↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前

伯爵令嬢のスピンオフになります

あたしは下町生まれの下町育ちだ

小さい頃から呑んだくれの父親に殴られて育った

けれど、ここいらじゃ良くある事で誰も気にしなかった

ある日母親が男と逃げた

あたしの面倒を見きれなくなった父親はあたしを小金持ちの家に奉公に出した

あたしはまだ十歳(とう)かそこらだった

だから娼館に売ろうとして断られでもしたのだろう

顔(つら)も十人並みでさほど良くも無かったしさ…

それ以来両親には会ってないし行方も知らない



 「湯がぬるい!」

洗顔用に差し出した盥を乱暴に押し戻しながら男が怒鳴る

零れた湯が前掛けを濡らす

「申し訳ございません」

あたしは謝る

心の中では悪態をついていても謝る

だってここの給金が破格だったから

小金持ちの家の小間使いから始まって転々といろんな家で女中をして来た

けれどここが今迄で一番稼ぎがいい

ここは西の町の大商会所有の小さな一軒家で会長が妾を囲っている

妾ってのがまあ…

今あたしの前掛けを濡らしたこの男なんだけどさ

商会長には妻と子がいるけど元来、女より男の方が好みだったらしい…

二月(ふたつき)程前に男娼宿から身請けしたらしい男妾《こいつ》を住まわせている

あたしはその女中に雇われた

「お前は見張りも仕事だ。ここの事は一切外に漏らすな…その代わり給金は倍出そう」

商会長の旦那はそう言った

なんで女のあたしが見張りかって?

男じゃ寝取られるとか思ったんじゃないの?

