キスと独占の誓い
ダンジョンから帰還すると、二人はまずゲートタワー併設の公的医療施設へ駆け込んだ。消毒液の匂いが充満する施設内は、絶えず喧騒に満ちている。床には慌ただしい処置の跡が残り、スタッフたちの切迫した声が飛び交う。
大学という安全な場所で過ごしていると忘れがちになる、ダンジョンでの活動がいかに危険と隣り合わせであるかを、改めて思い起こさせる光景だった。
それでも、スタッフの動きに無駄はない。蓮の脇腹にできた痛々しい打撲痕を一瞥しても、常駐の救護員は眉一つ動かさなかった。まるで流れ作業のように、しかし正確な手つきで素早く擦過傷を洗浄し、固定を施していく。
「念のため、医療棟で画像診断を。打撃系の攻撃を受けたようですね、見た目より深く入っている可能性がある」
促されるまま医療棟へ。CTスキャナが機械音を立てて体内の様子を映し出す。ホブゴブリン・チーフの一撃をまともに受けたのだ。骨の一本や二本は覚悟していたが、医師の診断は意外なものだった。
「骨折はなし。内出血は軽度。全治一週間といったところでしょう。今日は帰寮して安静に」
その言葉に、蓮は内心で安堵の息をついた。適性者としての身体強化がなければ、今頃は集中治療室にいただろう。まさに、ジョブの恩恵様々だった。
この世界には、飲むだけで傷が癒える魔法の薬など存在しない。ダンジョン由来の素材を使った医療品は流通しているが、それとて応急処置を補助する程度のものだ。
結局、怪我をすれば現実的な治療と、自然治癒を待つための時間が必要になる。適性者の身体強化は、その回復速度を多少早めるに過ぎない。
ゲートタワーを出る頃には空が茜に染まり、大学寮へと続くレンガ敷きの小道を歩く。先ほどの戦闘と検査の消耗が残り、言葉は自然と少なくなった。夕暮れの談笑は、どこか遠い。
蓮の足取りは、傍目にはしっかりしているように見えたが、葵にはその呼吸の浅さと、時折かすかに乱れる歩幅が、彼が無理をしている証拠だと分かっていた。
葵は何も言わず、そっと彼の腕の下に自分の肩を滑り込ませ、その体重の一部を支える。蓮は一瞬、驚いたように葵を見たが、何も言わずにその支えを受け入れた。
すれ違う学生たちが、二人の姿に気づき、好奇の視線を向けるのが分かった。「あれ、水谷さんと神谷君じゃない?」「どうしたんだろ、怪我かな」「なんか、雰囲気違わない?」そんな囁き声が、風に乗って耳に届く。
葵は、その視線が少しも気にならなかった。むしろ、傷ついた彼を自分が守っているのだという、奇妙な高揚感と庇護欲が胸を満たしていた。
「……神谷くん、やっぱり顔色が悪いわ。無理はしないの」
寮の自室棟が見えてきたところで、葵が立ち止まって言うと、蓮は「医者が言ってただろ」といつもの調子を装う。が、声に張りはない。
「嘘。無理しないで。あの時、あなたが庇ってくれなかったら、今頃私は……」
声が震える。彼にとって自分はただの「駒」ではなかったのか。その問いが、彼女の心を支配していた。葵は、その問いを飲み込むように、強い意志を込めて蓮を見据えた。
「あなたの部屋、ここから一番近いでしょう? 今日は私が看る」
有無を言わさぬその口調は、もはや提案ではなかった。蓮は一瞬、驚いたように葵を見たが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……分かった」
◇
見慣れたはずの、蓮の寮の部屋。だが扉を開けた瞬間、葵は息を呑んだ。
整然とした空間も、几帳面に並べられた専門書も、記憶にある通りだ。変わったものは何一つない。
だが――空気が違う。あの夜の穏やかな空気はどこにもなく、代わりに、死線を超えた者たちだけが共有する、濃密で張り詰めた何かが部屋を満たしていた。
彼のプライベートな空間に、今、自分は二人きりでいる。その事実が、遅れて葵の意識に押し寄せてきた。
「医者は安静にって言ってたけど……せめて、冷やさないと。タオル、借りるわね」
葵は、その重たい空気を振り払うようにそう言うと、慣れた様子で洗面所へ向かった。
