信頼とハグ
少し時は流れ、六月の梅雨時期となっていた。
葵と初めてパーティを組んでから一か月が経過している。
その間、神谷蓮と水谷葵のダンジョン攻略は、驚くほど順調に進んでいた。
その日も、二人は第一階層でゴブリンの群れを掃討していた。もはや作業と化した連携で最後の一体を仕留めた瞬間、蓮の全身を微かな高揚感が包み込む。レベルアップの兆候だった。
一ヶ月。主に平日午後の空きコマや土曜日をダンジョン攻略に費やし、数え切れないほどのモンスターを狩り続けて、ようやく到達したレベル5。この世界の成長がいかに地道で、困難な道のりであるかを、彼は改めて実感していた。
数字にすれば、わずか4レベルの上昇に過ぎない。だが、レベル1の頃とは比べると着実に成長している実感を得ていた。身体は軽く、魔力の巡りも滑らかになっている。地道な成長が、確かな力となっていることを蓮は実感していた。
葵はまだレベル4のままであり、その差は純粋な戦闘回数の違い、そして蓮が持つ〈共鳴の鎖〉による微量な経験値補正の結果だった。
レベル5への到達と同時に、蓮の脳内に新たな情報が流れ込んでくる。Eランクの召喚獣。新たに三体が使用可能になった。
【ミストリザード】――濃霧を発生させ、敵の視界を奪う特殊な能力を持つ蜥蜴。
【ウィンドホーク】――風を纏い、上空からの偵察と攻撃を得意とする鷹。
【シャドウキャット】――影に溶け込み、隠密行動と奇襲を得意とする黒猫。
蓮は、新たに解放された三体の能力を確認し、内心で満足した。ミストリザードの濃霧、ウィンドホークの空中偵察、シャドウキャットの隠密――いずれも、単純な火力ではなく、戦術の幅を広げる召喚獣たちだ。
【神谷 蓮】
ジョブ:召喚師
レベル:5
キャパシティ:9
スキル:召喚
召喚可能モンスター:
- Eランク:【ミストリザード】【ウィンドホーク】【シャドウキャット】
- Fランク:【クレイゴーレム】【スモールウルフ】【ピクシー】
ユニークスキル:〈共鳴の鎖〉
【水谷 葵】
ジョブ:水魔法士
レベル:4
スキル:
・アクア・ショット
・アクアベール
・ハイドロバインド
蓮のキャパシティは「9」まで伸び、Eランクの召喚獣と複数のFランクモンスターを状況に応じて使い分けられる、戦術の幅を広げる編成が可能となった。
一方の葵も、この一ヶ月で着実な成長を遂げていた。ジョブレベルが4まで上がったことで、彼女のスキルも着実に成長している。
《アクア・ショット》は弾速と威力が増し、ゴブリン程度の敵ならば一撃で怯ませるだけの破壊力を得た。《アクアベール》は耐久性が向上し、より強力な攻撃を防げるようになっている。
そして《ハイドロバインド》は、水の粘性が増し、敵の動きをより確実に阻害できるようになった。その全てが、一ヶ月前より着実に洗練されている。
連携はさらに洗練の度合いを増し、蓮が思考するより先に葵が魔法を詠唱し、葵が狙いを定めるより早く蓮の召喚獣が敵の死角に回り込む。〈共鳴の鎖〉によって接続された思考は、もはや言葉を介さず、一つの生命体であるかのように機能していた。
第一階層に出現するゴブリンやコボルトの群れは、もはや彼らの敵ではなかった。一体一体の経験値は微々たるものだったが、二人はそれを圧倒的な効率で補った。
他のパーティが一体の敵に手こずる間に、彼らは五体、十体と、まるでベルトコンベアの上を流れる製品を処理するように、淡々と狩りをこなしていく。
その結果、彼らのレベルは着実に上昇し、バックパックは常に魔石で満たされていた。一体あたりの換金価値は微々たるものだったが、二人はそれを圧倒的な効率で補った。
ゲートタワーの換金公社で通知される数字は、一般的な大学生のアルバイト収入を遥かに上回る額に達しており、二人がこの歪な社会を駆け上がるための、ささやかな軍資金となりつつあった。