それと、この男右半身が不自由で足を引き摺らなきゃ歩けない

だから女でも逃がす事は無いと思ったんだろう

「何だ、このスープ。こんな塩辛い物が飲めるか!」

男は持っていたスプーンをテーブルに投げ出す

右手も不自由だから左手での食事に苛ついてよく癇癪を起こしている

こんな事は日常茶飯事であたしは無視する事にしている

身体が少し不自由だったからここの旦那でも身請け出来たんだろう…

それでも決して安くは無かった筈だ

だってこの男は飛び抜けて美しい

あたしなんか初めて見た時には暫く見惚れた

まあ性格は最悪だったんだけどさ…

男はひとしきりごね、気が済んだら自分の部屋へ帰る

入ったのを確認してからあたしは鍵を掛けるのだ

そうするよう言い付けられている

仕方が無い、あたしにだって睡眠が必要だから



 旦那は一週間に一度、日暮れ頃やって来て夜遅くに帰る

旦那はあたしの顔を見るのを嫌がる

来た日は帰るのを窺ってから鍵を掛けに行かなければならない

だから今日もそっと男の部屋を窺う…

旦那はもう居なくて中から小さくくぐもった咽び声が聞こえた

「母う…え…母上…」

夜になるとよく忍び泣いてたけど…声を出しているのは初めてだった

妾とは納得づくで囲われるものだろ

旦那は大枚はたいただろうけど……

鍵を掛け軟禁同様にまでするのは異常だ

何となく憐れに思えた

「大丈夫ですか?飲み物でもご用意しましょうか…」

男は裸の身体をシーツに隠しながら叫んだ

「覗くな…嫌らしい!」

憎まれ口は慣れっこだが同情したのを嫌らしいと言われ腹が立った

「母上って母さんの事でしょ。泣いて呼ぶなんてあんた年いくつよ?」

「下賎な者が僕に親しい口をきくな!」

「下賤…って…妾やってる奴に言われる筋合いない!」

あ…と思った

言っちゃいけない事を口走った

男はきつく唇を噛んで下を向く…

シーツにボタボタと涙を落とし嗚咽を堪えるように突っ伏してしまった

嫌な奴だけど、辛い時に追い討ちをかけたあたしが悪い

あたしは後悔に暫らく無言で佇んでいた

出て行けとは言われない…

寝台に一歩だけ近寄り聞いてみた

「ねえあんた、名前何ていうの?あたしはサラ…」

返事は無い

「ごめんね。いえ、すみませんでした余計泣かせて…」

男はゆっくりと顔を上げた

「今迄まともに話した事ないし名前も知らない…から」

あたしを見て眉を顰めた

「あ…女中風情から親しげにされるのは嫌だったか…」

苦笑いするあたしを睨み横を向いた

そして不貞腐れた声で答えた

「……ライアン」



 その日からあたしは挨拶する事にした

〝 おはようございます 〟や〝 お休みなさいませ 〟なんかだ

男…ライアンは最初おずおずと…

そのうち普通に〝 おはよう 〟〝 おやすみ 〟と返してくれるようになった


「分かってる。今の僕は誰より最低で…情けない存在なんだ…」

あの日寝台で泣きながらライアンは言った

年を聞いたら二十だと答えた

あたしは二十二歳、同い年くらいだと思ってたけど年下だった

それきり黙ってしまったからあたしも部屋を出た…

迷ったが鍵を掛けるのは止めた

もし逃げたいなら逃げればいいと思ったからだ

でも朝になってもライアンは居た

だから朝食の時あたしは言った

「綺麗に食べようとか上品に食べようとかしなくていいですよ」

前を向いたまま彼の方は見なかった

「ここにはあたししか居ないし、あたしはゆっくり待ってるから」

ライアンは少し黙った

それから不器用に左手で時々音を立てながら時間をかけて食事をした

癇癪は起こさなかった

初めて完食もした


あたしはあれから眠る時もライアンの部屋に鍵は掛けていない


そんな何日か後

朝食を用意して待って居てもライアンは食堂に来ない

まだ寝てるのかと他の仕事をしてたら昼近くになってしまった

さすがに気になってそっと覗くと部屋の一番暗いあたりに蹲っている

「どうかしたんですか…どっか痛い?」

彼は顔色も悪く手を微かに震わせながら首を振った。

「でも調子悪そう。旦那に知らせて医者呼んで貰いましょうか?」

「やめろ!」

彼は叫び急に立ち上がった

「もう、放っておいてくれ!いつもいつも勝手に…」

あたしを追い出した

嫌がる者はどうしようもない…

とは思うが昼も食べないし…何となく気にしながら日中を過ごした

その日の日暮れ、旦那がやって来た

あたしはその時のライアンの怯えた目を見て

ようやく覚った

……今迄気にした事がなかった

以前から旦那が来る日は怯える様子でこんな目をしていたのだろうか


 旦那が帰った後そっと部屋を覗くと放心したように寝台に横たわっていた

壁を向きこちらを見ようともしない

「大丈夫ですか?」

もちろん返事はない

「なぜ逃げないんです?あたしが鍵掛けてないの知ってるでしょ…」

涙を飲み込む気配がした

「……君が」

言いかけたので制した

「あたしが困るからなんて嘘はいいです」

黙ったのであたしも黙って待った


やがて出した細く歪(ひず)んだ声

「僕が……弱いからだ…死ぬ勇気もない…」


自由の効かない方の足を震える手で掴む

「この身体じゃ逃げても捕まる…逃げ方も、わからない」

その手が今度は乱れたシーツを緩く握った

「恐い。あの男も…外も…怖いんだ」


 あたしは突っ立ったまま心に湧いて来る何かを探って胸に手を当てた

何だろう…苛立つ

怒り……?

悲しみ……?

……そう、哀しくて腹立たしい…

誰に?

何に?


