ロードにも慣れてきた……かな?
ジャックを見送って数十分、時折焚き火に炭や枯れ木の枝を足したりしつつ、ロバ達と戯れていた。
「可愛いね。ごめんね、スタイル悪い馬もどきとか思ってて」
案外と人懐っこいものなんだな。これなら何時間だって待てそうだ。
やがて日が傾き始め、不安が顔を覗かせる。どうかこのまま何事もなくジャック達が帰ってきますようにと祈る僕の耳に木々の奥からこちらに向かってくる音が届いた。足音ではなく枝葉を折る音だ。
「……ジャ、ジャック?」
ロバ達が怯えている。木々の隙間から顔を覗かせたのはジャックではない、一度目では頭と体が分かれた姿しか見なかった茶色い毛の熊だ。
「ひっ……!? ぁ、も、毛布……」
毛布の両端を手に持ち、頭の上に広げて揺らす。孔雀になった気分だ。
「え……? あ、あの、僕、おっきく見えない……?」
熊は一切怯まず僕の方へ向かってくる。馬車にあった果物用のナイフを構えながら僕は一度目の時の雇い主達の話を思い出していた。
「この辺の熊は……人の味を、知ってる。手を出してこなかったはずのロバも、馬車もっ……襲えるって知ってるっ…………なら火や毛布なんかで誤魔化せるわけないじゃないかジャックのバカぁっ!」
八つ当たりを叫びながら四足歩行で向かってくる熊に毛布を投げた。顔に毛布を被せられた熊は毛布を剥がそうと顔を振っている。
「……っ、ぅあぁああっ!」
ジャックは数十秒で首を切り落としたんだ。僕にも怯ませて追い払うくらいできる。そう信じて毛布の上からナイフを突き立て──刺さらないじゃないか!
「あ……待って、やだ、ごめんなさい……許して」
頭を小突かれたとしか感じていないだろう熊は鬱陶しそうに腕を振って毛布を剥がし、僕を睨んだ。僕の腰は抜けてしまって後ずさるしか出来なくなった。
「た、助けて……助けてっ、ジャック! ジャックぅっ! 早くっ、早く戻ってきてよぉっ!」
叫ぶ僕の足の上に熊の手が乗る。鋭い爪がズボンにくい込み、体重をかけられると骨が軋んだ。
「ひっ……!」
僕はナイフを持っていない右手で鍵を握った。しかし熊は僕の右手ごと僕の胸を押さえて僕を押し倒した。
「ゃ、やだっ、離して! ロードさせてっ……ゃ……痛いっ! ぁああっ、やだっ、やだぁあっ!」
僕の右手と胸を押さえた熊の手はそのまま僕を引っ掻き、僕の右手を壊し、胸から腹に浅い引っ掻き傷をつけた。ロードに使う鍵もアンにもらった石も、首にかけていた紐が熊の爪に切られて地面に転がってしまった。左手を伸ばしても届かない距離だ、熊に乗られていてこれ以上腕を伸ばせない。
「ぁ…………」
食べられる。滴る唾液にそう悟った僕は頭の上にあった縄をナイフで切り、ロバの足を軽く叩いた。
「逃げて」
ロバは慌てて逃げていく。僕は覚悟を決め、ナイフを熊の右目に突き立てた。しかし潰すことは出来ず、目尻を僅かに切り裂くに留まり、熊の怒りを煽った僕は左腕も壊された。
そこからは早かった。
「やだ、やだやだやだっ! 痛い痛い痛い痛いぃっ! いやぁああっ!」
肉食動物が獲物を食う時は内臓からだと、いつか動物番組で見た話を思い出す。あの時は何とも思わなかった、腹の皮膚が裂かれ破れる痛みなんて、内臓が外気に触れた時の寒さなんて、想像出来なかった。
「ゃ、あっ、ぁぐっ……ぁ、や、だっ……助けっ……」
自分の内臓を貪られる音を聞くことになるなんて予想出来なかった。
「痛いっ、痛いよぉっ……かあ、さっ……とぉさんっ……!」
この場にいたとしても僕を置いて逃げるだろう父母に助けを求めるほど、痛みによる混乱は激しかった。
「ぁ、あっ、やだっ、もぉやめっ……ぁあああっ! や、だぁ……返して、よ……」
腹の中がどんどん寂しくなっていく。今熊が引っ張っているのは……腸かな? 戻して欲しいなぁ、それがなくなったら大変だろうし……あぁ、ダメだ、噛み潰されちゃった。
「痛い……いた、い……痛い、よ……寒い……じゃ、く……たす、け……て」
熊の鼻先が僕の腹に埋まっている。僕はまだ死なない。人間というのは案外と頑丈なようだ、サイネリアに殺された時はすぐに死ねたのに。
