適性者としての目覚め
高校2年の春、朝の補習が終わったばかりの、チョークの匂いが残る教室。
17歳になった蓮の左手の甲に、唐突に熱が走った。
痛みはない。だが、まるで皮膚の下に回路を焼き付けられるような灼熱感が走る。見れば、幾何学的な紋様が、銀青色の光で描かれていく。
全適性者共通の紋章。
蓮は思わず息を呑んだ。
紋章の輝きは次第に強さを増し、やがて左手全体を包み込む。周囲の視線が一斉に集まるのを感じたが、彼にはそれに反応する余裕がなかった。
光が収まると同時に、圧倒的な情報が脳内に流れ込んでくる。
まるで図書館の全蔵書が一瞬で頭に叩き込まれたような感覚。しかし混乱はない。整理された知識が、まるで最初からそこにあったかのように、自然に彼の意識に定着していく。
これが自分の『ジョブ』であり、その名が『召喚師』であること、そしてその能力についての知識が疑いようのない事実として彼に刻み込まれた。
それと同時に、蓮の黒かった髪は淡い銀色に、瞳も黒から薄い青へと、ゆっくりと色を変えていった。
教室の窓から差し込む光が銀髪を照らし、まるで後光が差しているかのように神秘的な雰囲気を醸し出す。
ごく稀に起こるという、適性者の身体的変化。
「……おい、神谷の髪と目……」「え、嘘……マジで変わってる……」「すげえ……銀髪だ……」「目も青くなってる……」
誰かの囁きが、静寂を破った。
それはやがて、教室全体を支配する驚嘆のざわめきへと変わっていく。
椅子が軋む音。立ち上がる音。そして次々と集まる視線。
まるで教室の空気そのものが、蓮という存在を中心に歪み始めたかのようだった。
「身体変化って、本当にあるんだ……」「クラスで見るの初めてだよ……」「すごくレアじゃん……」「これ、テレビで見たことある……でも実際に見るのは初めて……」
羨望、嫉妬、そしてわずかな畏怖。
今まで対等だったはずのクラスメイトとの間に、決定的な、見えないガラスの壁が生まれた瞬間だった。
蓮はそれを冷静に受け止め、「召喚師」というジョブとこの身体的変化を、社会を駆け上がるための強力な「切符」だと認識した。
昼休みになると、蓮の席は、まるで小さな謁見の場のようになっていた。
10人に1人と言われる適性者なので、このクラスで3人目というのも、別段珍しいことではなかった。だが、蓮を囲む喧騒は、先の2人とは明らかに規模が違っていた。
元々整った顔立ちと人当たりの良い外面で、クラスでも相応の人気があった。それに加えて、適性者の中でも1割にも満たないと言われる身体変化――銀髪碧眼という神秘的な変化が、その注目度を爆発的に高めていた。
「神谷……適正発現おめでとう。うちのクラスで3人目の適性者か。それにしても、髪と目の色まで変わるなんて。話には聞いていたけど、本当にあるんだな……」
友人の島崎が、その知的な顔立ちに純粋な興奮を浮かべて肩を叩き、さらに言葉を続けた。その目には、友人を心から祝福する温かい光が宿っている。
「これからお前も『ダンジョン制圧士』として国のために戦うんだな。大変だろうけど、頑張れよ!」
「ああ、任せとけ」
蓮は島崎の純粋な祝福を、そのまま受け取った。友人としての温かさは、確かにそこにある。だが同時に、その言葉の裏に潜む社会の期待という重圧も、冷静に観察していた。
蓮がそう応じると、それを合図にしたかのように、遠巻きに様子を窺っていた女子たちが彼の席を取り囲んだ。
男子生徒たちの多くは自席に残り、遠目に様子を眺めている。友人として祝福の言葉をかけた者もいたが、その後は距離を置いた。対照的に、女子生徒たちは次々と蓮の席へと歩み寄っていく。
それは自然な流れのように見えた。だが蓮は、その動きの背後にある無言の圧力を感じ取っていた。
(適性者である男性を祝福し、励ますこと。それは、この国の女性たちが幼い頃から刷り込まれた「当然の務め」なのだ)
教室を満たしていたのは、単なる好奇心や祝福だけではなかった。
誰も明言しないが、誰もが理解している暗黙のルール――この国では、適性者として国家に奉仕する者へ最大限の敬意を示すことが、善良な市民の当然の務めとされている。
その無言の圧力は、教室という閉じた空間で、より強烈に、より逃れがたく機能していた。
「神谷くん、本当におめでとうございます!」「銀色の髪、すごく素敵です!」「神谷、おめでとう!」「頑張れよ!」
男女の興奮した声が飛び交う中、クラスの女子のリーダー格である生徒が、すっと1歩前に進み出た。
背筋を伸ばしたその立ち姿は、まるでクラスの総意を代表しているかのようだ。
彼女は媚びるような上目遣いではなく、まっすぐに蓮の目を見て、わずかに頬を染めながらも、はっきりとした声で告げた。
