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彩りの月  作者: 本堂可奈子
2/11

霜降

季節は巡り、再び秋が来た。

山寺は標高の所為か、人里よりも冷え込みが厳しい。

その日、十夜は住職に依頼され、小僧達と共に冬支度を開始した。



今年は秋の収穫も豊作で、自然の恵みはそのまま寺の食卓を飾る。

秋晴れの天日に布団や半纏を干し、防寒衣を揃えてゆく。

広い境内の一角で焚火をしながらの作業は、どこか娯楽にも似た楽しさで、年少の小僧たちも嬉しそうだ。

片付け終わる頃には、焚火の中の栗や芋も食べ頃になっているだろう。

蔵から出した大きな古い火鉢を運びながら、十夜は、はしゃぎまわる小僧たちの喜ぶ顔を思い、微笑する。


だが次の瞬間、小僧の一人が悲鳴を上げた。次いで聞こえたのは境内を囲う柵が壊れる音。

「!!」

一頭の大きな猪が、こちらに向かって突進していた。

驚いた小僧たちは逃げ惑い、慌てた結果、転び、十夜に助けを求める。

「十夜さまあ!!」

「伏せろっ!」

反射的に体が動いた。

いや、すべてが無意識だった。


どすんと大きな音を立てて、猪が倒れる。

「!?」

恐る恐る顔を上げた小僧たちよりも、一番驚いたのは十夜だった。

猪の脳天には、火箸が突き刺さっている。

それは十夜が抱えていた火鉢の中から、咄嗟に掴んで放ったものだった。

火箸は寸分たがわず急所に命中し、猪は一撃で絶命している。

「―――……」

十夜は呆然と立ち尽くす。

偶然とか、運が良かったとかでは済まされない何かを感じずにはいられない。

わずかでもコントロールを誤ったら、そばにいた小僧を傷つけていたかも知れないのに、そんな危惧は少しも無かった。

火箸を投げようなどと、考えた事もなかったのに。

あの一瞬、自分が自分ではなくなったような気がした。


――― いや、もしかしたら本来の自分に戻ったのかも知れない。

記憶に無い過去の自分は、そんな物騒な人間だったのだろうか。


その事実に戦慄する。

だが同時に、自分の中で何かが目覚めた気配があった。




「小僧を助ける為とはいえ、境内で殺生に及んだ事は反省せねばならんぞ」

「承知しております」

住職の諫言を受け、十夜は本堂に正座する。

僧侶でなくても、寺で生活している以上、郷に入っては郷に従うのが筋だから。

「和尚殿」

「何じゃな」

十夜は、心にかかっている不安を口にした。

「……私は、人や動物に対して、平然と刃物を投げるような人間だったのでしょうか」

少なくとも、無意識に急所を狙えるほど慣れていた事は否定できない。

だとしたら、それこそ仏に許しを乞わねば。

困惑して俯く十夜に、住職は静かな目を向ける。

そして、穏やかな口調で告げた。

「……古流武術の中には、鍼針(はり)を用いて敵を斃す流派もあると聞いた事がある」

“古流武術”という単語に妙な懐かしさを感じ、十夜はふと顔を上げた。

「礼儀作法が身についている御主の事じゃ。仮に武術の鍛錬を積んだのであれば少なくとも人を傷つける目的ではあるまい」

住職の言葉に、十夜は救われたような気持ちになる。

「では、私は鍼針術の心得があったのでしょうか」

「それは儂には判断できぬ」

十夜は少しだけ落胆した。

もし自分が特別な技術を学んでいたのなら、身元を知る手掛かりになるかも知れないのに。

せめて人を傷つける為ではなく、人を守る為に得たものであって欲しいと願う。



 ――― ……を、守る為に。



(……!?)