「だれ、か……助け、て……助けて……ぁぐっ……! ぁ、ああっ! いだいっ、いだい、だめっ、それだめ、そこ食べちゃだめっ……ぁあっ、あぁああっ! ぁ、あっ……」
食いちぎった臓器をその場で貪っていた熊がそれを食べ終え、新しい臓器に噛みつく。その痛みに叫んでも熊は躊躇わないし、ジャックは帰ってこない。
「もぉ……殺して、よ……」
どうしてまだ生きているんだろう。もう手足は動かないのに、血も内臓もいっぱい失ったのに、どうしてまだ死なないんだろう。
「ころ、して……ころし、て……もぉ、やだっ……ぃあ、ぁあっ、ぁがっ、ぁ……もぉっ、痛いのやだっ……!」
異世界は幸せだったはずなのに。現実世界でたくさん痛くて苦しい思いをしているから、異世界では休憩できるはずだったのに。
こんなふうに痛い思いをしたくなくて、幸せになりたくて、異世界に来ることを決めたのに。
「…………し、き……み、み」
痛みが消える。赤から黒へ変わっていっていた空が澄んだ青空に変わる。僕は小石だらけの地面に寝転がるのではなく舗装されたコンクリートのような物の上に立っていた。
「……ん? ユウ……? ロードしたのか、何かあったのか?」
ジャックが隣に立っている。僕はその場にペタリと座り込んだ。太陽光を吸収した地面は熱い。
「ユウ? ユウ、どうしたんだ? 熊に襲われたのか? 怖かったな……よしよし、ロードで逃げてきたんだな? どうしたものか……やはり俺が残りたいが……うぅん……」
「…………ジャック」
「どうした?」
そっと自分の腹を撫でると服も皮も破れておらず、肉も内臓もちゃんとあった。痛みも感じていない。
「……僕、食べられた。お腹、ぐちゃぐちゃ……で、いっぱい、痛くて」
「何……!? 死んで自動的にロードされたのか!? 何故だ、何故自分でロードしなかった!」
「なんで……だっけ。鍵……ぁ、鍵、あった」
熊に襲われた時に紛失したはずの鍵は僕の首に下がっていた。いや、紛失したのは二度目の時だな、今は三度目でまだ熊には接触していない。
「ユウ……すまない、すまないユウっ、やはり俺が残るべきだった。離れるべきではないんだ……ユウ、すまないっ……!」
ジャックに抱き締められても僕は笑顔になれなかった。ベンチに移動させられても礼を言えなかった。ボーッとしているうちに雇い主の方から僕達を探しに来た。
「悪いが仕事は断らせてくれないか? ユウの体調が悪くなってな」
「はぁ? いや困るよ、酔ったか何かだろ、すぐ治るよ」
「すまない、断らせてくれ」
「いやいやいや困るって、護衛なしでは行けないし、君達の分のチケット代も出したんだよこっちは。代わりの護衛紹介して違約金払ってもらわないと」
雇い主が何を言っているかはよく分からないが、ジャックと言い争っているようだ。ジャックは交渉しているようだったが諦め、僕の隣に戻ってきた。
「悪い、ユウ。もう一度ロードしてくれ」
言われるがままに鍵を回し、四度目が始まった。ジャックはすぐに僕の手を掴んで走り出し、空港の売店の裏に向かった。
「……ひとまずここに隠れていよう。チケット代を払えないから雇われたのに違約金なんか払えない……悪いがバックれさせてもらおうか」
ジャックは僕をゴミ箱の蓋に座らせ、髪を整えるように頭を撫でてくれた。
「ほとぼりが冷めたら真っ直ぐ高原に向かう者達が居ないか探してみる。馬車なくして高原まで行くのは難しいからな……何かあったら躊躇わずロードしろ、いいな」
何を言っているのかよく分からなかったが頷くとジャックはどこかへ行こうとした。
「え……? ゃ、やだっ! やだっ……置いてかないで、殺されるっ……食べられる」
「落ち着け、ユウ。ここに熊は居ない」
「熊? 熊……嫌っ、やだ、熊やだぁっ!」
「落ち着け! ユウ、ユウ! 大丈夫、大丈夫だからな、分かった、ここに居る。離れない……新しい雇い主を探すのはユウと一緒にしよう。もう少し休もうな」
肩で息をする僕の背をジャックは優しく叩いてくれた。まるで正しい鼓動を教えるように。
次の便がやって来る頃には僕の呼吸は落ち着いて、立ち上がれるようにもなって、ジャックと共に新しい雇い主を探しに出た。




