入学式
神谷 蓮は、第四国立ダンジョン防衛大学校――通称、第四防大の正門をくぐりながら、小さく息をついた。
四月の柔らかな日差しが、キャンパスにまだらな影を落としている。ここは福岡県光来市。日本最大級の「光来ダンジョン」を中心に発展した計画都市の中枢だ。
(さて、どんな連中が集まってるかな)
磨き込まれた石造りの外壁。装飾を排した機能美。隅々まで手入れの行き届いたロータリーと芝生。その全てが、この施設に注ぎ込まれた国家の莫大な投資を物語っている。
そして、白を基調に金糸の刺繍が施された真新しい正装に身を包んだ新入生たち。男子学生は襟元まできっちりと締めたジャケット姿。一方、女子学生の正装は、膝丈のスカートに、鎖骨のラインが覗く程度に開いた襟元のブラウス。清楚でありながら、女性らしい柔らかさを強調するデザインだった。
誰もが期待と誇りに満ちた表情で、選ばれた者としての自覚を全身からにじませている。
蓮は周囲を観察しながら歩を進める。
ふと、前方にひときわ目を引く濃青の髪が目に留まった。水谷 葵――同じ高校出身のダンジョン適性者だ。数人の女子学生に囲まれているが、蓮の視線に気づくと、ほんの一瞬だけ目を合わせた。深い青の瞳。表情は変わらないが、その視線には微かな――何か、周囲とは異なる温度を感じさせるものがあった。
蓮は視線を外し、再び周囲の観察に戻る。
ふと、談笑していた男子学生グループの1人が、手にしていたファイルから数枚の資料をはらりと足元に落とした。
彼が拾おうとするよりも早く、近くにいた2人の女子学生が、まるで示し合わせたかのようにさっと身をかがめた。白を基調とした膝丈のスカートが、ふわりと揺れる。その動作は流れるように自然で、長年の教育が身体に染みついていることを感じさせた。細く整った脚のラインが、一瞬だけ視界の端に入る。白いストッキングに包まれた膝が、丁寧に揃えられて地面につく。
彼女たちは顔を上げることなく、膝をついたまま資料を拾い集める。柔らかな髪が肩から滑り落ち、うなじの白い肌が覗いた。1人が資料をまとめ、もう1人がその資料についた僅かな土埃を、白いハンカチで丁寧に拭う。その所作の一つひとつに、無駄がない。男子学生は立ったまま、彼女たちの作業を見下ろしている。
「ありがとう、助かるよ」
爽やかな笑顔で礼を言う男子学生に、彼女たちは顔を上げて「いえ、とんでもないです」と控えめに微笑み、資料を手渡す。その表情に、恥じらいや不満の色はない。
(よく訓練された所作だ)
それをきっかけに、ごく自然な流れで会話が始まった。男子学生たちが専攻について期待と野心を語り始めると、女子学生たちは彼らの言葉を決して遮ることなく、適切なタイミングで相槌を打ち、感心したように瞳を輝かせる。
(献身を美徳とする社会。そして、その美徳を疑わない者たち)
幼い頃から繰り返してきたであろう、洗練された立ち居振る舞い。それは、この社会で求められる役割を、彼女たちが自然に体現している証だった。
(実に都合がいいな)
蓮は、その光景から静かに視線を外し、人の流れに沿って歩き始めた。
受付で学生証を提示し、人の流れに沿って講堂へと向かう。
重厚な扉をくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。蓮は案内表示に従い、自分の席へと向かった。
* * *
蓮は案内された中央ブロックの3列目に腰を下ろした。見た目に反して柔らかいシートに身体を預け、彼は講堂全体を静かに見渡した。
華美な装飾こそない。しかし、半円形に広がる客席、柔らかな光を落とす天井の造り、派手さを抑えながらも存在感を放つシャンデリア、その一つひとつが、嫌味のない品質の高さを示している。