こんな気分初めてだ


「…逃げる?あたしと」

気が付くと呟いていた


これがこの男と逃避行を始めた理由だ

***




「サラ、ここは何故こんなに狭くて汚くて臭いんだ…?」

眉を顰めて言うライアンにあたしは呆れた

「あんた何様?」

あたし達は今、乗り合い馬車の上だ

昨夜あたしは夜陰に紛れてライアンを連れ出した

足の不自由な奴を連れ歩くのは思ったより難儀で金もかかった

苦労してやっと停留所に辿り着いて乗った乗り合い馬車だった

なのにこいつは文句しか言わない

目的地をとりあえずこいつの母親の居る地にした

こいつ…いや…

ライアンの母親は今迄居た西の町から馬車を乗り継ぎ数日かかる場所にいるらしい


旅は長い

あたしは溜息しか出てこない

「退屈凌ぎにあんたの話をしてよ」

「楽しい話なんかない…」

「楽しくなくていいよ」

「……」

「……ほら…」 

「…最初は西の町の修道院に居た。けど耐えられなくて逃げ出した」

「虐められでもした?」

「…そんなとこ」

「…そんで?」

「この足じゃ遠くまで行けなくて…町で騙されて売られた……それだけだ」

「…まあ、あんたひ弱で世間知らずっぽいもんね。貴族生まれとかだろ?」

ライアンは不機嫌そうに顔を背けた。

これ以上話す気はないらしい。


 最初に着いた町で安宿のそのまた一番安い部屋を借りた

また不満そうな顔をした。

面倒だから口に出さなかったけどあたしは後悔してた

ああ良い仕事だったのに…

なんであんな気分になったかな…… 

最後の給金は貰い損ねていた 


疲れたな…

そう思いながら横になって目を閉じた

するとスッと後から抱きすくめられた

部屋は当然ひとつだ

だからライアンと寝台に並んで寝ていたのだ

あたしは驚いて対応が遅れた

彼は覆い被さり首筋に舌を這わせた

「ちょ、ちょ…ちょっと何してんの、あんた!」

急いで彼を押し退けながら叫んだ

「何って。要求に答えようと…」

「は?」

目を剥くあたしに何でもない様子で続けた

「同室で一緒に寝るみたいだし…逃がしてくれた代償を要求されてるのかと」

平然と答える

「……金がないだけだ!」

あたしは彼に思い切り枕をぶつけた

「節約しないと辿り着けないだろ!それに大体あんたは、男専用だ…ろ………?」

「…好きでしてた訳じゃない」

傷付いた様な目を向ける

ちょっと罪悪感にかられた

「ああ!もう…とにかく!そんなんじゃないから…さっさと寝よう」

あたしは毛布を被って背を向けた。

暫く視線を感じたが、彼もそのうち横になったみたいだった

正直あたしはドキドキしてた

驚きもあるけど、彼の手の感覚…身体の重み

あたしを見つめる顔の美しさ…

「女…も経験あんの?」

あたしは毛布の中からそっと聞いた

「女の客もいた…中年の…」

罪悪感を覚えた

また後悔が増えた

***



 乗り合い馬車を乗り継ぎライアンの母親の居る町に辿り着いたのは数日後だった

あたし達は蔦の絡まる塀に囲まれた暗い色の屋敷の前に立った

「…ここで合ってんだよね?」

「聞いた通りなら…でも、こんなみすぼらしい所だなんて…」

確かに町に着いてから住人に聞いてやって来た場所だ

でも、みすぼらしい…って豪邸なのに…

まあ確かに寂れた感じもするが…


屋敷には門兵がいた 

年寄りであんまり強そうでも無いけど…

胡散臭そうにこちらを見てる

…まあ、怪しいだろうな

「何だ、お前ら、ここじゃ何も貰えないぞ」

「な…?!あたしら乞食じゃな…」

「主(あるじ)殿に…お伝え頂きたい」

いきり立つあたしの横でライアンが堂に入った態度ですっと背を伸ばした

「母…いえヴィクトリアという名の女性に面会を願いたいのだ…」

驚いたように門兵は答えた

「…ヴィ…?いや、わからんな…ここには誰も住んでない」

「でもここに居ると…」

