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二つの顔、二つの野心


 あの日、神谷蓮の部屋で交わした不意のキスと、彼の瞳の奥に垣間見た底なしの独占欲。水谷葵は、その記憶にそっと蓋をした。


 甘美な高揚感と背筋を這うような怖れ。相反する感情をひとまず胸の奥にしまい込み、彼女は蓮との「日常」に戻ることを選んだのだ。


 あの夜の出来事以来、蓮が葵を戸惑わせるような言動を見せることはなかった。ダンジョンでの彼は、以前と変わらず頼れるパートナーであり、二人は黙々と連携を磨き、階層を攻略していった。


 共有する時間と目的が、葵の胸の内にあった小さな棘を、いつしか意識の底へと沈めていく。互いを下の名前で呼び合うようになったのは、そんな日々の中での、ごく自然な変化だった。


 そしてホブゴブリン・チーフとの死闘から二か月、季節は8月末に入っていた。二人の関係は、傍目にも分かるほどに変化していた。


 かつて互いの腹を探り合っていたような緊張感は、いつしか深い信頼と、二人だけの特別な一体感へと姿を変えていた。その証拠に、二人のジョブレベルは順調に12まで上昇し、蓮の召喚獣のキャパシティも18まで増強されている。


 ゲートタワー一階の広大なロビーは、早朝にもかかわらずダンジョン制圧士たちの熱気に満ちている。蓮と葵は、壁一面に並ぶ無数のゲートの中から、比較的利用者の少ない東側の転移ゲートを選択した。


 短い認証の後、光の膜を通り抜けると、視界は一変する。ひんやりとした、湿った土の匂いが鼻を突いた。――光来ダンジョン第一階層だ。


 二人は、もはや見慣れた第一階層の景色には目もくれず、第二階層へと続く階段を目指して、最短ルートを迷いなく進んでいく。道中、数体のゴブリンが彼らに気づいて身を隠したが、今の二人にとって、この階層のモンスターはもはや障害ですらなかった。


 やがて、下り階段を抜けて第二階層に到達した二人は、本格的な探索を開始する。


 レベル的には、そろそろ第三階層も視野に入る頃だが、先月のホブゴブリン・チーフとの死闘はまだ記憶に新しい。二人だけのパーティである以上、慎重に安全マージンを確保するのが賢明だ。


 しばらく進むと、洞窟の広間で、ゴブリンとジャイアントバットの混合集団に遭遇した。


 蓮は即座にEランクのミストリザードを一体、そしてFランクのスモールウルフを三体召喚する。ミストリザードが吐き出した濃霧が瞬く間に周囲に充満し、ジャイアントバットたちの超音波による探知を撹乱した。


 方向感覚を失って霧の中を迷走する蝙蝠の群れを無視し、三体のスモールウルフがゴブリンへと襲いかかる。その隙に、葵は詠唱を完了させていた。


「――アクア・ショット!」


 彼女が両手を立て続けに突き出すと、熟練度の上昇によって槍のように鋭く、そして高速に圧縮された水の弾丸が五発、六発と放たれ、ゴブリンたちを正確に撃ち抜いていく。


 一体一体は小さな魔法でも、葵の手にかかれば、それはもはや範囲攻撃と変わらない殲滅力を発揮する。まさに「作業」だった。


 その日の攻略の締めくくりとして、二人は第二階層でも特にモンスターの目撃情報が多い、大空洞エリアに足を踏み入れる。


「そろそろ、新戦法を試してみる?」


 天井の岩肌を見上げながら、葵が言った。


 蓮は頷くと、それまで周囲を警戒させていたミストリザードとスモールウルフの姿を霧散させ、キャパシティを解放する。


 そして即座に、現在の彼の最大値である18のキャパシティの全てを、新たな召喚に注ぎ込んだ。


 Fランクの召喚獣は一体あたりキャパシティを2消費するため、現在の最大値である18のキャパシティで、計九体を同時に使役できる。


 蓮はそのうち二体を護衛役としてクレイゴーレムを選択し、残りの七体全てに、今回の戦術の要となるピクシーを割り当てた。


 ピクシーは、《閃光》による目眩ましや、《風送り》で火の勢いを強めるなど、戦闘から野営まで幅広く役立つ多様な「小魔法マイナーマジック」を操る妖精だ。


 しかし、一つ一つの効果は微弱で直接的な戦闘能力は極めて低いため、その価値は戦闘以外の補助的な役割にあると見なされがちだ。


 だが蓮は、その一見非力な能力の組み合わせにこそ、戦術的な価値を見出していた。高ランクの召喚獣の力に頼るのではなく、低ランクの駒をどう配置し、どう機能させるか。それこそが指揮官としての彼の本領だった。


