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孤島の檻  作者: 森心安
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半透明人間と蟲娘(下)

 僕達は植物園を出て、駅に向かうためにバス停へと向かった。まだ春の日中だ。日差しも風も穏やかで心の中に芽生え始めている希望の芽が両手を伸ばすみたいに葉を広げ、光合成をするにもっとも適合している時間帯である。この天候ならばこれからの船旅は幸先良く始まりそうだと思った。


 そんな虚弱な僕らも優しく受容する陽光の下で、バスを待っている間に彼女は言った。


 「どうして、初めて会った時私に話しかけてくれたの?あの時クラスで口を聞いてくれる子がいなかったから、すごく驚いた」


 「あぁ……うん」僕はこれまで照れて決して口にしなかった言葉を言った、今まで喉元に絡まって発することがどうしてもできなかったそれを。


 「最初は初めて見た時に何か……同じ人だって思ったから。僕と同じように人間であることを諦めた人。そんな人が他にもいれば少しでもその孤独を和らげることができると思ったから話しかけたんだ。でも今思うと……」


 初めて彼女に会った時から抱き始めていた気持ち。これまでに無かった感情の萌芽だったから一時は説明不可能だったあの胸の切迫感。意味を知ってからもそれは複雑に喉に絡まって口元から出ることは無かった、僕に言う勇気が無かったから。しかし今絡まっているそれを一つ一つ丹念に解いて発言する気力や自信がある。柵が無くなったその言葉は弾丸みたいに僕の口から勢い良く飛び出たのだった。


 「初めて君を見てから好きになってたんだ。君に会って話すようになってからどんどんそれは強くなっていった。今ではどんなものよりも優先し大切にしなくてはいけない感情だと思うんだ」


 その言葉は彼女の体に電流のように通り、ハッとした表情になっていた。あまりに突然に彼女にとって衝撃的な言葉だったのかそれを一語一語理ゆっくり咀嚼するみたいに理解しようとしていた。


 「その気持ちを失いたくない、だから公園で髪を切られた時にも、芝桜の公園に行った時もできる限り……本当に僕のできる範囲だったけど、君に何とかしてあげたいって思ったんだ。これからもその気持ちを持ち続けて、君にできることはしてあげたいんだ。そして一緒に生きていたいんだ」


 一時経ち言葉の咀嚼が終わると、しっかり意味を理解したようだった。


 そして「そんなこと言ってくれる人、家族以外では初めて……ありがとう。嬉しい、本当に嬉しい……私も同じだよ。初めて話しかけてくれた時、驚いたけどすごく嬉しかった。生きてても良いんだって思ったよ。それまでは一生抜け出せないような孤独の底なし沼に落ちていた感じだったから。だからお母さんが死んだらもう私もいなくなっても良いって思ってた。独りで人間として、また『汚い部分』の虫であることを背負って生きていくくらいだったら、死んだ方がマシって……そうしたら蝶になれなくてもお父さん、お母さんに会えるから……そんな時にあなたが話しかけてくれて、その後も色々してくれて、生きることがこれ程幸せなんだって気づいたの。だからそのお礼として私もあなたに対してできる限りしてあげられることはしてあげるって思った。本当に私のできる範囲だったけど……これからもあなたとそう関わっていきたい。だって、私もあなたが好き……大好きだから……」と涙を流しながら微笑んで言った。

 

 バスが到着し乗客が僕らのことを見つめている。しかし僕らは構わず目を閉じ、互いに抱擁し口づけをするのだった。

 

 周囲の音は喪失し彼女の息継ぎの声しか聞こえなくなった。

 周囲の臭いも無くなり彼女の蝶が止まる、甘い蜜の詰まった花のような臭いしかしない。

 周囲の温度も消え失せ、彼女の体温しか感じられなかったがそれでも温かった。

 

 きっとバスの乗客も植物園の辺りの道を行き交う人々も僕らを見、異端者を疎外するような冷ややかな鋭い目をしているに違いない。でも僕らは決して気に留めることはまったく無かった。何故ならばここだけ現実世界とは異なったまったく違う世界が形成されたようで、周囲の存在を意識内にまったく寄せ付けなかったのである。僕らの存在が彼らの世界でほとんど認知されないのと同じように。


 僕達は数分間口づけだけではなく舌を絡ませたり、頬や首の辺りもキスしたのだ。顔はどんどん林檎色になり、息もどんどん乱れていきながらも、互いが体の内部ごと一つになった感じが確実に伝わり生きていることの確信が得られ快楽的な安堵感が体を支配した。結局僕らはバスが来ようかという時間までそれを行なっていたのだ。

 

 「これからも……一緒にいてね」

 

 「うん……」

 

 もう孤島の檻からの追手はやってこない。僕を追いかけていた拷問者は体中にナイフが突き刺さり涙、血、吐瀉物とありとあらゆる体液を流し醜くもがいていた。もしかしたらこのまま息絶えてしまうかもしれないし、仮に死ぬことがなくても怯えきってしまい、また拷問者のプライドによってもう僕を海の先まで追尾することはまずないだろう。


 そして彼女を追い回していた者もナイフで突き刺されたり、彼女自身の手によって懐柔されたことにより攻撃する意思を失っている。僕らはもう警戒することなしに孤島を脱出することができるのだ。


 僕らは一つになって航海を始めようとしていた。目指すべき桃源郷はどこにあるか分からない。そもそも僕らにとっての桃源郷などあるのだろうか?しかしそれでも僕らは探しにいくことを決めたのである。例えその途中何度も天候が荒れ狂い、孤島の檻の中にいる拷問者よりも強大な海中生物に襲われてしまい、死の危機にあっても彼女といれば平気だという確信があった。


 とりあえず、当分の間は彼女の家だったり芝桜の公園といった穏やかな小島に身を寄せようと思う。とにかくもう孤島の檻からは脱出し醜い拷問者もいないのだ。これからは一人の人間として自分の意思で生きることができる。それは半分人間で半分そうじゃないあまりに弱い僕らが支えあってこそ、実現し得たものである。


 辛いこともあるだろう。彼女と出会うまでの感情を殺した、被拷問者としての生活を送った方が本当ならやりやすかったのかもしれない。いくら残虐な拷問を課せられても自分自身のことなのに、まったく無関係な顔をしてやり過ごし生き長らえる従順な被拷問者の日々。


 しかしそこには今あるような希望や楽しさといった前向きで温かい感情も生まれず、そのような無機物的な生き方は虚しいものだ。だから僕は辛くとも人間であることを希求し、その道を選択した。そうして僕の目の前には今無限かと思われるくらい広大な海原が現れたのだ。だからこれからも生きていく、僕は人間として、彼女と一つになって。

 

 「バスが来たから乗ろう?」と僕の手を引っ張りはきはきと言う。

 

 「うん」

 

 「これからも……よろしくね」と彼女は言った。「ずっと……一緒だよ?」

 

 「うん。これからもずっと、何があっても……ね」

 

 もう僕らは独りじゃない、しっかり意思を持って生きられる一人の人間だ。そう思うと高揚感に満ち、思わず笑顔が溢れる。これはまさしく心の奥から喜びを感じて生まれたまさに人間だけが浮かべる表情である。

 

 バスに乗り、二人分のスペースがある席に座る。もちろん手は繋いだままだし彼女は僕に身を寄せている。


 バスが出発する。それと同時に二人だけの長い長い航海の旅が始まるのを感じた。孤島の檻がどんどん小さくなっていく。その時、僕らは今までに誰にも見せたことのない笑顔を見せていた。これから僕らの意思による自由な旅が始まるのだと。


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