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名前のない焦燥

 神谷蓮は、大学の実習棟に設けられた装備メンテナンス室で、自らの装備を点検していた。


 壁一面に工具が整然と並ぶこの部屋は、学生が自主的に装備の手入れを行うための施設だ。防衛大学校の設備の充実ぶりは、こういった細部にまで及んでいる。週末ということもあり、室内には蓮の他に数人の学生がいるだけで、静かだった。


 蓮は作業台の上に装備を広げ、ベルトの留め具やポーチの破損箇所を確認していた。これらは大学から貸与された官給品だが、実質的には学生に使用権が与えられた装備であり、メンテナンスの責任も学生側にある。第一階層での狩りを繰り返すうち、少しずつ装備にも消耗が蓄積している。こまめな手入れが生存率を上げる。それが、この世界での常識だった。


 ドアが開く音がして、蓮は視線を上げた。


「あら、神谷君。やっぱりここにいたのね」


 入ってきたのは水谷葵だった。濃い青のボブカットが、室内の照明を受けて艶やかに光る。彼女は自身の装備一式が入ったバッグを肩にかけ、蓮の向かいの作業台に腰を下ろした。


「お前も、か」


「そりゃそうでしょ。私たち、ほぼ毎日ダンジョンに潜ってるんだから」


 葵は、バッグから杖と小型のメンテナンスキットを取り出す。その手つきは慣れたもので、すぐに魔力伝導部の点検を始めた。


 しばらく、二人は無言で作業を続けた。装備の留め具を締め直す音、ベルトの補修をする音。そんな実務的な音だけが室内に響く。


「……そういえば、神谷君」


 葵が不意に口を開いた。


「あなたの召喚獣って、レベルが上がるとどうなるの? もっと強力なモンスターを呼べるようになる?」


 蓮は手を止めず、淡々と答えた。


「ああ。キャパシティが増えれば、より高ランクの召喚獣を契約できる。今使ってるFランクは、単体の戦闘力は低い。だが、コストが安いから数で補える。それに、連携の練度も上がっていく」


「なるほどね。つまり、高ランクを手に入れても、低ランクにも使い道があるわけ?」


「その通りだ。斥候や囮、あるいは障害物の突破役として、低コストの利点は大きい。使い分けが鍵だ」


 葵は満足そうに頷いた。


「やっぱり、あなたの戦術は本当に合理的ね。無駄がない」


 その言葉に、蓮は一瞬だけ手を止め、葵を見た。彼女は真剣な表情で自分の杖を磨いており、先ほどの言葉は社交辞令ではなく、純粋な評価だと分かる。


「……お前の魔法の精度も、最近上がってる。《アクア・ショット》の弾速が以前より速くなった。助かる」


 蓮が淡々と返すと、葵は少しだけ驚いたように目を見開いた。それから、ふっと笑みを浮かべる。


「あら、珍しく素直なこと言うじゃない」


「事実を述べただけだ」


 葵はくすくすと笑い、再び作業に戻った。その横顔には、ほんの少しだけ頬が緩んだ、柔らかな笑みが残っている。


 蓮は内心で、自分の発言を反芻していた。彼女の能力を素直に評価する。それは、彼が他者に対して滅多に見せない態度だった。だが、水谷葵というパートナーに対しては、奇妙なことに、そうした言葉が自然と出てくる。


(……まあ、有能な駒は褒めて伸ばす。それもマネジメントの一環だ)


 そう自分に言い聞かせ、蓮は再び装備の手入れに集中した。


* * *


 装備の点検を終えた二人は、そのままゲートタワーへと向かった。まだ日は高く、今日中にもう一度ダンジョンへ潜る時間は十分にあった。


 転移ゲートをくぐり、第一階層の冷たい空気が肌を撫でる。蓮は〈共鳴の鎖〉を発動し、葵との意識を接続する。いつもの感覚。思考が繋がり、互いの存在が近くに感じられる。


「行くぞ」


「ええ」


 短いやり取りで、二人は動き出した。


 蓮が召喚したのは、【クレイゴーレム】一体と【スモールウルフ】二体。いつもの編成だ。今の蓮のキャパシティなら、この組み合わせが最も効率的だった。


 洞窟の通路を進むと、前方に5体のゴブリンの群れが見えた。蓮は即座に状況を分析し、〈共鳴の鎖〉を通じて戦術イメージを葵に送る。言葉ではなく、視覚的なイメージ。ゴーレムが中央を抑え、ウルフ二体が左右に展開する。その隙に葵が一体ずつ撃ち抜く。


 葵は、そのイメージを受け取ると同時に、既に魔力を指先に集中させていた。


 戦闘は、まるで事前に振り付けられた舞台のように滑らかに進行した。


 クレイゴーレムが中央に踏み込み、ゴブリンたちの注意を引きつける。その隙に、一体目のスモールウルフが右側のゴブリンの死角から飛びかかり、喉笛を噛み千切った。


 同時に、葵の《アクア・ショット》が左側のゴブリンの膝を正確に撃ち抜く。体勢を崩したゴブリンに、二体目のウルフが追撃を加える。中央のゴブリンはゴーレムが圧し潰し、残った二体も、二体のウルフが連携して仕留めていく。