もっとも、二人の実力はすでに第一階層のモンスターが相手になるレベルではなかった。いつでも第二階層へ進めるだけの力はあったが、慎重派の蓮はそれを選択しなかった。
パーティが二人だけという特殊な編成である以上、万全の安全マージンを確保すべきだというのが彼の考えだったからだ。
そしてこの日も、二人はいつも通り第一階層の洞窟で、獲物を探していた。
「……そろそろ、この階層の地図も頭に入ってきたわね」
葵が、周囲の岩肌や自発光する苔の配置を見ながら言った。その声には、最初の頃にあった緊張感はもはやない。
ダンジョンとは、それぞれが独立した異空間であり、数万人が同時に進入しても容易には遭遇しないほど広大だ。しかし、その危険な領域も、国家による徹底した管理下にある。
全ての制圧士の安全を確保するため、公務員である第二種制圧士たちが、長年にわたり地道な調査を敢行。その結果、ある程度の階層までは極めて精度の高い公式マップが整備されている。
もっとも、提供されるのはあくまで大まかな構造を示すものに過ぎない。モンスターの出現パターンや地形の細かな変化といった、攻略の鍵を握る生の情報は、結局のところ制圧士が自らの足で稼ぎ、頭に叩き込むしかなかった。
葵の言葉は、この階層が自分たちの庭になりつつあるという、確かな自信の表れだった。
「ああ。だが、油断はするな。ダンジョンは何が起こるか分からない」
蓮は冷静に返しつつも、その感覚は共有していた。この階層の構造、モンスターの出現パターン、その全てが予測可能な範囲に収まりつつある。それは成長の証であると同時に、危険な「慣れ」の始まりでもあった。
蓮の召喚獣、スモールウルフが先行し、周囲の気配を探る。その背後を、床面に薄い霧を這わせるEランクの【ミストリザード】と蓮、そして葵が続く。いつもの陣形、いつもの手順。
今日もまた、この単調な作業を繰り返し、少しばかりの金と経験値を得て帰るだけ。そう、誰もが思っていた。
その、瞬間だった。
グォオオオオオオッ!
突如、通路の先から低い咆哮が響いた。ゴブリンの甲高い悲鳴とは違う、喉の奥で鳴る重低音――群れのまとめ役の声だった。
「なっ……!?」
葵が驚きに目を見開く。斥候に出ていたスモールウルフが、血相を変えて二人の元へ駆け戻り、蓮の足元で威嚇するように唸り声を上げた。その視線の先、洞窟の通路を塞ぐようにして、巨大な影が姿を現した。
二メートルを優に超える巨体。粗削りな革鎧を纏い、棍棒の代わりに節の太い戦棍を握った個体が、通路を塞ぐように現れた。肩と腕には、群れの証である骨飾り。
「……ホブゴブリン・チーフ。第一階層の、徘徊型ボス……!」
葵の声が低くなる。蓮の脳裏に、モンスター生態学の講義で叩き込まれたデータが瞬時に浮かび上がる。
脅威度80、カテゴリ3。その数値は、本来であれば第10階層以降に出現するモンスターが持つものだ。それは固定の巣を持たず、特定のルートを巡回する、この階層のボスモンスターの一種だった。
所詮は第一階層のボスだ。大学の演習や企業の研修など、高レベルの引率者がいるパーティにとっては、少し手応えのある獲物という程度の認識でしかない。
そもそも遭遇確率が極めて低いため、蓮も通常の探索でリスクとして考慮に入れるような相手ではなかった。
だが、今の彼らは違う。引率者はいない。パーティは、セオリーである六人構成どころか、たったの二人。それは非常に危険な状況を意味していた。
これまで積み上げてきた効率的な狩りが、無意識の内に慢心を生んでいたのかもしれない。そして、最悪のタイミングで、最悪の敵と遭遇してしまった不運だった。
「……逃げられるか」
蓮は即座に状況を判断しようと周囲を見渡すが、退路は既にホブゴブリン・チーフによって完全に塞がれていた。左右は切り立った岩壁。道は一本道。