演台を覆う深紅の幕に施された緻密な刺繍も同様だ。すべてが、国家の潤沢な資金と、実用性を最優先する設計思想の現れだった。
蓮は、その無言の圧力に、わずかな居心地の悪さを感じていた。
「すごいな、これが第四防大か……」
隣の席に座った快活そうな短髪の男子学生が、興奮を隠せない様子で蓮に話しかけてきた。
「君も、やっぱり緊張してる?」
「少しは」
「だよな。俺、昨日の夜から全然眠れなくてさ」
男子学生は苦笑いを浮かべる。
「でも、なんだろうな。ここに来たら逆に身が引き締まった。国から期待されてるんだって思ったら、やるしかないよな」
(純粋だな。羨ましいくらいに)
蓮は、その言葉に滲む使命感を、まるで遠い国の物語を聞くように冷静に受け止めていた。
(だが、そういう奴ほど使いやすい)
「ああ、そうだな」
蓮は何気なく客席に視線を走らせた。その中ほどで、再び水谷葵の姿が目に留まった。濃青の髪は、大勢の中でもよく目立つ。
彼女もまた蓮の視線に気付くと、ごくわずかに頷いた。それは旧知の者に対する、最小限の挨拶だった。だが、その直後――彼女の口元が、ほんの一瞬だけ、わずかに歪んだように見えた。
(皮肉か、それとも共感か)
蓮は小さく息をつく。同じ高校出身とはいえ、彼女と会話した回数は多くはない。だが、周囲が純粋な使命感に包まれているこの空間で、彼女だけは――何かが、違う。
彼女の視線は、周囲の女子学生たちが浮かべる「期待される役割への誇り」とは明らかに異なる温度を持っていた。それは、この社会が求める「正しい女性」の型に、ぴったりと嵌まることへの、静かな拒絶のようにも見えた。
(面白い)
その予感は、悪くなかった。
目を戻す途中、近くの席である光景が目に入った。1人の女子学生が、恐らく初対面であろう隣席の男子学生のネクタイの歪みに気付くと、そっと手を伸ばす。
「失礼します」
小さな声で断ってから、彼女は手際よく結び目を直し、控えめな微笑みを浮かべて1歩下がった。男子学生は、当然のように短く「ありがとう」とだけ返す。周囲の誰も、その光景に違和感を覚える様子はない。
初対面の男女の間で自然に行われるそのやり取りに、この社会が求める男女の理想的な関係性が静かに滲み出ていた。
蓮は、まるで出来の良い演劇を観るように、その光景を観察していた。講堂全体は静かで、誰もが17歳で突然得た特別を重く感じているようだった。
隣の学生のように純粋な使命感に燃える者もいれば、蓮のように、この特別な立場をどう利用して成り上がるか、その算段を始めている者もいる。
そんな彼の思考を遮るように、スピーカーから落ち着いた女性の声で、事務的なアナウンスが流れ始めた。
「――まもなく開式いたします。式典進行にあたり、皆様にご協力をお願い申し上げます。登壇者が降壇いたします際には、皆様、温かい拍手をお送りください。その際、女子学生の皆様には、にこやかな笑顔を添えていただきますよう、重ねてご協力をお願い申し上げます」
(ずいぶんと露骨な指示だな)
蓮は、そのアナウンスに含まれた非対称性を冷静に分析する。男子学生には「拍手を送る」という中立的な表現。女子学生には「にこやかな笑顔を添える」という、感情表現までもが指定されている。
そして、周囲の誰も――男子学生も、女子学生も――その指示に違和感を抱いている様子はない。
(ただし、この世界ではこのような指示はごく一般的なものでしかない)
アナウンスが途切れると、それを待っていたかのように照明がわずかに落とされた。開式の合図だ。
黒のガウンに身を包んだ職員たちが舞台袖から現れ、ピアノと金管のファンファーレが短く鳴り響く。その後ろから、1人の老人がゆったりと歩み出た。
学長の鷹野 瑞雲――元国家ダンジョン戦略局の第1線指揮官。髪はすっかり白く、背筋はなお真っ直ぐで、卓上のマイクを確かめもせずに立つ。
