1 出会い
目の前に舞い散る赤。
茹だる暑さに混ざる血の匂い。
ベンヤミンはこれが現実だと思えなかった。
思いたくなかったのだ。
「おい、何したのか分かってるのか。」
そう呼びかけたベンヤミンの声は友の耳には届いていない。
彼は赤く染まった己の手を見つめていた。
誰かの悲鳴が遠くに聞こえた。
その瞬間、友は駆け出した。
「どこいくんだよ!」
友は振り返りさえしなかった。
置き去りにされたベンヤミンは、冷たくなっていく2つの屍を前に茫然とすることしかできなかった。
いったいなぜ、こんなことになったのだろう。
始まりは、1週間前の夕暮れだった。
「ランドルフ、入るぞ。」
ベンヤミンが部屋の扉を開けると、ランドルフは「何しにきたの。」と無愛想な返事をした。
年下の従兄弟は随分と不貞腐れているようだ。
「お前がまた喧嘩したと聞いたから、様子を見にきたんだよ。」
ランドルフは「向こうがつかかってきたのがわるい。」と頬を膨らませる。
「売られた喧嘩を毎度律儀に買ってやる必要もないだろう。
お前、最近随分荒れているじゃないか。」
「ベンヤミンも母さんの味方か。」
ランドルフはふいとそっぽを向く。
素行が悪いとを母親に叱られ、機嫌を損ねているのだ。
「そうじゃないさ。
俺もお前を心配してるんだよ、ランドルフ。」
街で喧嘩してばかりのランドルフのことを気にかけているのは本当だ。
こうして様子を見にきたのは、叔母に話を聞いてくれと頼まれたからというだけではないのだ。
しかし堅物のベンヤミンに、悩める10代の青年にかけるうまい言葉は思いつけなかった。
頭をかきながら、「何かあったのか。」と月並みな質問をすれば、案の定「べつに。」と突き放された。
「何もないよ。
ただ放っておいてほしいだけだ。
僕は自由になりたいんだ。」
ベンヤミンが言葉を見つけるよりさきに、「その気持ち、痛いほどわかるぞ。」と後ろから声がした。
「マルセル、来てたのか。」
声の主、マルセルは、「やぁ友よ、ご機嫌麗しゅう。」と芝居掛かった挨拶をした。
マルセルは子爵家の次男坊だが、調子のいい言動はその高貴な身分を感じさせない。
そういうところがランドルフと気が合う理由なのかもしれない、とベンヤミンは思う。
マルセルはランドルフの肩を抱き、「悩めるお前を、この俺が素敵な場所に連れ出してしんぜよう。」と笑う。
「素敵な場所って?」
「仮面舞踏会さ。」
マルセルは舞台に使うような煌びやかな仮面をつけて回ってみせた。
「今夜、俺は仮面舞踏会に招かれているのさ。
お前たちも来たまえ。」
「マルセルはアイデン子爵家の者として招待されたんだろう。
俺たちがついていっていいのか?」
ベンヤミンは躊躇うが、マルセルは「構うものか。」と笑い飛ばす。
「仮面舞踏会では客がどこの誰か確かめるのは御法度なんだから、紛れ込んでもばれやしないさ。」
マルセルに半端強引に連れてこられた会場では、大勢の客が仮面をつけて舞踏会を楽しんでいた。
「ランドルフ、ここでは面倒を起こすなよ。」
ベンヤミンに鍵をさされたランドルフは「わかっているよ。」と言いながらも視線は別の方へ向いている。
「おや、あそこで女の子に袖にされてるのは我が兄ルイスじゃあないか。」
マルセルはにやっとして囁いた。
マルセルの指差す先には、彼の兄ルイスの姿があった。
他の参加者と違って仮面をつけずに素顔を晒しているのが、容姿と身分を誇るルイスらしい。
しかし、相手の女性にはその2つの長所は響いていないようで、ルイスからのダンスの誘いに乗らない。
「ルイスもしつこいなぁ、プライドを傷つけられてむきになってるぞ。」
兄とそりの合わないマルセルは面白がっているが、ルイスに口説かれている女性は迷惑そうである。
見ていたランドルフが「なぁ、マルセル。」とマルセルに顔を寄せた。
「僕はあの子を助けようと思うけど、いいかな。」
「女の子を奪って、我が兄に恥をかかせていいかって?