「神谷くん、おめでとうございます」
その凛とした一言が、教室の空気を静かに変えた。
リーダーである彼女の行動が、ためらっていた者たちの背中を押した。それまで自席で様子を窺っていた生徒たちの間で、無言の探り合いが始まる。
1人の女子がおずおずと後に続く。それを合図にしたように、2人、3人と続いた。その動きはゆっくりと伝播し、何人かの男子も混じって、気づけば蓮の机の周りには自然な人だかりができていた。
祝福ムードが最高潮に達したその時、誰かの一言が、新たな熱狂の口火を切った。
「あの、神谷くん! もしご迷惑でなければ……記念に、一緒に写真を撮っていただけませんか?」
その提案は、堰を切らせる最後の一押しとなった。
「それ、いいかも!」「私も!」と、熱を帯びた声が次々と上がり、祝福ムードは、あっという間に撮影会を望む熱狂へと姿を変えていた。
「もちろん。可愛い子たちからのお願いなら、断る理由ないだろ?」
蓮のその一言は、熱狂に油を注いだ。
女子生徒たちから一際大きな歓声が上がり、その輪に加わっていなかった男子生徒たちからも、面白がるような野次が飛んでくる。
「はいはい、順番な」
蓮が手招きで列を促すと、数人の女子生徒が、頬を上気させながら代わる代わる彼の隣に立ち、スマートフォンにその瞬間を収めていく。
やがて、最初に声をかけたリーダー格の生徒の番が回ってきた。
彼女は他の生徒のようにはしゃぐことなく、静かに蓮の隣に立つと、小さく会釈して友人にシャッターを頼む。フレームの中で、控えめながらも嬉しそうに微笑んだ。
撮影を終え、1歩下がると、彼女は改めて蓮に向き直り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。神谷くん、ダンジョン制圧士として、私たちのために頑張ってくださいね」
心からの祈りを込めたような、その真っ直ぐな声。周囲の喧騒の中で、ただそれだけが凛と響いた。
蓮が何か言葉を返そうとする前に、その余韻は、遠巻きに見ていた男子生徒たちの一言によってかき消された。
「おい神谷、俺たちとも撮ろうぜ!」
熱狂はまだ、しばらく収まりそうになかった。
蓮は一人一人に笑顔で応じながら、この状況を冷静に観察していた。
(――ダンジョン制圧士。世間では、ダンジョンに巣食うモンスターを駆除し、国民をスタンピードの脅威から守る英雄。そして、社会を支える資源をもたらす功労者。そう見なされている)
蓮は視線を上げ、改めて教室を見渡した。
窓際で笑顔を作る女子生徒たち。興奮した様子で話しかけてくる男子生徒たち。誰もが、蓮という「選ばれた存在」に向けた、純粋な羨望と期待の眼差しを向けている。
(だが俺にとって、それは国家の安全という大義名分のもと、危険なダンジョンへ投入され続ける生贄に他ならない)
蓮の内心の分析は、表情には一切現れない。計算された笑顔を保ったまま、冷たい視線で周囲を観察している。
(周囲は誰もそれを生贄とは考えず、国家のために戦える栄誉として羨望する。命の危険が皆無になったわけではないのに、誰もがそれを疑わない。ここにいる誰もが、俺がその役割を喜んで受け入れると信じている)
(俺がこの欺瞞に満ちた構造を冷ややかに見ていることなど、想像もせずに)
熱に浮かされたような喧騒の中心で、ふと、クラスのリーダー格である女子生徒が、輪に加わらず窓の外を眺めているクラスメイトに気付いた。
彼女は撮影の順番を終えると、すっとその女子生徒の背後に回り、親しげに、だが有無を言わせぬ強さで、ぽんと軽く肩を叩いた。
言葉はない。ただ、笑顔で蓮の方を顎で示すだけ。それは『あなたも、やるべきことをやりなさい』という、静かな命令だった。
肩を叩かれた女子生徒は、一瞬だけ、その表情に諦めとわずかな倦怠の色を浮かべた。その目は、窓の外の何かを見つめていた。あるいは、何も見ていなかったのかもしれない。
だがそれも束の間、彼女は完璧な社交用の笑顔を顔に貼り付けると、蓮の方へ歩み寄った。
「神谷くん、おめでとうございます。応援してるね」
その声は他の女子たちとなんら変わらない、明るく弾んだものだった。完璧な笑顔。適切な言葉選び。そして、わずかに傾げられた首の角度さえも、この社会が求める「女性らしい祝福の型」に忠実だった。
しかし蓮だけが、その完璧な笑顔の裏に隠された、一瞬の感情の揺らぎを見逃さなかった。
(――型通りの祝福。彼女は完璧に演じている。だが、それは心からのものではない。この社会が要求するから、従っているだけだ)
「私も、写真、お願いできますか?」
彼女は皆がそうしていたように、写真撮影を申し込んだ。蓮はいつもと変わらぬ笑顔で応じた。
スマートフォンの電子シャッター音が、教室に響いた。