「……無理ね。やるしかない」
葵も覚悟を決めたように、その手に水の魔力を集中させる。自らの内にある魔力の源泉を探り、意識を戦闘へと切り替える。
〈共鳴の鎖〉を通じて、隣に立つ蓮の覚悟もまた、痛いほどに伝わってきていた。
ホブゴブリン・チーフは獲物を見定め、重い足取りで詰めてくる。
蓮の思考が、具体的な戦術イメージとなって〈共鳴の鎖〉の《感覚共有》を通じて飛んだ。
床を這う薄い霧で敵の足元を惑わせ、左右から回り込ませたスモールウルフで挟撃する。その命令と同時に、ミストリザードが白い吐息を吐き、足元に薄い霧が広がる。二体のスモールウルフが影のように左右へ散り、背後を取るべく動き出した。
「アクア・ショット」
葵の牽制が頬を打つ。狙いはダメージではない。わずかな顔の向きの変化――視界の偏りを作ること。
「グルァッ!」
戦棍が振り下ろされ、蓮のすぐ脇の岩床を粉砕する。
「ぐっ……!」
衝撃で弾かれた岩片が脇腹を打ち、息が詰まる。視界が揺れ、判断の猶予が削れていく。
「葵、間合い維持。足元を濡らせ」
蓮は叫びながら、自らもホブゴブリン・チーフの注意を引くために動く。だが、ホブゴブリン・チーフのターゲットは、先ほどから鬱陶しく攻撃を仕掛けてくる葵に定められていた。その濁った瞳が、明確な殺意を持って葵を捉えている。
ホブゴブリン・チーフは、足元を駆け回るウルフを鬱陶しげに無視し、一直線に葵へと向かう。
「くっ……!」
葵は連続で魔法を放ちながら後退するが、ホブゴブリン・チーフの速度は見た目に反して速い。みるみるうちに距離が詰められていく。焦りが、彼女の魔法の精度をわずかに乱していた。
そして、戦棍が再び振り上がる。葵の顔から血の気が引くのが〈共鳴の鎖〉越しに伝わった。硬直の兆し。
(――間に合わない!)
蓮の脳が、最悪の結末を予測した、その刹那。
彼の身体は、思考よりも早く動いていた。理屈ではなかった。ただ、目の前で彼女が砕け散る光景を、許容できなかった。
「葵ッ!」
蓮は、葵の肩を引き寄せるように抱え込み、盾の陰へと押し込んだ。
「きゃっ!?」
不意の衝撃に、葵はバランスを崩して地面に倒れ込む。彼女が驚きに目を見開いたその先で、蓮は自らが盾となるように、ホブゴブリン・チーフの前に立ちはだかっていた。スモールウルフが、主を守ろうとホブゴブリン・チーフの足に必死に喰らいつく。
ドゴォッ!
鈍い衝撃音が響く。逸れた戦棍の柄が蓮の脇腹を掠め、身体が横へ弾かれて岩壁に叩きつけられる。視界が揺れ、肺から空気が完全に絞り出された。
「がはっ……!」
脇腹を襲った衝撃は、ダンジョンの外であれば即死は免れない一撃だった。だが、ジョブの恩恵で強化された肉体がその威力を大幅に殺し、骨が軋む鈍い痛みが残るに留まった。
スモールウルフもまた、棍棒の一撃で光の粒子となって消え去っていた。戦力の一角を失い、蓮は窮地に追い込まれた。
(なぜだ……? あの気まぐれな猫を屈服させ、俺だけに従わせる。その過程を楽しむだけの、都合のいい女。そう思っていたはずだ)
痛む頭で自問する。だが、答えは霞みがかった思考の中でも、すぐに見つかった。
(……なるほど。不合理な話だが、どうやら俺は、あの生意気な女と過ごす時間に、得も言われぬ心地よさを感じていたらしい)
計算外の、厄介な情だ。認めたくない事実を前に、蓮は内心で舌打ちした。
「……神谷、くん……?」
倒れていた葵が、信じられないものを見るような目で、蓮を見つめていた。苦悶に顔を歪ませ、ぐったりとした腕。その光景が、彼女の思考を真っ白に染め上げた。
なぜ? どうして? あの合理性の塊のような男が、なぜ私を庇ったりしたの?
彼にとって、私はただの『駒』ではなかったの?