 言葉を交わす必要はなかった。互いの動きを予測し、その半歩先を読んで行動する。それが、彼らの連携だった。


 戦闘が終わり、最後のゴブリンが光の粒子となって消える。残された魔石を回収しながら、蓮が口を開いた。


「次はもう少し効率を上げられる。ウルフの連携タイミングが0.5秒ほど遅れた」


 葵は頷き、涼しい顔で応じる。


「そうね。それに、私のスキルも、まだ改善の余地がある。《アクア・ショット》の詠唱を、もう0.5秒は短縮できるはず」


「できるのか?」


「多分ね。次の戦闘で試してみる」


 葵は小さく肩をすくめてみせた。その仕草には、どこか楽しげな余裕が滲んでいる。蓮は一瞬、彼女の横顔に視線を留めた。濃い青のボブカットが、ダンジョンの淡い光を受けて揺れている。彼女の向上心は、蓮自身のそれと似ている。その事実が、妙に心地よかった。


 蓮は視線を前に戻し、次の獲物を探して歩を進めた。


 その後も、二人は淡々と狩りを続けた。戦闘と回収、移動と索敵。その繰り返しの中で、彼らの連携はさらに洗練されていく。もはや、言葉を交わす必要すらない場面が増えていた。蓮が思考した瞬間に、葵が動く。葵が狙いを定めた瞬間に、蓮の召喚獣がその射線を確保する。


 まるで、一つの生命体であるかのように。


* * *


 数時間の狩りを終え、二人は洞窟の安全地帯で小休止を取った。ここは、ダンジョンの中でも稀に存在する、モンスターが出現しない特殊なエリアだ。壁に刻まれた古代の文様が淡く発光し、柔らかな光を放っている。


 蓮は岩に背を預け、ゆっくりと息を整えた。戦闘そのものは危険なものではなかったが、数時間に及ぶ集中は、確実に精神力を消耗させる。


 葵がバックパックから水筒を取り出し、無言で蓮に差し出した。蓮は一瞬だけ彼女を見る。葵はいつもの飄々とした表情のまま、視線を合わせずに水筒を手渡してくる。蓮はその自然な仕草に、小さく息を吐いてから水筒を受け取った。


「……サンキュ」


「どういたしまして」


 葵は自分の分の水筒も取り出し、喉を潤す。その仕草は自然で、まるで当たり前のことをしているかのようだった。


「お前、準備がいいな」


 蓮が何気なく言うと、葵は肩をすくめてみせた。


「効率的でしょ? 水分補給を怠ると、集中力が落ちる。それは戦闘効率の低下に直結するわ」


「その通りだ」


 蓮は小さく笑った。この女は、常に合理的だ。感傷や気遣いではなく、あくまで効率を優先する。その姿勢が、蓮には心地よかった。


 しばらく、二人は無言で休息を取った。洞窟の静寂の中、遠くから聞こえる水滴の音だけが、規則的に響いている。


「……そういえば」


 葵が不意に口を開いた。


「私たち、レベルはいくつまで上げるつもり?」


「レベル10までには、第二階層に進みたい」


 蓮が即答すると、葵は頷いた。


「現実的ね。私もそのつもりよ」


「お前も同じことを考えていたのか」


「当然でしょ。この階層は、もう私たちにとって練習場に過ぎない。次のステップに進むべき時期が来てる」


 その言葉に、蓮は満足げに頷いた。


 言葉を交わさずとも、互いの考えが一致している。それは、〈共鳴の鎖〉による接続のせいなのか、それとも単に二人の思考が似通っているからなのか。蓮には判別がつかなかったが、どちらでもいいことだった。


 重要なのは、水谷葵が信頼できるパートナーだということ。その事実だけで、十分だった。


「じゃあ、そろそろ戻るか」


 蓮が立ち上がると、葵もそれに続いた。二人は再び、洞窟の奥へと歩を進めていく。


 二人の歩く間隔は、いつの間にか以前より半歩ほど近くなっていた。


* * *


 ゲートタワーに帰還し、換金所でドロップアイテムを預けた後、二人はいつものように解散しようとしていた。


「じゃあ、また明日」


 葵がそう言って、踵を返そうとした、その時だった。


「……おい、水谷」


 蓮が、ふと彼女の名を呼んだ。


 葵は驚いたように振り返る。その瞳には、疑問の色が浮かんでいた。


「何?」


 蓮は一瞬、言葉に詰まった。自分でも、なぜ彼女を呼び止めたのか分からなかった。ただ、彼女が去っていくその背中を、このまま見送りたくないという、漠然とした感覚があっただけだ。


「……いや、何でもない」


 蓮は首を振り、いつもの冷静な表情に戻った。


 葵は不思議そうに首を傾げたが、やがてふっと笑みを浮かべた。


「変なの」


 そう言って、彼女はヒールを鳴らして去っていく。その後ろ姿は、どこか楽しそうにも見えた。


 蓮は、その背中を見送りながら、自分の胸の内を探った。


(……何だ、今のは)


 胸の奥に、小さな引っかかりのようなものが残っている。それは、彼が常に抱いている冷徹な合理性とは、少しだけ異なる感情だった。名前のつけられない、微かな焦燥感。だが、蓮はその正体を深く考えることはしなかった。考えたところで、答えが出るとは思えなかったからだ。


 彼はただ、小さく息を吐くと、寮への道を歩き始めた。


 夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。その光が、彼の影を長く、細く地面に引き延ばしていた。まるで、彼の心の中に生まれた小さな変化が、じわりと滲み広がっていくように。



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