも今は関係ない! さっさとコンビニでゼリーとか買って帰るぞ!

 という訳で颯爽と買い物を終えて帰路に就く。レジの所にあった時計によると既に四十分を過ぎていた。四十五分までに帰るという当初の目的はもはや達成できるはずも無く悲しみに暮れながらペダルをこぐ。

「夕焼けの空の赤はまるで俺の悲しみを代弁しているかのように寂寥感を覚えさせるなぁ……」

 何か風流な事を言って気分を変えようと思ったのだが残念ながら虚しいだけだ。どうしてちょっとコンビニに行くだけの事に邪魔が入るんだろ

 影が目の端に映った。

「馬っ鹿!」

 デジャヴ!

 急ブレーキ、急ブレーキ! 本日二度目、しかも前回からまだ十分も経ってないってのに、まーた人が塀を越えて飛び出して来たんだが!?

 気付いた時には先程よりも距離が近い、今度こそぶつかるかと覚悟を決めていたのだが……。不思議といつまで経ってもそれらしい衝撃は無く気付けば自転車は完全に静止していた。さっきよりもブレーキの利きが良かったというか、後ろから引っ張られるような感覚があったのは気のせいだろうか?

 とはいえ考えても仕方なし、日頃の行いが良かったという事だろう。

 で、だ。

「いきなり飛び出してくんなよ! 塀を飛び越えるの流行ってんのか!?」

 二回目という事でつい喧嘩腰になってしまう。

 まあお相手はさっきと違う相手なんだけど。藍色よりは背が高く見えるがおそらく中学生だろう、或いは成長期が速かった小学生か? 子供っぽく髪を大きなリボンで括ってるし……、あ、いや、ボニーテールかと思ったらテールの部分もリボンかあれ。

 ええぃ、とにかく子供だ子供、もう少し子供には道理をきちんと教えた方が良いと思います!

「……そんなの流行るわけないでしょ」

 そして道理を説いていたはずの俺に対しなぜかこの子供は呆れたような口調でそう言った。

 えー、呆れるのって俺の方じゃないの?

 それはともかくこのお子様は俺の事を不審者でも見るかのようにじっと睨み付ける。最近の子ってこんな感じなのか? 藍色がいじめられてないか不安になって来たな。

「一応聞くけど不審な人を見なかった?」

 あ、良かった。俺は不審者じゃなかったみたいだ。

「いや、見てないけど……」

「見てないのね、ならいいわ」

 俺の返事を聞くと会話をする気は無いと言わんばかりに目の前の女の子が駆け出す。

「あ、ちょっ!」

 そして再び塀を越えてどこかへ消えて行った。さっきの子とはえらい違いだな……。

「……最近の子供はこえーなぁ」

 自分もまだまだ子供の内であるという事は棚に上げてそんなことを呟く。

 不審な人を見なかったか、なんて言ってたけどあの子は何をしようとしていたのだろうか? この辺で不審者の情報が出たとして、それを追う理由は? 友達が被害にあってその相手に文句を付けに言ったとか? ……危ないだろ。

 正直気になる所はある……、ある、が。

「藍色が待ってるぞ」

 今の俺にはすべきことがある。

 待っててくれ、藍色! お兄ちゃんが今帰るからな!




 無事家に辿り着き真っ先に向かったのは藍色の部屋だ。音を立てぬよう扉を開けると藍色はまだ眠っていた。書置きを回収処分しゼリーを冷蔵庫で冷やす。晩御飯は食べやすく滋養のあるものにしよう。

「スマホ、スマホ、と」

 この時代に生まれたからには便利なものは便利に使わせてもらおう。

「葱に卵に生姜に鶏肉カニカマと……。まあいつも通りだな」

 まあお粥を作るのも慣れっこではあるので正直目新しい情報は無かったけど。しかし情報は日々更新しておかねば、いざという時に妹を守れないような兄では意味が無い!

