第8話 PV1の足音 【完結】
書籍発売日。
オフィスに刷り上がったばかりの単行本の見本誌が届いた。
表紙を飾るのは、小野がイラストレーターに指示して描かせた、眩しいばかりの金髪ツインテールとポニテの美少女、そして可愛いスライムを抱いた爽やかな主人公のイラストだ。帯には特大の文字で『「小説家をやろう」日間総合ランキング第1位、待望の書籍化!』と躍っている。
「完璧だ。この綺麗なパッケージさえあれば市場は喜んで金を出す」
小野は満足げに笑い、本を開いた。
まずは第1話。小野が修正を命じた通りの、テンポの良いトラック転生と女神のチート付与が並んでいる。
だが、ページをめくる小野の指が、ふと止まった。
「……なんだこれ? 乱丁か?」
インクの匂いが残る真っ白な紙面に、奇妙な『黒いシミ』のようなものが混じっていた。よく見るとそれはシミではなく、極小の文字だった。
印刷のズレではない。チトセやヒヨリが健二の腕に抱きつく甘いハーレム描写の行間、そのわずかな隙間に、肉眼で辛うじて読めるかどうかの微小なフォントで、『たすけて』『だして』『いたい』という文字列が、無数に、びっしりと敷き詰められている。
「おい、ふざけるな……! 印刷所にどんなデータを回したんだ!?」
小野はカッと頭に血が上り、乱暴にページをめくった。
エルフの奴隷を救う第4話。ページ全体が、不自然に変色していた。まるで印刷の過程で、錆びた鉄の液体でも混入したかのように、ページの端から赤黒い汚れがじわりと滲み広がっている。
そして、慌てて最終ページへ指をかけた、その刹那だった。
本の最下部、著者プロフィールや発行元が記載されている「奥付」のページを見た瞬間、小野の指先がピタリと凍りついた。
著者の欄には、あの新人の名前ではなかった。
そこには、小野自身の名前、小野自身の生年月日、そして――「2026年9月19日 22時05分 死亡」という文字列が、真っ黒なインクで生々しく印刷されていた。
「え……?」
頭が理解を拒絶する。衣服の擦れる音さえしないオフィスの中で、突如、首筋にだらだらと伝う汗が異常なほど冷たくなった。
パツン。
オフィスの天井のLED照明が、一斉に消灯した。スマートフォンの画面も、先ほどまで起動していたPCのモニターも、まるで最初から存在しなかったデータのように音もなく真っ黒に反転する。
窓の外に目をやると、西新宿の高層ビル群も消えていた。ただ、どこまでも深い、底のない暗黒が広がっている。
「……おい、編集長の悪ふざけか? 誰かいないのか!」
小野が怒鳴り声を上げ、デスクを蹴るようにして立ち上がろうとした瞬間。ジ、ジ、と鼓膜を刺すような不快な音を立てて明滅する、安っぽい旧式の蛍光灯の機械音が響いた。
足元の高級なオフィス絨毯の感触が消え、ひび割れた冷たい白のタイルへと変わっていく。
鼻をつくのは、強烈な、生々しい鉄の臭い。
ガタガタと震える手で、小野はデスクの上にあるはずの受話器を探した。しかし、彼の指先が触れたのは、プラスチックの筐体ではなく、ドクドクと黒ずんだ水が絶え間なく噴き出し続ける、冷え切った洗面台の蛇口だった。
目の前の鏡には、恐怖で顔を白く染めた小野自身の顔が映っている。
そして、その鏡の表面に、内側からパキパキとひび割れるような音が響き、文字が浮かび上がってきた。それは、先ほどスマートフォンの感想欄で見た、あのユーザーの書き込みだった。
『もどれもどれもどれもどれもどれもどれもどれもどれもどれもどれもどれも』
「ひっ……!」
小野が悲鳴を上げて後ずさりした瞬間、彼の右の脛に、何かに激しく抉られたような強烈な鈍痛が走った。あまりの痛みにその場に崩れ落ちる。暗闇の奥から、無数の怪異の足音が、確実に小野へ向かって近づいてくる。
壊れかけの蛍光灯が、彼のもとに歪んだ濃い影を落としていた。
その影の床に触れているはずの右手の感覚が、肉肉しい冷たい皮膚の感触によって、上からぎちりと力強く握り締められていることに気づく。
ギチ、ギチ、と骨が軋む音が響く。小野の視界の端で、スマートフォンの画面が、バックライトもない真っ黒な液晶のままで静かに明滅した。ガラスの向こう側に、べったりとした手垢のようなものが内側から付着していく。
恐怖で叫び声を上げようとしたその瞬間、デスクの上でスマートフォンの画面がバックライトもなく真っ黒なまま、静かに点灯した。
着信ではない。新着の売上データが、画面の奥から彼を覗き込むようにして、ぽつりと表示された。
『新刊の売上:1』
その『1』という数字が、ぐにゃりと歪んで人間の歪んだ目の形に変形した。小野の視界が、ゆっくりと黒い鏡の中に吸い込まれていった。
――おわり――