「諸君、入学おめでとう」
低く抑えた声が、木壁に吸われて穏やかに返って来る。ざわめきはぴたりと止み、シャンデリアの鎖がわずかに揺れる音さえ聞こえた。
「諸君は、同世代150万人のうち、わずか1割強――約15万人にのみ発現する適性を見出された、国家の宝である。そして全国8校ある防衛大学の総定員わずか8000名という狭き門を突破した。この第四防大には、厳しい選抜を乗り越えた男子700名、女子300名が集っている」
学長は講堂を見渡した。蓮は、その視線に期待だけでなく、試すような色が混じっているのを感じ取る。
(国家の宝、か。都合のいい言葉だ)
「40年前、この世界は突如として出現したダンジョンと、モンスターによる大災害『スタンピート』によって一変した。20年続いた混迷の時代を、我々は先人たちの尊い犠牲の上に乗り越え、今日の平和を築き上げた」
学長の声には、過去の悲劇を知る者だけが持つ、特別な重みが込められていた。
「だが、この平和は諸君ら若人の絶え間ない努力と奉仕によって、かろうじて維持されているものだ。その事実を、まず胸に刻んでほしい」
学長の声は穏やかだが、ゆるぎない重みを帯びていた。
「諸君は既に『第三種 ダンジョン制圧士』の国家資格を取得している。それは権利であると同時に、定期的にダンジョンで活動する義務を負った証だ。国家は、その尊い奉仕に対し、相応の特権と名誉を約束する。だが、それは義務を完全に果たしてこそ得られる対価だ」
(権利と義務。特権と奉仕。綺麗な言葉で包んだ支配の構造だな)
静かな言葉に含まれた釘が、講堂の空気をわずかに緊張させた。学長は、その反応を確かめるように少し間を置いてから、言葉を続けた。
「この大学での4年間は、諸君が社会のあらゆる分野で活躍するための、高度な専門知識と実践的な戦闘能力を身につける期間だ。近年、戦略研究の進展により死亡率は劇的に低下したが、それでも毎年1000名近い制圧士が殉職している。一瞬の油断が命取りになる世界であることは、決して忘れるな」
その言葉に、学生たちの表情が引き締まる。
演台の背後にあったスクリーンに、プロジェクターが光を放つ。実戦の緊張感、講義室での知的な探求、研究施設での緻密な分析。それらすべてが、一つの淀みない流れとして構成されていた。
「良いか、諸君。現場は役割分担で機能する。前に立つ者、支える者、どちらが欠けても部隊は壊滅する」
学長は講堂全体をゆっくりと見渡し、静かに続けた。
「男子学生には、その力と知性で仲間を率いるリーダーシップを。女子学生には、その細やかな配慮と支援でチームの力を最大化するパートナーシップを。そうして初めて、国家の礎となる真の精鋭部隊が生まれる」
(リーダーシップとパートナーシップ、か。権威の言葉は、思考を止める)
その言葉に、女子学生たちの間に小さな反応が生まれた。何人かは表情をわずかに綻ばせ、期待される役割に誇りを感じているようだった。一方で、ただ静かに頷くだけの者や、視線を膝の上に落として黙って聞いている者もいる。
蓮の斜め前方に座る、ショートカットの女子学生の肩が、ほんの一瞬だけ強張った。彼女は唇を軽く噛み、視線を膝の上に落としている。だが、数秒後には表情を整え、周囲と同じように静かに頷いた。
それぞれの表情は異なっていたが、疑問を口にする者は誰もいなかった。
(そして、それは俺にとって都合がいい)
「4年間で力を蓄えよ。そして卒業の日には、日本が誇る、社会の中核を担う人材として、自らの道を切り拓いてくれることを願う」
学長は深く一礼し、静かに演台を下りた。場内に拍手が湧き上がる。
それは式典前に流れたアナウンスに従っただけの、義務的なものではなかった。蓮の視界の端では、多くの女子学生が教え通りにこやかな笑顔を浮かべている。