一人になった部屋でソファに深く身体を沈めながら、蓮は先ほどの戦闘を反芻していた。
(……本当に、危ないところだった。安全マージンは取っていたつもりだったが、ああいった突発的な事態も考慮に入れねばな)
ずきり、と脇腹が疼く。現実の痛みが、思考に重みを与える。
(綱渡りがしたいわけじゃない。ダンジョンで力をつけるのは、あくまで目的のための手段。ここで死んでいては、元も子もない)
葵がリビングに戻ると、蓮はソファに深く腰掛けたまま、ぐったりと目を閉じていた。
彼女は彼の前に膝をつき、冷水で固く絞ったタオルを準備する。シャツをめくると、脇腹に刻まれた痛々しい打撲痕が露わになった。戦棍が掠めた場所は広く紫に変色し、熱を持っている。
医師の言葉が頭の隅で反芻される。「今日は安静」
「……ひどい……」
思わず声が漏れた。葵は息を飲み、震える指でそっとタオルを患部に当てる。ひんやりとした感触に、蓮の身体がぴくりと強張ったのが分かった。そのわずかな反応が、彼の強さの裏にある生身の人間の痛みを感じさせ、葵の胸を締め付けた。
「……悪いな」
蓮が、ぽつりと呟く。
「謝らないで。……私が、もっとうまくやれていれば」
「お前のせいじゃない。俺の判断だ」
間近で見る彼の横顔。普段の自信に満ちたそれとは違う、弱々しさを隠さない素顔に、葵の心臓が不規則に脈打つ。
触れる肌の温度が、やけに熱い。消毒液のツンとした匂い、彼の浅い呼吸の音、自分の指先に伝わる彼の体温。五感から流れ込んでくる情報が、彼女の思考を飽和させる。
この手当てが終わってしまったら、この奇妙な均衡が崩れてしまうのではないか。そんな予感が、彼女の指先を鈍らせた。
「……終わったわ」
ぎこちない手つきで手当てを終えた葵は、しかし、すぐには立ち上がらなかった。彼女は床に膝をついたまま、じっと蓮の顔を見上げた。その瞳は、いつもの飄々とした光とは違う、真剣な色を宿していた。
「……さっきは、ありがとう。何か、私にできるお礼、ある?」
その問いに、蓮は一瞬、意表を突かれた。いつもの彼女なら、貸し一つ、といった態度で挑発してきてもおかしくない場面だ。蓮は痛む脇腹をさすりながら、照れ隠しに、そして彼女の真意を測るように、わざと軽薄な笑みを浮かべた。
「……別にいい。お互い様だろ。ただ、どうしてもって言うなら」
蓮はそこで一拍置き、悪戯っぽく続けた。
「キスでもしてもらおうかな」
あくまで冗談のつもりだった。この気まぐれな猫をからかうための、いつもの軽口。彼女が「馬鹿じゃないの」と笑い飛ばすか、あるいは「安く見られたものね」と切り返すか。そんな反応を予測していた。
だが。
「……いいわよ」
葵は、真顔でそう答えた。
蓮が言葉を失う。その一瞬の隙を、彼女は見逃さなかった。
葵はゆっくりと顔を近づけた。蓮の瞳が、驚きに僅かに見開かれるのが見える。その驚愕の表情を最後まで見届けてから、彼女はそっと目を閉じた。
唇が触れた。
柔らかく、温かい。ほんの一瞬の接触。だが、その短い時間の中で、葵は自分の心臓が激しく脈打つのを感じていた。彼の息遣い、肌の温度、そして唇越しに伝わる微かな震え。全てが、鮮明に意識の中に刻み込まれていく。
ゆっくりと顔を離す。目を開けると、蓮がまだ呆然とした表情でこちらを見つめていた。
不意を突かれた衝撃から抜け出せずにいる彼の様子に、葵は思わず笑みが込み上げてくるのを感じた。
いつも余裕を見せている彼が、こんな顔をすることもあるのだ。悪戯が成功した子供のような、しかしどこか照れくさそうな微笑みが、自然と顔に浮かぶ。
しばしの沈黙。どちらからともなく視線を逸らし、部屋には気まずいような、それでいて甘い空気が流れる。
その沈黙を破ったのは、照れを隠したい葵の方だった。
「……お礼、これで足りた?」
その言葉で、蓮はようやく我に返り、悪戯っぽい笑みを浮かべた。内心の動揺を隠しながら、いつもの余裕を取り戻そうとする。
「十分すぎるくらいだ。まさか、お前から仕掛けてくるとはな」
「か、勘違いしないでよ! これはあくまで今日の、特別な、その……感謝の印なんだから!」