「とりあえずささっと作るかな」

 具材を切り鍋を火にかけささっとお粥を作って、と。食欲無かったらこれも食べれないかもしれないし自分のは後でいいか。

 時刻は七時前、帰ってから一時間ぐらい経ったな。藍色の様子を見に行こう。

 階段を上っていると藍色が少しふらついた足取りで部屋から出て来るところだった。

「藍色、体調が悪いなら無理に起きなくていいぞ」

「……ん、うぅ」

 一段飛ばしで駆け上がり藍色の横へ。ふらつく身体を支えその力の無さと顔色の悪さに思わず唇を噛む。

「とりあえずベッド行くぞ」

「うん」

 肩を支えながら一歩一歩ゆっくりと進み部屋の中、そのままベッドへ藍色を寝かせる。

 おでこに手を当てて熱を測る……、うーん微熱。このぐらいならしっかり寝ればこの土日の間には治るだろう。

「朝から調子悪かったのか?」

 とりあえず兄としてはいつから調子が悪かったのかが気になる所だ。もし体調が悪いのを誤魔化していたなら叱らないといけないかねぇ。

「んーん、朝は眠かっただけ……。学校もちゃんとしてたよ」

「じゃあ帰ってからか?」

「たぶん……、そうかも」

 ……うーん。眠りが浅くてあまり休めていなかったところに学業の疲れが出た、って感じだろうか。だとすれば、

「昨日は眠れなかったのか?」

 眠りが浅かった原因が気になるな。

 藍色は言い辛そうに目を伏せる。まあ言いたくないなら無理に聞き出すのは良くないか。そんなことを思いながら頭を撫でていたのだが、ふとした拍子に俺の手を取るとぎゅっと握る。

 それからゆっくりと口を開く。

「叔父さんがね、出張で、いなくなるって」

「そうだな。今朝出て行ったな。次戻って来るのは二週間後だって」

「それが、何だか、怖くて……」

 藍色の手は震え唇は青く、恐怖の色に染まっているかのようだ。握る手に込められた力は強く、その不安と恐怖の強さを示している。

 ……ああ、成程な。

 俺達の両親はいない、叔父の家に住んでいるのもそれが原因だ。あれは俺がまだ十歳の時、藍色に至ってはまだ六歳の時の話だ。二人は仕事帰りに交通事故で巻き込まれてあっさりと亡くなった。あまりに突然で話を聞いた時にしばらく意味が分からなかったのを覚えている。

 身寄りの無くなった俺達を叔父が厚意から引き取り今の家に住まわせてもらっている。父と叔父の兄弟仲は良好で元々偶に遊んでもらっていたこともあったから今思えば施設やよく知らない親戚の家に行く事にならず運が良かったと言えるだろう。初めはどんな生活が待っている事かと思っていたが生活費や学費、小遣いも十分過ぎる程に貰っており、最近は大学はどこが良いかなどと頻繁に聞いて来る辺り当然に大学にも通わせるつもりなのだろう。本人曰く高給取りであるから問題ないとのことらしいが、世話になっている身としては気が引けるぐらいだ。

 まあ、叔父の話は良い。今は藍色の事だ。

 藍色が両親を失った傷は未だに癒えていない。体調を崩しやすくなったのも二人が亡くなってからの事だ。俺達は普段のように家で遊んでいて、事を知った時にはどうしようもなく日常が崩れ果て決して元には戻らなくなっていた。あの時の藍色は本当に見ていられないほど沈み込んでいて、叔父も引き取ったはいいがほとほと困り果てていた程だ。しかしまあ、色々とあってひとまずは普通に暮らせるようになっている、良いことだ。

 さて、叔父は今では俺と藍色にとって大切な家族だ。直接血が繋がっているわけでは無いが、長い月日を共に過ごして来たのに今更そんなことを気にするはずもなし。本人が叔父と呼ぶように強要してくるので叔父と呼び続けているが、まあ、父と呼んでも正直差し支えない程の関係性だ。

 そんな叔父が今日、出張で出て行った。今までは夜には帰って来るとわかっていたが、次に帰って来るのはおおよそ二週間先との話。

 その長い期間の別れは両親のように叔父も帰って来ないのではないか、そんな不安を呼び起こすには十分だったのだろう。最初は小さな不安でしかなかったかもしれないが時間と共にそれは肥大化しやがて体調を崩すほどの恐怖を呼び起こした。

 そんな藍色に対して俺がすべきことは?

「藍色、心配するな」

 藍色の小さな手を包み込むように俺の手で覆う。

「叔父さんは普通に帰って来るさ。二週間後にはお土産をたくさん引っ提げてちょっとうるさいぐらいのテンションで戸を開けて入って来る」

「……うん」

「それまではお兄ちゃんが藍色の傍にいるさ。心配ない」

「……うん」

 ずっと握り締められていた藍色の手の力が少しずつ緩み出す。不安に強張った表情はまだまだ解けていないが多少はましになったという事だろう。全く、まだまだ世話の焼ける妹だ。