いいに決まってる!」
マルセルは嬉しそうな声を上げた。
「しかしランドルフくん、会話を遮るのはマナー違反だ。
例外はズボンの裾が燃えているときだけだぜ。」
そういってマルセルはポケットからマッチ箱を取り出しランドルフに投げた。
ランドルフはそれを受け取ると、「まかせとけ。」と笑ってルイスの元へ向かった。
ランドルフはまず、給仕からグラスに入った水を受け取った。
さりげなくルイスの背後に回ると、マッチに火をつけそれをルイスの足元へ投げた。
「お話中すみません、ミスター。」
ランドルフに肩を叩かれたルイスは、「取り込み中なんだが。」と眉に皺を寄せる。
「お邪魔してごめんなさい。
でも、緊急なので。」
ランドルフは「足元をみて。」とルイスのズボンを指差す。
裾が燃えていることに気がついたルイスは、「うわぁ!」と声をあげて飛び上がった。
「早く火を消してくれ!」
ランドルフは持っていたグラスの水をルイスのズボンにぶちまけた。
火は消えたが、ズボンが水浸しになってしまったルイスは気まずそうに立ち去っていく。
その姿に、ベンヤミンの隣でマルセルはひぃひぃと笑った。
「お嬢さん、貴方にお怪我はないですか。」
ルイスに言い寄られていた女性に、ランドルフは甘い顔を向けた。
けれども彼女は「よくいうわね。貴方が火をつけたくせに。」と挑発的に笑った。
「君が知らない男に口説かれて困ってると思って。」
「知らない男じゃないわ、婚約者よ。」
思わぬ返答にランドルフはマルセルの方を振り返ったが、マルセルは肩をすくめた。
マルセルも知らなかったのだろう。
「私の両親はあの男に私と結婚してくれって必死に頼み込んでるのよ。
貴方が邪魔したと知れば両親はかんかんに起こるでしょうね。」
「僕は余計なことをしたかな。」
眉を下げたランドルフに、彼女は「そうでもないわ。」と微笑むのだった。
「あの男の慌てた姿、ちょっとせいせいしたわ。」
2人は視線を合わせ、そしてくすくすと楽しそうに笑った。
すぐ近くにいるベンヤミンやマルセルのことなど、まるで見えていないようだった。
「僕はランドルフ、君は?」
「ハリエットよ。」
「こんなにも周りははしゃいでるのに、ハリエットはどうして退屈そうにしているんだい。」
ハリエットは「べつに。」と拗ねたように言う。
「ちょっと窮屈なだけよ。
私は誰の指図も受けないで、好きなように生きたいの。」
ハリエットの横顔は、先刻のランドルフのそれとそっくりだった。
ランドルフは「ねぇ、ハリエット。」と砂糖菓子のような声で彼女を呼ぶ。
「僕と一緒に抜け出さないか。
今夜だけ、僕らは自由になる。」
差し出された手に、ハリエットは「悪くないわ。」と自分の手を重ねた。
手を繋いだ若い2人は夜の街へと駆けていく。
「薄情な奴だよな。
俺たちをおいてけぼりにしていくなんてさ。」
遠ざかる2人を見つめるマルセルはため息まじりに溢した。
「許してやってくれ。
俺が付き合うから。」
「では、我々も存分に楽しもうじゃあないか。」
ベンヤミンが慰めると、マルセルはいつものおどけた顔で本心を隠した。
ベンヤミンはこのとき気づいていなかった。
けれども、ランドルフとハリエットのこの出会いこそ、悲劇の始まりだったのだ。