混乱と、胸の奥を突き刺すような痛みが、葵の心を支配した。
「……まだ、だ」
蓮は、壁に背を預け、ぜえぜえと荒い息を吐きながら、ゆっくりと身体を起こした。その瞳は、絶望ではなく、むしろ獲物を前にした獣のような、獰猛な光を宿していた。
「……立て、葵。まだ終わってない」
〈共鳴の鎖〉を通じて、蓮の強靭な意志が、葵の心に流れ込んでくる。痛み、苦しみ、しかしそれらを凌駕するほどの、冷徹なまでの闘志。その純粋な生存本能の激しさに、葵は我に返った。
「……大振り。正面以外なら、殺せる」
蓮は荒い息を整え、短く結論だけを渡す。
「滑らせる。苔の帯へ誘導」
「でも、そんなの……!」
再び《感覚共有》を通じて思考命令が飛ぶ。ミストリザードにはホブゴブリン・チーフの右半身を隠す濃霧を、スモールウルフには陽動の咆哮を。
命令と同時に、ミストリザードがホブゴブリン・チーフの右半身だけを隠すように濃霧を吐き、スモールウルフが大きく吠えて左へと注意を逸らす。
蓮は、痛む身体に鞭打ち、よろめきながら立ち上がった。その手には、護身用に持っていたナイフが握られている。
〈共鳴の鎖〉越しに、蓮のイメージが葵へ流れ込む。足元の苔の帯、右の段差、そして"今"。
「――ハイドロバインド」
葵が低く詠唱し、ホブゴブリン・チーフの足元の水が粘ついて膝が沈む。体勢がほんの一瞬だけ崩れた。
「今だ」
葵は極限まで集中力を高め、ありったけの魔力を指先に収束させる。ジョブレベルはまだ4。決して高いとは言えない。
だが、この一ヶ月で積み重ねた経験は、彼女の《アクア・ショット》に確かな重みと鋭さを与えていた。そして今、蓮を救いたいという一心で放たれる一撃は、その成長の定石さえも超えるほどの凝縮された魔力を宿していた。
「アクア・ショット!」
放たれたのは、もはや単なる水の弾丸ではなかった。錐のように鋭く圧縮された水塊が、ホブゴブリン・チーフの巨大な眼球へと吸い込まれるように着弾し、その奥で弾け飛んだ。巨体が、前のめりに崩れる。
後には、静寂だけが残された。そして、ホブゴブリン・チーフ固有の濃い輝きの魔石が、乾いた音を立てて転がった。
「はぁ……はぁ……」
葵は、魔力を使い果たし、その場にへたり込んだ。激しい消耗と、そして何よりも、勝利したことへの安堵から、身体が震えていた。
助かった。生きている。その事実が、遅れて実感となって押し寄せてきた。
彼女は、おそるおそる、先ほど蓮が倒れていた場所へと視線を向けた。
そこには、岩壁にぐったりと寄りかかる、蓮の姿があった。
「……神谷くん!」
葵は立ち上がり、彼の元へと駆け寄った。その足はもつれ、今にも崩れ落ちそうだった。
「しっかりして! 今、応急手当を……」
彼女がバックパックに手をかけた、その時だった。
蓮の腕が、ゆっくりと持ち上がり、そして、彼女の肩を掴んだ。
そして、ほとんど抵抗できないような力で、ぐっと引き寄せられる。
「え……?」
葵は、蓮の胸の中に、すっぽりと収まっていた。
力強く、しかしどこか壊れ物を扱うかのように、優しい抱擁だった。
彼の心臓の鼓動が、耳元で聞こえる。平常時よりもずっと速く、力強く脈打っている。
汗と、鉄錆のような血の匂いがした。自分のものとは違う、固い筋肉の感触と、確かな体温が、彼女を包み込んでいた。
「……よくやった、葵」
耳元で、囁くような声が聞こえた。
それは、いつもの、どこか他人行儀な「水谷」という呼び方ではなかった。
「お前がいたから、勝てた」
初めて呼ばれた下の名前に、葵の心臓が、大きく跳ねた。
顔が、耳が、熱くなる。怒るべきなのか、礼を言うべきなのか、何も分からない。
ただ、彼の腕の力強さと、自分を生かしてくれたことへの感謝と、そして胸の奥から込み上げてくる、これまで感じたことのない甘く痺れるような感情に、頭が真っ白になった。
彼女は、ただ黙って、その不器用な抱擁を、受け入れることしかできなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。やがて、蓮の腕からそっと力が抜ける。葵が顔を上げると、蓮は苦しそうに、しかしどこか満足げな、複雑な表情で彼女を見つめていた。
二人の間に、言葉にならない、濃密な空気が流れていた。