「晩御飯どうする? 一応お粥もあるけど、しんどかったらゼリーにするか?」

「……お粥、食べる」

「そっか。じゃあ持って来るから、待ってろ」

 と、言って立ち上がろうと思ったが。

 うーむ、裾を掴まれている。

「……一緒に行くか?」

 そう尋ねるとこくこくと頷くので致し方なし。ゆっくりと立ち上がる藍色の手を取り決して無理はさせないよう身体を支えながら二人仲良く台所へ。

「お兄ちゃんは何食べるの?」

「俺は後でなんか食べるよ」

「……一緒に食べたい」

「わかったわかった。じゃあちょっと座って待ってろ」

 我が儘を言う藍色を待たせていいのは五分までだ。そんな自分ルールを守るべく考え導き出された俺の食事は。

 フライパンを火にかけ油、豚肉を投入。野菜をザクザクと切りそれも投げ入れる。塩コショウをかけてさっと火を通せば。

「野菜炒め?」

「そ、これが一番楽だ」

 時間が無い時はこれに限る。料理感を出しながら手抜きが出来るのはありがたい限りだ。

 では二人仲良く食卓へ。

「いただきます」

「いただきまーす」

 幸い微熱の割には元気なようで皿についだお粥をぺろりと食べ切り、更にはゼリーもご所望だったのでそれもあっさり空にしてしまった。

「本当に大丈夫か?」

 逆に不安になる食欲なんだが。そんなに食べて後で食べ過ぎで苦しいとか言い出すなよ?

「大丈夫だよ。お兄ちゃんがいるから」

「それならいいんだけどな」

 晩御飯を終えて表情はだいぶ和らいでいる。さっき不安を口にしたことで精神的に落ち着いたのか、或いは食欲を満たして気分が良くなったのか。どちらにせよ良いことだ。

「でも今日は早く寝るんだぞ」

 とはいえ油断は出来ない。こういうちょっとの事が生死を分けるかもしれない。藍色には今日一日しっかり休んでもらわねば。

「ん、そうする」

 幸い、藍色は持ち前の素直で俺の言う事をきっちり聞いてくれた。部屋に送り届けるとそのままベッドに行き布団を被り横になる。まあ後は放っておいても大丈夫だろう。元々無理をするようなタイプでは無いし心配はいらない。

 ……いや、まだ出来ることはあるか。

 スマホを開き叔父さんの連絡先を出す。

「暇だったらホテルからの夜景でも送ってください、でいいか」

 叔父さんから連絡の一つでもあれば藍色の不安も減るだろう。やっぱり便利な機械があるのだから便利に使わせてもらいましょうね。

 夜中、たくさんの写真と今日の報告があまりにうるさくスマホの電源を切った。機械の利便性は時に不便を生み出すのだとよーく思い知った。




 この土日は藍色の面倒を見ているとあっという間に終わってしまった。一日寝れば普通に歩けるようにはなっていたが、また熱が出やしないか何か我慢していないかと心配で心配で物事に手が付かないのだ。元より出掛ける予定も無かったので家の中で兄妹水入らずの時間を過ごしたと言っていい。

 高校生としては休みの日に友達と遊びもせずテレビを見たり漫画を読んだりしているだけというのは一般的には不健全なのかもしれないが。

 ま、藍色より優先すべき事なんて何も無いしこればかりは仕方ない。

 そんなわけで月曜日。

「藍色、大丈夫か?」

 朝食も済ませ学校に行く準備は万端で家の前。しかし心配なのは藍色の事だ。また寝不足でふらついているような事があれば休ませるつもりだったが。

「心配しなくても大丈夫だよ。今日は元気、だから」

 にこやかに腕に力こぶを作る真似をしていて可愛らしい。まあ藍色は筋肉とは無縁なので腕にこぶなど出来はしないが。

 うちの藍色は勉学の成績は非常に優秀でそれはもう素晴らしい成績表をいつも持ち帰るのだ、けど、体育だけは、なぁ。

 まあまだ中学生だ、成長期も来ていないことだしこの先どうなるかはわからない。藍色がいつかプロスポーツ選手になる可能性だってなくは無いだろう。……本人が興味あるかは微妙だが。

「じゃあお兄ちゃん、先に行くね」

 っと、未来の藍色を想像して目の前の藍色を疎かにしてはいけないな。

「気を付けて行くんだぞ。無理だけはするなよ」

「大丈夫だってば。じゃあねー」

 藍色は手を振り歩き出す。まあ様子を見る限り体調の方は心配ないだろう。叔父に近況の連絡を入れるよう頼んでおいたのも効果があったらしい。今朝もスマホに送られて来たメッセージと写真を何度か見返していたからな。