「直近では、そうだな…二年程前、女がひとり運ばれて来たが」

「…運ばれ……確かに時期はそのくらいだが…」

「もし、その女なら運ばれて直ぐに亡くなってしまったよ」

「……ど、どうして」

「……理由なんかは知らないよ」 

ライアンは黙ってしまった

困り顔の門兵

仕方無くライアンの代わりに聞いた

「他にはほんとに誰も?」

「ああ、それが最後で今んとこ誰も」

「……じゃあんたは何を守ってんの?」

門兵は少し嫌な顔をした

「俺は留守番役みたいなもんさ…」

屋敷を振り返った。

「誰かが入りゃ衛兵も一緒にやって来る……なんせここはお館様にとっちゃ不都合な人間を隔離する場所…」

「隔離……」

「あ、お…っと余計な事、喋っちまった…」…

小声で呟き、次に大声を出す

「俺は何も知らない、もうあっち行きな」

しっしっと手を振った

あたしは途方に暮れた

けど突っ立ってる訳にもいかなくて俯向くライアンを引っ張って屋敷を離れた 



 この町の安宿の一室

ライアンは眠っている

あたしはそのライアンを胸に抱いていた

背が痛い

安作りな寝台の背もたれのせいだ

ああ今日も疲れた…


 あの後

「門兵が言った人があんたの母さんとは限らないだろ」

あたしが言ったのに

「……時期も状況も合ってる…僕も……半分は生きてるとは思ってなかった…」

そう言って、それから

「今までありがとうサラ……もう僕を置いて行ってくれ…」

座り込んで俯向いた

「もう金も尽きるんだろう?礼は出来ないけど、こんなお荷物、捨てるだけでもマシになる」

……まったく

自暴自棄になってここで野垂れ死ぬ決心でもしたんだろう

たかが母親が居なかったくらいで…

とんだ弱虫の甘ったれ野郎だ 

叱り飛ばして引っ張るようにしてここに連れて来た

そして寝台に放り出すと体を丸めて幼子のように大声で泣き出した

あたしはただ眺めて…

泣き疲れたころ聞いた

「ねえ母さん、どんな人…優しかった?」

「……僕には」

「そ…っか、あたしの母さんはガキの頃に消えたから覚えてない」

頭をかいて笑ったら暫くあたしを見つめてた

そしてまた涙声になる

「じゃ母上は…やっぱり優しい、誰が…何と言おうと優しい人なんだ」

昼間に聞いた事もあって何か複雑な気がしたけど、まあ…いいや

「あたしはあんたの母さんじゃないけど…気が済むなら甘えていいよ」

と手を広げてみた

いつものように、お前如きが馬鹿にすんな、とでも怒って元気が出ればいいな…

と思っただけなんだが…

……あたしに抱きついて肩に顔を埋めるようにしてまた泣き出した

そんな場面じゃないのは分かってたけど…

あたしはまたドキドキしてしまった 

最初の宿の見当違いで彼を変に意識する様になってたんだ

そんなあたしの気分を他所にライアンは泣きたいだけ泣いた…

そして気がつくとあたしの胸で寝息をたててた 

溜息をついて少し体をずらしてあたしも横になった

胸元の金の髪を撫でてみた

ああ、あったかくて柔らかいな……

そう思いながら目を閉じた



 はっとして目が覚めた

「…え?今…何時?」

「まだ暗い…」

ライアンは起きてた

眠気まじりでぼっとしながら聞いた

「……気は…すんだ……?」

ライアンはあたしの額にくちづけた

「サラ…本当に僕は何も出来ないクズ野郎だな⋯」

ああ、昼間そんな事言った気がする…

「もう…長い間、辛いと思っても思い切り泣いた事がなかった…ありがとうサラ」 

そう言えばいつも声を殺して泣いてたな…

思い出して、今とても素直なライアンが凄く可愛く感じた

あたしも額と頬にくちづけたら、きつく抱き締められた

やっぱりドキドキするな…

抱きあって見詰め合う

軽く唇を合わせ次に深くくちづけた

「サラ…抱いてもいい?」

頷いたあたしの頬を不器用な手が撫ぜた…


初心(うぶ)でも無いあたし