慌てて言い訳する葵の姿に、蓮の笑みはさらに深くなる。
「まんまと俺のファーストキスを奪っていったな、その感謝の印とやらで」
「……よく言うわ。あなたみたいな人が、今までそんな経験ないわけないでしょう?」
葵が、じろりと疑いの視線を向ける。蓮はわざとらしく胸に手を当ててみせた。
「心外だな。これでも純情なところもあるんだが、信じてもらえないか」
「……誰が信じるもんですか」
口ではそう言いながらも、葵の頬は赤く染まったままだ。その分かりやすい反応が、蓮にはたまらなく愛おしい。彼は楽しそうに喉を鳴らした。
「まあ、信じる信じないはともかく、事実は変わらない。これは次の報酬の基準として、しっかり記録させてもらう」
「き、記録!? 次なんて……っ!」
言ってから、自分で真っ赤になる葵。その姿を見て、蓮は声を上げて笑った。
「……最低ね」
「最高の褒め言葉だ」
葵はぷいと顔をそむけ、「もういいわ。あなたの相手は疲れる」と拗ねたように言った。その言葉に、蓮はなおも楽しそうに笑みを深める。
やがて、その軽口の応酬も途切れた。先ほどまでの熱を帯びたやり取りが嘘のように、部屋に静寂が戻る。蓮は、そんな彼女の様子を微笑ましく眺めていたが、ふと、その表情から笑みが消えた。
その変化は、あまりにも唐突だった。
さっきまで楽しそうに笑っていた顔から、まるでスイッチを切り替えたように、一切の感情の色が消え去る。葵は、その急激な変化に息を呑んだ。
彼の瞳が、自分をじっと見つめている。その視線には、先ほどまでの軽妙さのかけらもなく――代わりに、言葉にできない、底の見えない何かが宿っていた。
それまで部屋を満たしていた軽妙な空気は霧散し、代わりに、底冷えのするような真剣さが彼の瞳に宿る。
蓮は、その真剣な眼差しのまま、そっと葵の頬に触れた。その指先の優しさに、葵の心臓がまた跳ねる。
「いいか、葵」
蓮は一度間を置き、葵の瞳をしっかりと見据えた。
「『俺の野望には、君の力が必要だ』……一か月前の夜、俺はそう言った。そしてその気持ちは今でも変わっていない。俺たちは、共犯者だ。この歪んだ世界で、二人でどこまでも上り詰めるためのな」
その瞳は、絶対的な自信と、そして葵への独占欲に満ちていた。
「そしてお前は、もう俺のゲームから降りられない。絶対にだ」
静かな、それでいて絶対的な響きを伴った声だった。決して怒鳴っているわけではない。だが、その低い声は、もう彼女を決して逃がさないという、静かな宣言のようにも聞こえた。
その言葉と、彼の瞳の奥に今まで見たことのない底なしの独占欲を前にして、葵は背筋がぞくりと粟立つのを感じた。
それは、いつもの軽口の裏に隠されていた、蓮の本性の一端だった。しかし葵は彼との関係に深く踏み込みすぎていた――今更「なかったこと」にできる領域は、とうに過ぎ去ってしまったのだと、葵は悟った。
きっと、目の前の男はそれすらも見透かした上で、今日のこの言葉を口にしているのだろう。
胸の奥で警鐘が鳴るような、言葉にならない違和感。だが葵は、その不安に気づかないふりをして、心の奥底にそっとしまい込んだ。
* * *
翌日の講義室。
共通の選択科目で、二人は隣り合って座っていた。だが、その間に流れる空気は、昨日までとは少し違っていた。
会話はない。
葵は、ちらりと隣の蓮の横顔を盗み見た。しかし、彼の視線は真っ直ぐに前方のスクリーンに向けられ、その表情は真剣そのもの。
昨夜のあの濃密な雰囲気も、彼女を射抜くような独占欲に満ちた瞳も、まるで嘘だったかのように霧散していた。教官の解説をメモに取るその姿は、いつも通りの、優秀で掴みどころのない神谷蓮そのものだった。
その完璧なまでの「いつも通り」が、葵の心をかき乱した。意識しているのは自分だけ。まるで彼の手のひらの上で踊らされているような感覚に、彼女は奥歯を噛みしめた。
言葉はない。だが、その沈黙は昨日までとは全く質の違うものだった。二人の間に生まれたはずの特別な関係性は、一夜にして振り出しに戻されたかのように、講義室の静寂に溶けて消えていた。