 蓮の視線が、不意に天井の暗がりを捉えた。そこには、獲物を待つ三体のジャイアントバットが潜んでいた。


「さて、始めようか」


 蓮が静かに呟くと、その言葉が合図となった。葵が攻撃に備えて身構えるのと、蓮がピクシーたちに思考で命令を下すのは、ほぼ同時だった。


 護衛として葵の前に立ちはだかる二体のクレイゴーレムを背に、七体の小さな妖精が、蓮の命令一下、天井付近へと一斉に舞い上がる。


 次の瞬間、洞窟の天井で七つの閃光が同時に弾けた。ピクシーたちが放った小魔法《閃光》の連鎖が、ジャイアントバットたちの視覚を完全に焼き切る。


 さらに、続けざまに放たれた《風送り》が小さな乱気流を無数に生み出し、翼の感覚を麻痺させた。


 視覚と飛行能力を同時に奪われた蝙蝠たちはなすすべもなく、醜い悲鳴を上げながら地面へと墜落していく。


「今だ!」


 蓮の合図を待つまでもなく、葵は既に詠唱を終えていた。墜落して身動きが取れなくなったジャイアントバットたちに、容赦なく鋭利な水の弾丸が突き刺さる。


 あっけないほどの決着だった。敵の特性を分析し、戦闘能力の低い召喚獣の能力を組み合わせることで、その機能を完全に無力化する。


 蓮の指揮官としての非凡な才覚が、単純な攻撃力ではない、クレバーな解答を導き出していた。



 その日の攻略を終え、ゲートタワーで換金手続きを済ませた後、二人は蓮の部屋へと向かった。


 ダンジョンで冷えた体を温めるには、インスタントのスープや冷凍食品では味気ない。そんな些細な感覚の一致が、二人の行動を自然と同じ方向へと導いていた。


 時刻は午後十時を回っている。蓮の部屋は広々とした1LDKで、備え付けのキッチンも簡単な調理には十分すぎるほどの設備が整っている。


「さて、と。何か作ってあげるわ。冷蔵庫、開けるわよ」


 葵は断りを入れるのもそこそこに、ごく自然な仕草でキッチンの冷蔵庫を開け、中を覗き込んだ。


「よしよし、ちゃんと補充してあるわね。えらいえらい」


「いつ、お前に何か作らせることになってもいいようにな」


 蓮らしい、素直じゃない物言いに、葵は軽く肩をすくめてみせる。けれど、その口元に浮かんだ笑みは、満更でもない感情を隠せていなかった。


 すぐに慣れた手つきで調理を始める。フライパンに油が熱される音、小気味よく刻まれる野菜の音、そして醤油の香ばしい匂いが、無機質な空間を少しずつ生活の温もりで満たしていく。


「相変わらず、手際がいいんだな」


 蓮が感心したように言うと、葵は焼きうどんの麺をほぐしながら、口の端を吊り上げた。


「別に。腹が減っては戦はできない、って言うでしょ。あなたを最高のコンディションで使い潰すには、これくらいの投資は必要経費よ」


(口ではそう言うが、その手際の良さと隠しきれない楽しそうな横顔は、彼女の本心が別にあることを示している)


 蓮は、彼女のそんな強がりを微笑ましく思った。あの夜、彼が垣間見せた底なしの独占欲に、葵は少なからず恐怖を抱いたはずだ。


 だが同時に、その瞳に宿る絶対的な自信と力に、抗いがたい何かを感じ取ってしまったことも事実だった。恐怖と魅了――その矛盾した感情の狭間で、彼女は無意識のうちに、彼に主導権を明け渡すことを選んだのだ。


 その結果が、今の目に見えて軟化した態度と、隠しきれなくなった好意だった。


 彼の戦略の根幹にあるのは、葵のプライドの高さと、自分が常に主導権を握りたいという彼女の気質そのものを利用することだ。ダンジョンという極限状況は、そのための最高の舞台となる。


 命のやり取りが生む強烈な吊り橋効果、二人だけの秘密を共有する閉鎖空間。そこで「頼れるパートナー」として絶対的な価値を提供し続け、彼女の中に「蓮なくして自分はいない」という依存にも似た信頼を植え付けてきた。


 そして、あの夜の負傷というアクシデントは、彼の戦略に決定打を打つ絶好の機会をもたらした。この国が理想とする『尽くす女』の役割を誰よりも嫌悪する彼女が、自らの意思で甲斐甲斐しく世話を焼くという状況。


 それは、彼女の主義と行動の間に生まれた矛盾――認知的不協和を、「やらされている」のではなく「やりたいからやっている」という結論で解消させるには、完璧な舞台装置だった。結果として、彼女は自身の行動を正当化するため、無意識のうちに蓮への恐怖を好意へとすり替えていく。


 その矛盾した姿こそが、水谷葵という女の抗いがたい魅力であり、蓮のどす黒い支配欲を静かに満たすのだ。戦闘における得難いパートナーであると同時に、俺の庇護欲をくすぐる存在。この関係は維持しつつ、さらに深く育てていく価値がある。