 さて、俺もそろそろ学校に行こう。土日を挟んだとはいえ連続で遅刻すれすれというのも印象が悪い、今日は余裕をもって行くとしようじゃないか。

 自転車を走らせ学友共と並び高校へ。盛況な自転車置き場をさっさと後にして教室へと進む。ホームルームが始まる十五分前には教室へ辿り着いたので不良生徒のレッテルを貼られることはあるまい。生徒指導に呼ばれて帰りが遅くなるなんて絶対御免だからな、きっちり真面目に学業をこなすのは大事だ。

「今日はちゃんと早く来たな」

 当然のように前の席には真柴がいる。お前の企みは分かってるぞ。

「今日は何の宿題だ?」

「へへへ。すまねぇなぁ」

 この男は真面目の対極にいるような男で、宿題を自力でやって来ることはほぼ無い。毎日のように見せてやっているのでもうこのやり取りも慣れたものだ。

 机の上に広げた数学の問題集、それに書かれた答えを真柴が次々と書き写して行く。こんな風にしてやっても身に付かないのに何をやってるんだか。俺なら藍色にこんな姿を見せるわけにはいかないし絶対にやらない。

 それどころかこの男、答えを書き写すという作業すら面倒なのか手よりも口の方がよく動く。

「そういや今日だぜ」

「何がだ?」

「前言ったろ? 転校生だよ転校生」

「あー」

 そんな話もあったな。正直俺にとっては大したニュースでもなかったし忘れてた。

「職員室経由で来るだろうから下で張ってようかと思ったんだけどさ、一限が数学だから諦めたんだよ。お前がもっと早く来てくれれば一緒に行こうと思ってたのに」

「それはお前、自分で宿題やらないのが悪いだろ」

「かー! これだから真面目君は。人生もっと楽しく行こうぜ?」

 真柴はそう言って土日に部活の仲間とカラオケやボウリングに行った話を始める。練習はいいのかバスケ部よ。

 そうこうしている内に担任の永見先生様がお越しになった。まだ書き写し切れて無かったようでさっ、と問題集が奪われる。もはや真柴にとってホームルームの時間は宿題を写す時間となっているようだ。

 しかしそんなことをしていていいのか? 今日はお前が興味津々の転校生が来るのに。

「えー、みんなもう聞いてると思うがうちのクラスに転校生が来ました。ご入場お願いしま~す」

 緩いノリで入室を促すとそれに従い元々開かれていたドアから一人の女生徒が入って来る。

 クラス全員の視線が自然と彼女に集まる。入って来たのはぱっと見中学生、下手をすれば小学生に間違われかねないぐらい背の低い女子で、初めての教室にも関わらずどこか尊大に思える態度でずかずかと歩み先生の隣へ。

 そのまま自然な流れでチョークを手に取ると背伸びをして黒板に叩き付けるように文字を描いて行く。

 九常夕莉

 ふむ、何と読むのだろう。名前はたぶんゆうりだが苗字は……、きゅうつねではあるまい。

「くじょうゆうり、と言います。新学期が始まったばかりですが両親の仕事の都合で急ではありますが転校して来ました。これからよろしくお願いします」

 自然に歓迎の拍手を誰かが打ち鳴らしたので俺もそれに続く。

 くじょうさんね。九条とか久城とかはありそうだけど九常って表記は初めて見たかもな。

「とりあえず一番後ろに席を作ってあるので九常さんはあそこにね」

「分かりました」

 ここで言う一番後ろの席とはドアから入って一番奥、窓側の一番後ろの事だ。そしてそれは俺の隣の席でもある。

 つい先日までなかったはずの席があった時点で隣に転校生が座ることぐらいは気付くべきだったなぁ。

 真柴はすぐ横を通り抜ける九常さんによろしく~、と手を振っているが俺はとてもそんな気分にはなれない。まあ折角隣になったのだから俺も気さくにこれからよろしくとでも言ってやるのが良いんだろうが……。

 実は九常さんに会ったことがあるのだ。

 それもほんの三日前。

 席に着いた九常さんを横目でちらり。今日は制服なので以前と服装は違うが間違いない。あの顔、背格好、尊大な態度、そして何より。ポニーテールと見まごう特徴的な頭のリボン。

 コンビニにゼリー買いに行った帰りに飛び出して来た子だ。

「中学生じゃなかったのか」

 思わず漏れた呟き。ふと気付くと九常さんがこちらを睨んでいた。もしかして聞こえたか?

 そういうわけで俺の高校生活に奇妙な不発弾のようなものが投入されることとなったのだ。やはり転校生とは非日常を引き連れて来るものなのだろうか?

 

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