瞬間、十夜の胸が締め付けられた。

今、何かを思い出しかけた気がする。

しかし、不意の頭痛が思考を遮った。

「どうした」

「……いえ、少し頭痛が」

それは以前から、時折起こる症状。

医師からは心因性の無害なものだと診断されているが、この痛みが記憶の復活を邪魔しているような気がしていた。

こめかみを押さえる十夜に、住職は無言で合掌する。

「すべては、御仏の遣わされた試練じゃ」




住職が立ち去った後も、十夜は正座を崩さず黙考する。

自分は何者か。なぜ過去も家族も忘れて此処にいるのか。

堂々巡りの思考はいつもの事だ。

月を眺めて心を落ち着けたかったが、窓を閉じた本堂からは外が見えない。

闇夜を照らす月は、きっと以前の自分をも見下ろしていた。

唯一、失われた己を知る存在。

その気高く美しい輝きに、愛しささえ感じている。



月に焦がれる思いを堪え、十夜は目を閉じた。

~朔夜~



その男は「十夜」と呼ばれていた。

本名はわからない。誰も知らない。

なぜなら彼は記憶喪失で 己に関するすべての過去を忘れていたから。



人里離れた山寺・如月寺には、老いた住職と数人の小僧が住んでいる。

山には古来より女人の立ち入りを禁ずる掟があり、参道の険しさもあってか訪れる者も極めて少ない。

逆に、俗世から遠ざかり仏の道に仕える者が修行を積むには最適な環境と言えよう。



ある秋の日、一人の少年が門前に倒れているのが発見された。

一番近い村の診療所から1時間かけて医師が呼ばれ、診察したけれど怪我は無い。

しかし意識を取り戻した少年は、記憶を失っていた。

医師の見立てで、年齢は15歳前後と推測されたが、村内はもとより、近隣にも彼を知る者は誰一人いない。

ただちに駐在へ連絡が行き、家出人の資料と照合する。事件や事故に巻き込まれた可能性も含めて調査が行われたが、該当する人物は見当たらなかった。

どこの誰ともわからず、何一つ憶えていない少年。身につけていたのは、手縫いとおぼしき木綿の甚平だけで、所持品は一切なく、その上 素足だった。

そのようないでたちで、一体どのようにして山奥に位置する如月寺まで来たのかと誰もが不思議に思ったが、身元の判明に繋がるような手掛かりは何も無い。

結局、住職の申し出により寺預かりの身となり、そのまま年月を過ごす事になる。


名前が無ければ不便だからと、住職は少年に「十夜(とおや)」という呼び名を付けた。

彼が現れたのが十日の夜だったというだけの由来だが、少年はその名を気に入り、すぐに受け入れた。


記憶は無くても、少年は聡明で礼儀正しく、身についた所作にも品があり、育ちの良さが伺える。

当初は家出中の不良少年ではと訝しんでいた檀家の人々も、彼の気品漂う立ち居振る舞いを目にする内に、次第に変わって来た。

「もしや誘拐されて逃げて来た名家の御曹司ではないか?」

「お家騒動に巻き込まれた高貴な家の落とし胤ではないか?」

――――などと噂しあう始末。

真相はすべて霧の中でしかなかったが。


少年は住職の好意に感謝して、寺男としてよく働いた。

幼い小僧たちには兄のように懐かれ、よく面倒をみた。


記憶は、それまで生きてきた存在証明のようなもの。

寄る辺の無い身の上では、時折 不安が胸を占める。

そんな夜、少年は天空の月を見上げた。


煌々と輝く満月を眺めると、胸の奥で何かがざわめく。

何ひとつ覚えてはいないのに、ひどく哀しく切ない気持ちになるのは何故だろう。


「あの方はまるで、月からいらしたかぐや姫のようだ」


夜毎 月に向かって熱い視線を送る彼を見て、小僧達は本気とも戯れともつかぬ言葉を呟いた。

それは幼さゆえの夢想まじりの感想だが、当たらずとも遠からじかも知れない。

故郷の名も場所も、そんなものが存在するのかどうかも覚えてはいないけれど。


今すぐ何処かへ行きたい。

でも行き先がわからない。

今すぐ誰かに会いたい。

でも誰に会いたいのかわからない。

何を望んでいるのか、何が足りないのか、それさえもわからないのに、感情だけは激しく揺れる。


黒い雲が月を隠すように、少年の心も無明の暗闇に覆われていた。

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