その笑顔は自然で、不自然さは感じられなかった。何人かは目を輝かせながら拍手を送っているが、淡々と手を合わせているだけの者もいる。さきほど肩を強張らせていたショートカットの女子学生も、今は周囲と同じように、にこやかな表情で拍手を送っていた。ただ、誰もがその場の空気に溶け込み、求められる役割を自然にこなしていた。
蓮もまた、周囲に合わせて静かに拍手を送る。ただし、その胸にあるのは共感ではなく、冷徹な計算だった。
脳裏に、過去に見た追悼プレートの光景が蘇る。年度ごとに刻まれた、数百の名前。全国で年間1000人――全制圧士約200万人のうち、0.05%。
4年間この大学に在籍すれば、単純計算で0.2%。この講堂にいる1000人のうち、卒業までに2人が死ぬ計算になる。
(だが、それは俺ではない)
蓮は冷静にそう結論づける。死ぬのは、準備を怠った者、油断した者、あるいは単に運の悪かった者だ。
リスクを正確に把握し、適切に管理する――それさえできれば、生存確率は大幅に上がる。そして、この歪んだ社会のルールを最大限に利用して、望む全てを手に入れる。
* * *
拍手が収束すると、司会の教務主任が進行を引き継ぎ、入学手続きの確認や今後のガイダンス日程を手短に告げた。式はわずか40分で閉じられる。
講堂の扉が開き、外の光と共に、春の匂いを乗せた空気が流れ込んできた。蓮は立ち上がり、人の波に身を任せる。
階段の踊り場にさしかかったとき、蓮の前を歩いていた女子学生が、ふと振り返った。彼女は蓮の姿を認めると、さっと階段の脇に身を寄せ、軽く会釈をして道を譲る。
蓮は特に礼も言わず、そのまま先に降りた。背後で、彼女が再び列に戻る気配がした。
耳に届くのは、解放感から生まれた心地よい喧騒。だが、蓮はその音に奇妙な調和があることに気づいていた。
喧騒の主旋律をなしているのは、未来への野心や展望を語り合う、張りのある男子学生たちの声。
「俺は将来、大手のダンジョン企業に入って――」
「いや、俺は独立して自分のパーティを持ちたいんだ」
そして、その音の隙間を埋め、全体を支える対旋律のように、女子学生たちの低く柔らかな相槌や、感心したような吐息が響いている。
「すごいですね」
「素敵な目標ですね」
それはまるで、1つのオーケストラのように自然に調和していた。男性が主題を奏で、女性がそれを支える。誰もが自分の役割を理解し、疑うことなくその役割を果たしている。
階段を降り切ったところで、陽射しが一層眩しくなった。さきほどまでの厳粛な空気が嘘のように軽く、春そのものの匂いがする。
新入生たちは、手にしたスマートフォンで真新しい建物を背景に、あるいは友人たちと肩を並べて、この記念すべき1日を記録に残していた。彼らの表情には、これから始まる新生活への期待と、選ばれた者としての誇りが静かに満ちている。
神谷蓮はゆっくりと息を吸い込み、左手の紋章を見つめた。肌に刻まれた銀青色の線が、朝日にきらりと反射している。
召喚師――この歪な社会で、自らの欲求を満たすための切り札。
(まずは力をつける。そして、使える駒を集める)
彼は口元にわずかな笑みを浮かべ、建物群の向こうにそびえる演習棟を見上げた。
この豊かで安全な社会。誰もが役割を理解し、満足している社会。そのルールは、理解した者にとっては最高の武器になる。
最初は観察。次に選抜。そして――
(この舞台で、最も巧みにルールを操るのは俺だ。望む全てを、この手に)
スマートフォンのバイブが、ポケットの中で震えた。新入生向けのガイダンス日程と、最初の実技講義の案内。画面には「ダンジョン実習」の文字が並んでいる。
蓮は画面を一瞥し、スマートフォンをポケットに戻した。
(――さあ、始めようか)
彼は、新入生たちの喧騒の中を、静かに歩き出した。