でもライアンは自由のきかない身体でぎこち無いけど、まるでお姫様でも扱うように丁寧に愛してくれた

でもたぶんこれは…

彼なりのお礼なんだろう

ヤバいな…

のぼせ上がらないように気を付けなきゃ…

***



 翌日からまた乗り合い馬車を乗り継ぎ王都まで出た

働き口を見つけ易そうだったからだ

ドブ川に面した狭く暗いフラットを借りるととうとう有り金が尽きた

働かなきゃ…


住み込みの女中が理想だけど男連れじゃ無理だろう…

飲み屋街をまわり女給募集の貼紙を見つけたから声を掛けてみた

昼前だからか眠そうな顔をした男が出て来てあたしの上から下まで目を這わせた

「いいぜ…雇ってやる。姐さん、他所から来たのか?」

聞くので頷いた

「じゃ俺のフラットに来なよ。タダで泊めてやるぜ」

「残念だけど、もう塒(ねぐら)は決めて来た」

「…なんだよ」

舌打ちをした


 この“梟亭”という酒場(パブ)のマスターは気の良い小柄な親父だった

最初〝雇ってやる〟って偉そうに言った奴はただの雑用係兼用心棒だった

けど無事働く事になって女給はあたしを入れて三人…

小さな店だ

女達とはすぐ仲良くなった

でも用心棒は、やっぱちょっと厄介だ…


 働き始めてひと月近くたった

梟亭は思ったより給金が良く余った食料も気前良くくれる

だからライアンと二人、何とか暮らして行けてた

ライアンは王都に来てから少し変わった

時々皮肉めいた事は言うけど、暮らし自体には文句を言わない

我が儘も出ない

けど……

「僕も働きたい」

毎日、仕事を探して外に出る

だが杖を使い足を引きずる姿では皆に首を振られるのだ

「気にしなくていいよ。あんたくらい養ってやるから」

「でも…」

「それよりまた騙されないように気をつけなよ」

擦り切れたボロを着ててもライアンの容姿は目を引いた

心配するあたしにしょんぼりと頷く

そして毎日、仕事をして帰るあたしを夜遅くまで待っている

汚い部屋を精一杯整え、食事を用意し、湯を沸かして身体を拭ってくれる

甘えるといつも丁寧に愛してくれた

全てあたしに養われている代償のつもりだと分かっているけど…

それでもあたしは嬉しかった

この生活に幸福を感じる

この気持ちに抵抗は虚しかった

ライアン

あたしはたぶんあんたに惚れてる…


「ねえライアン……」

「うん、何?」

「……あんたの右っ側…何で駄目になったのさ」

「…………」

「……怪我?」

「…いや…生まれつき」

「……ふーん⋯」


嘘つき

生まれつきが左手で食事するのにあんなに、もたつくもんか

何を期待してんの、あたし…

最初の宿でライアンが言ったじゃない

そうさ…

……優しくしてくれてるのは代償だ

そうなんだけど…

聞かなきゃ良かった、虚しい

でも、そんなもんだよな

惚れた方のが悪い



「ねえサラ、彼、良い男だと思わない?」

店を閉めた後テーブルを拭きながら女給仲間のアビーが言った

彼、とは出入りの酒問屋に最近入った若い男の事だ

仕入れの商談に来る

「うーん」

あたしが首を捻ってたら横からもう一人の女給のケイトが口を出した

「流行りの恋文ってやつ、渡せば?」

近頃、街を流す配達人に託せば庶民でも手軽に手紙を出せるようになって来た

そのせいか恋心を文に託して相手に渡す事が流行っているらしい

「駄目よ、あたし字が書けないもん」

ここに居る三人はあたしも含めて読めないし書けない

珍しくは無い、この国では庶民の半数くらいはそんなもんだった

「代書屋に頼めばいいんじゃない?」

「やだ無理、高くて給金飛んじゃう」

そりゃそうだ、と二人は笑う

代書屋は訴訟や契約の際に良く使われる

確かに女給程度の稼ぎじゃ、まして恋文なんか無理だ…と一緒に笑おうとした時

閃いた…

「ねえアビー…代書屋の半額…いえ三割くらいの値でだったら頼む?その…恋文」