 出来上がった焼きうどんを、小さなテーブルで向かい合って食べる。湯気の向こうで、葵の濃青の髪が揺れていた。


「そういえば蓮、制圧士の日本ランキング、少しずつだけど着実に上がってきてるわね」


 葵が、蓮の顔を覗き込むようにして言った。


「制圧士全体から見るとまだまだ底辺だがな」


「まあ、ほとんどの制圧士は何年も活動しているんだから、それは仕方ないわ」


 そう言って、葵は一呼吸置いた。


「でも、活動したてなのに、こうして着実に結果を出しているのは、私たちの実力ってところね」


 活動を始めたばかりの制圧士は、装備を整えたり、パーティメンバーを探したりと、何かと準備に時間がかかってランキングが停滞しがちだ。だからこそ、蓮のようにパートナーと二人だけで、休むことなく結果を出し続けているのは大したものだった。


 いかにも自信家の彼女らしく、葵は心から楽しそうに笑った。


 その表情に、蓮は胸の奥が温かくなる。ダンジョンでの極度の緊張状態から解放された後の、この温かい食事と穏やかな会話。その落差が、目の前で笑う彼女の存在を、より一層価値のあるものに感じさせた。


 この穏やかな時間、この温かい食事、そして目の前で笑う彼女。そのすべてが、蓮の心を確かに満たしている。


 だが、これは安息所であって、ゴールではない。


 目の前で幸せそうに目を細める葵の様子から、蓮は彼女がこの心地よい関係の永続を願い始めていることを、手に取るように理解していた。


 だが、彼女はまだ知らなかった。あの夜に垣間見たはずの彼のもう一つの顔が、その穏やかな笑みの下に、どれほど冷徹で巨大な野心を隠しているのかを。



 自室に戻り、シャワーを浴びて一息ついた後、蓮はベッドの上で一人静かに思考の海に沈んでいた。


 先ほどまでの、葵と過ごした時間の温かい余韻が、まだ体の芯に残っている。それは、偽りのない感情だ。彼女という存在は、確かに蓮の心を捉えて離さない。


 しかし、と蓮は思う。


 水谷葵一人を手に入れただけで、俺の渇きが癒されることは、決してない。


 蓮は自室の端末を手に取り、何気なく制圧士関連のニュースサイトを眺めていた。目に留まったのは、ある若手トップランカーの特集記事だった。


 記事に書かれていた彼の名で検索をかけると、制圧士協会が公開している公式プロフィールがすぐに見つかった。そこには、輝かしい戦績や保有スキルといった情報に加え、彼の経歴や出身家系、そして――その男を支える複数の女性たちの名も記されていた。


 多くの者が彼の戦闘能力に注目する中、蓮の視線は後者の情報にこそ、釘付けになっていた。


 この国では、ダンジョン適性を持つ優れた男は、法的に重婚を認められている。それは適性者の遺伝子をより多く残すためという大義名分のもと、優秀な男があらゆる女を独占することを肯定するシステムだ。


 ランキング上位者ともなれば、正妻の他に第二、第三夫人がいることも珍しくない。


 葵との関係は、確かに心地よい。だが、彼女一人では足りない。


 蓮の野心は、一人の女との幸福な関係に安住することなど許さない。家柄、才能、美貌、あらゆる価値を持つ女たちを、全て自分の支配下に置く。それこそが、蓮の歪んだ欲望の、本当の形だった。


 だが、同年代の一割しかいない制圧士という希少な立場を手に入れたとて、純粋な実力だけで成り上がれるほど、この社会は甘くない。


 システムを理解し、ルールを掌握し、利用できるものは全て利用する。それが、この社会における正しい立ち回りだ。


(強力な後ろ盾が不可欠……。だが、どうやって?)


 一介の学生に過ぎない自分が、雲の上の存在と接点を持つことなど、通常ではあり得ない。地道にランキングを上げ、国家にその価値を認めさせ、どこかのタイミングで好機を掴むしかない。


 そう考えていた、まさにその時だった。


 タブレットが、控えめな電子音を立てて、暗い部屋の中に青白い光を灯した。画面に表示された差出人の名を見て、蓮の眉がわずかに動いた。


『内閣府ダンジョン庁 人材育成課 第二係長 北条 麗奈』


 それは、一年前に適性者として登録した際、蓮の稀有な才能――「召喚師」というジョブと、ユニークスキル「共鳴の鎖(レゾナンスチェーン)」を見抜き、専属で付けられた担当官の名前だった。


 月に一度の形式的な報告義務。蓮はこれまで、当たり障りのない活動内容を記述したレポートを、事務的に提出し続けてきた。


 その担当官からの、突然の、そして時期尚早とも言えるタイミングでの連絡。


(……何の用だ? 都合のいい話なら、歓迎だが)


 蓮は、期待と警戒をない交ぜにしながら、ゆっくりとメッセージを開いた。そこに記されていたのは、彼の予想を、そして期待を、遥かに上回る内容だった。


 葵との温かい日常と、胸の内に秘めた冷たい野心。


 二つの顔を持つ男の物語が、今、大きな歯車を軋ませながら、本格的に動き出そうとしていた。


新章開幕。本章では新ヒロインが登場します。


※投稿頻度について

しばらく2日の一回の投稿ペースに切り替えます。

ストックがたまったら毎日投稿に切り替えます。

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