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Myosotis  作者: Bpch


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2

2.


翌日。

三度ノックしたあと、泉上光は井上翔太の執務室のドアを乱暴に開けた。

そのまま椅子を引き寄せ、机の向かいへどかりと腰を下ろす。

勢いよく身を乗り出した光を見ても、井上は特に驚かなかった。

昔からこういう男だ。

井上の視線が、光の右手へ落ちる。

関節には雑に貼られた絆創膏がいくつも重なっていた。


「……やったのか」

「やった?俺があの場で撃ち殺さなかっただけ、刑訴法ちゃんと勉強してたほうだろ」

光は机を軽く叩いた。

「井上先輩、あんたな。柊音無があんなヤバい奴だなんて聞いてねえぞ」

「柊顧問をどう見るかは、君が決めればいい」

井上は淡々と言う。

「だから君に預けた」

「預けたって……あいつは殺人犯だぞ!」

「殺人犯を警察に預けるのは自然な流れだろう」


井上は眼鏡を押し上げた。

灰色がかった髪が、蛍光灯の下で淡く光る。


「それに君、危険な殺人犯だと思ってる相手を、一人で自宅に置いてきたんだな」

「……は?」

「公安へ連れて来なかったのか?今日から一応、勤務扱いなんだが」

「連れて来たに決まってんだろ!」

光は思わず立ち上がった。

「手錠まで掛けて車に押し込んできたわ!ていうか、あんた今すげえこと言ってる自覚ある?」

拳を振り上げかけ、しかし机を殴るのは堪え、代わりに自分の腿を叩く。

「柊音無は親父を撃った殺し屋だぞ。なのに公安は何してる?『顧問』?ふざけんなよ」

怒鳴る光を前に、井上は小さく溜息をついた。

立ち上がり、窓を閉める。

ブラインドを下ろし、監視カメラの角度を確認してから、小さく顎をしゃくった。

「声を落とせ」

光は舌打ちしながら椅子へ座り直す。


「……なあ先輩。あいつ何なんだよ。公安の裏仕事専門か?それとも警視庁の汚れ仕事を処理するための『黒い犬』か?」

「泉上光」

井上の声が少し低くなる。

「その口、少し閉じろ。ここは公安だ」


それだけで、室内の空気がわずかに張り詰めた。


井上は再び椅子へ腰を下ろす。

「柊音無は、どこまで話した?」

「Styxの殺し屋だって。コードネームがMyosotis。長距離狙撃のSSS級とか」

「君、刑事のくせに聞き取り下手だな」

「無茶言うなよ」

光は乾いた笑いを漏らした。

「目の前にいるのが親父殺した相手だぞ?冷静にメモなんか取れるかよ」

井上はこめかみを押さえ、小さく息を吐く。


「……いいか、泉上」

静かな声だった。

「公安が柊音無をこちら側へ置いている時点で、今は脅威ではないという判断が下ってる」

「公安の判断なんか信用できるか」

「首輪を見ただろ」

光の眉がわずかに動く。

「あれには追跡チップだけじゃない。電極も、薬剤注入機構も入ってる」

井上は感情を交えず続けた。

「最悪の場合、こちらの判断で即時処分可能だ」

「処分って……」

「心臓が止まる」


光が言葉を失う。


「公安でも、ここまでやるのは珍しい。あれは拘束具というより、『保険』だ」

しばらく沈黙が落ちた。

やがて井上は指を組む。

「……それでも、柊音無は公安へ協力すると言った」

「条件付きでな」

「条件?」

「君に会わせろ、だ」


光は顔をしかめた。


「意味分かんねえよ……なんで俺なんだ」

「それは私が聞きたい」

井上がわずかに笑う。

「よほど忘れられなかったらしいな」


その瞬間。

光の脳裏に、夕暮れの屋上がよぎった。

ラムネ瓶。吹き抜ける風。

茜色の空。

――はい、光さん。

――約束します。


あの声だけが、やけにはっきり残っている。

光は唇を噛み、視線を逸らした。

包帯の下で、関節がじくじく痛む。

井上もそれ以上は追及しなかった。