翌日

開店準備の更にその前の時間

ライアンを梟亭に呼んだ

昨夜聞いたのだ

『ねえあんた良い所生まれだろ…字、書けたりするよね?』

手前のテーブルを借りてアビーの言葉を写している

最近家事で慣れて来た左手で器用に字を書く

「ちょっとサラ…大丈夫?」

ケイトが耳打ちして来る

「何が?」

「アビー恋文に書く言葉、もう酒屋じゃなくて代書屋に言ってる」

「やだ、まさか」

「サラがダグに靡かない訳だ」

ダグとは最初に会ったこの店の用心棒だ

厄介な事に何が気に入ったのかちょくちょくあたしに絡んでくる

「あんた、焦らして気を持たせてるんだと思ってた…けど」

店の奥に立っているダグをチラッと見た

「ダグ程度じゃ太刀打ちできないよね、あんな美貌の男」

「やめてよ、もう…」

そこに

杖と軽く引き摺る足の音が聞こえて来た

口述が終わったらしい

「これから帰って言葉を文に纏めるよ、サラから明日渡すって彼女に言っておいた」

「あ、うん。分かった…帰り、気を付けて」

「大丈夫だよ……うちで待ってる」

頬に軽くくちづけて梟亭を出て行った


見送っていると背中に抱きつかれた

アビーだ

「もう!もう、あたし酒屋なんかどうでもよくなった」

「でしょ?だよね?代書屋、凄いもんね」

ケイトが乗った

「凄い!凄い綺麗な男…サラ、彼あたしに譲って!」

「え?じゃあたしも!あたしも彼がいい!」

もう大騒ぎだ

あたしは負けずに怒鳴った

「ふざけんな!あいつはあたしの男だ!!」

一瞬静まり…

それから三人で大笑いした


 数日後

「…上手く行った……」

アビーがあたしとケイトに言った

「え?」

「何が?」

「前来た時ね…裏口でそっと渡したの恋文…」

「え、酒屋?」

「やだ、当たり前でしょ。そしたらね今日…」

「…うん」

「あたし言ったの、字が書けないから代筆を頼んだ事…でもね」

「…うん」

「…いいって。それでも文から君の純粋な心が伝わって来て涙が出るほど感動した…って」

「……」

「…………」

あたしとケイトと何故かアビーまで、唖然としてしまってた


ライアンには恋文の才能があったらしい

美しく清らかな文章…

うっとりする程の愛の言葉…

最初はアビーの恋の成就を聞いた何人かの代筆を引き受けた

そして、その殆どの想いが叶う奇蹟を起こしてしまった

またたく間に人の口に上ったようだ

すぐに凄い数の依頼が舞い込んだ

まあ、ライアンの美貌目当ても居たとあたしは思ってるけど…

この頃ケイトも恋文を頼んで来た

渡す相手は白状しなかったけど…


それから三月(みつき)程が経った

客の多さを見兼ねたらしい

梟亭のマスターが格安で午前中の店を貸してくれていた

この頃になると下町の女だけじゃない

商家の娘や下級貴族の令嬢なんかもチラホラ交じるようになって来た

もちろん梟亭に来るのは使用人とかだ

字が読めて書ける奴らは下町なんかにはやって来ない

こいつらは恋文じゃなく自分の詩や文の清書や添削なんかを頼んで来てるらしい



 「サラ引っ越しをしよう」

ライアンが言った

一部屋を客が呼べる事務所に使えそうな広いフラットを見つけたらしい

「いいよ、あんたも店まで通わなくていいしね…」

「うん。済まない…梟亭からは遠くなるけど…」

場所は下町じゃない

中間層の多い地域のフラットだ

要するにそんな所を借りれるくらいライアンは稼げるようになったって事なんだ…

嬉しいけど、寂しい

だって…

こうなったらもうライアンにはあたしは必要ないじゃないか

分かってたけど…

離れるのが嫌だったあたしは、のこのこライアンにくっついて引っ越した

だって

あんな事になるとは思ってなかったから

***


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。