「真実を知りたいなら、自分で探れ」

「……」

「観察しろ。尋問しろ。君は捜査一課の刑事だろ」


井上は肩をすくめる。


「まあ、殴るのはおすすめしないが」

「は?」

「あれ、本気でやり返されたら君じゃ止められない」


光は顔をしかめたまま黙り込む。

やがて低く吐き捨てた。


「……だったら正式に逮捕する」

「無理だ」

井上は即答した。


「柊音無は公安と司法取引を結んでいる。現在はStyx捜査の重要協力者だ。君の逮捕状請求は上で止まる」

「っざけんな……」


そのとき、スマートフォンが震えた。

画面には「小林主任」の文字。

光は一瞬だけ井上を見る。


「捜査会議だろ?」

井上が先に言った。

「今回は本庁合同らしいな」

「……公安って暇なのか?」

「情報を拾うのが仕事だからね」


井上は薄く笑う。

その笑みは柔らかいのに、どこか冷たかった。


「価値のある情報なら、どこからでも拾う」

着信が止む。

光はスマホを握りしめたまま呟いた。


「……柊音無も、その『情報』か?」

「全員そうだ」


井上翔太は立ち上がる。


「行け。今回の件、君が知りたがってることと繋がるかもしれない」

そして最後に、自分の唇へ指を当てた。


「――外では喋るなよ、警部」


     ◇


同時刻。公安部管理下・特殊安全室。

柊音無は静かにドアを開けた。

壁には監視用のミラーガラス。

天井の隅には監視カメラ。

首には黒い電子拘束具。

常に監視され、管理される部屋だった。

だが音無は気にした様子もなく、デスクへ腰を下ろす。

端末へ長い認証コードを入力する。


起動待機の間、頬へ触れた瞬間、鈍い痛みが走った。

昨日、光に殴られた場所だ。

音無は薄く息を吐き、壁のミラーへ視線を向ける。

やがてドアが開き、井上が入ってきた。

音無の顔を見るなり、わずかに眉を動かす。

腫れた頬。裂けた口元。

スーツは整っているが、服の下にはまだ痣が残っているはずだった。

それでも、緑の目だけは妙に静かだった。


「先に言っておくが」

井上は壁にもたれた。

「私は君に同情する気はない」

「でしょうね」

「こちらは危険を承知で君を使っている。なら君も代償は払え」

井上は真っ直ぐ音無を見る。


「泉上に何を話した?」

「監聴してるんじゃないんですか」

音無は首輪を軽く叩く。

「これ、結構うるさいですよ」

「あまり趣味じゃないんだ。痴話喧嘩を盗み聞きするのは」

「……」

「一応、学弟のプライバシーは尊重してる」


音無は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。

「仕事の話をしましょう」

「そうしてくれ」

音無は画面へ向き直る。


「Styxが動き始めています。昨日の新宿の件、手口が一致してる」

「目的は?」

「……僕を探してる」

静かな声だった。

井上の視線がわずかに鋭くなる。


「泉上一警視正の件、本当に君がやったのか?」

沈黙。

だが井上は続ける。

「九年前、捜査一課長暗殺。東京中が揺れた」

低い声が部屋へ落ちる。

「だが当時、お前は十六だ。十六の少年がWA2000で現職警視正を撃った? 普通なら信じない」

音無は静かに首を振った。

「頭部じゃありません。胸部狙撃です」

淡々とした声。

「長距離狙撃で頭を狙う人間は少ない」

井上は黙ったまま音無を見る。


「それに、普通の十六歳と、Styxが作った十六歳は違います」

「以前言っていた『薬』か?」

「薬も、訓練も」


音無は画面を見たまま呟く。


「たぶん、普通の人には想像できません」

その瞬間、端末が電子音を鳴らした。

音無の指が止まる。

彼は静かに画面を開いた。


「……仕事を始めましょう、井上警視」



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