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◇♪2025年(令和7年)夏 泉上光(25) 柊音無(25)
翌日。
三度ノックしてから、泉上光は井上翔太の執務室へ勢いよく踏み込んだ。井上はちょうど席を立つところだった。
光はそんなことお構いなしに、缶コーヒーをデスクへ叩きつけるように置いた。
「なんだこれ」
「賄賂です」
「俺はお前の上司じゃないんだがな。まあ、愚痴くらいなら聞いてやる」
確かに、井上翔太は泉上光の上司ではない。
二人は同じ大学の先輩後輩だった。井上は三つ上の先輩だ。
かつて同じディベート大会に出場したことがあり、当時まだ下級生だったにもかかわらず誰にも物怖じしない光の態度は、井上の印象に強く残った。
それが縁で親しくなり、以来付き合いが続いていた。
光は、コンビニの店員とでも世間話を始める男だった。だが今日ばかりは、そんな空気ではない。
椅子を引き寄せると、机の向かいへどかりと腰を下ろした。
井上は今さら驚きもせず、眼鏡を押し上げながら向かいに座る。
その視線は自然と光の右手へ向いた。
雑に貼られた絆創膏がいくつも重なっている。
「……やり合ったのか」
「俺があの場でぶち殺さなかっただけでも、刑訴法をちゃんと勉強してた証拠だろ」
光は机を軽く叩いた。
「井上先輩さあ。柊音無があんなヤバい奴だなんて聞いてねえぞ」
「柊顧問がどういう人間かは、最終的には君自身が判断することだ。だから昨日、君に預けた」
「預けたって……あいつは殺人犯だぞ!」
「殺人犯を警察に預けるのは自然な流れだろう。それに昨日、もう現場へ連れて行ったそうじゃないか。 結局、使ってるじゃないか」
井上はコーヒーを一口飲んだ。
「じゃなきゃどうしろって言うんですか。アパートに置き去りにして、こっそり逃げ出すのを待てと?
そんなに心配なら、あんたが自分で閉じ込めてくださいよ。俺に回してくるな」
光は再び拳を握った。机を殴りつける寸前で思いとどまり、代わりに自分の腿を叩いた。
「あいつは九年前に親父を殺した殺し屋だぞ! 当時、捜査一課長だった泉上一警視正をだ!それなのに公安は何してる?『顧問』だぁ?」
光は吐き捨てるように続けた。
「その顧問を親父を殺された俺に押し付けて、面倒まで見させて、そのうえ毎日送り迎えまでしろってのか?
そこまで面倒見させるなら、いっそ俺があいつを嫁にもらった方が早いだろ!」
矢継ぎ早の文句を浴びせられ、井上は眉間を揉んだ。
立ち上がり、窓を閉める。
室内の監視カメラに目をやり、顎をしゃくった。
「声を落とせ」
光は舌打ちしながら椅子に座り直した。
「なあ先輩。あいつ何なんだよ。
公安の秘密工作員か?それとも警視庁の厄介事を片付けるための黒い犬か?じゃあ次に消されるのは俺か?」
「泉上光。その口を閉じろ。ここは公安だ」
井上の声が低くなる。
「……柊はどこまで話した?」
「Styxの殺し屋だって。コードネームがMyosotis。スナイパーのSSS級とか」
「君、刑事のくせに聞き取り下手だな」
「無茶言うなよ」
光は乾いた笑いを漏らした。
「目の前にいるのが親父の仇だぞ?『へえそうですか、お上手ですね〜』なんて相づち打つ余裕あると思うか?
そんな状況で冷静に話を聞けるっていうなら、今すぐ平沢さんに頼んで先輩を捜査一課に飛ばしてもらうよ。刺激的な現場をたっぷり味わってくれ」
井上は再びこめかみを揉み、小さく息を吐く。今度はブラインドまで下ろした。
薄暗い室内に白っぽい光だけが残る。
「……いいか、泉上。公安が柊を俺に預けた。そして俺がそれを君に預けた。
その時点で、少なくとも現段階では脅威ではないという評価が出ている。」
「公安の判断なんか信用できるか。首輪に爆弾でも入ってるのか? 爆発したら真っ先に死ぬのは俺だぞ」
「爆弾は入ってない。だが電極も注射針も仕込まれている。
通常は筋弛緩剤だ。逃走や抵抗を抑えるためのな。最悪の場合に備えた薬剤もある」
「最悪の場合?」
「シアン化物だ。起動権限は公安にある。正確には俺だ。
日本で容疑者に適用できる管理措置としては、ほぼ最も過激な部類に入る。」
光はわずかに目を見開いた。
「公安でもここまでやるのは珍しい。あれは拘束具というより保険だ」
やがて井上は指を組んだ。
「まさか飾りだと思っていたわけじゃないだろう。黒髪に合わせたチョーカー代わりだとでも?」
光は何も言わない。
「柊の経歴は複雑だ。だが、それに見合うだけの価値もある。そして柊は公安への協力を選んだ。条件付きでな」
「条件?」
「君に会わせろ、だ」
「……なんで俺なんだよ」
光は苛立ったように髪をかき上げた。
「俺がいつ刑事部の代表になったんだ。ただの警部だぞ。管理職ですらない」
「それはこっちが聞きたい」
井上は首を傾げる。
「お前ら、一体どんな因縁があるんだ?いや、幼馴染だの何だの、そういう話でもあるのか?
あのStyxから抜け出してまで、公安への最初の要求が『泉上光に会わせろ』だなんてな」
脳裏に、あの日の光景がよみがえった。
夕暮れの屋上。ラムネの瓶。
茜色の光に染まった『アヴェ・マリア』。
――はい、光さん。
――約束します。
あの時の、少し笑ったような声だけが、妙にはっきりと残っている。
光は唇を引き結び、視線を逸らした。
絆創膏に覆われた関節が少しだけ痛んだ。
井上は缶コーヒーを飲み干し、長く息を吐いた。
光がぽつりと口を開く。
「もし音無の言う通りなら……当時、あいつはまだ十六歳だ。
十六のガキが、どうやって狙撃銃を担いで俺の親父を殺した? どうやって? それに、なんでそんなことをしたんだ。あいつは……」
あいつはそんな奴じゃない――そう言いかけて、光は口をつぐんだ。
今の自分には、柊音無がどんな人間なのかすら分からない。
「お前が冷静になってくれると、俺としても助かる」
井上は背もたれに身を預けた。
「その件については、俺も知らない。だが、その答えは現場の刑事であるお前が見つけるしかない」
「……」
「観察しろ。尋問しろ。君は捜査一課の刑事だろ」
井上は肩をすくめた。
「ただし、もうあいつと殴り合うなよ。」
「は?」
「本気でやり返されたら、お前じゃ止められない」
光は顔をしかめたまま黙り込んだ。やがて低く吐き捨てる。
「……だったら手順通りにやる。正式に逮捕状を請求する」
「無理だ」
井上は即答した。
「柊はすでに公安と協力協定を結んでいる。現在はStyx捜査における重要な協力証人だ。
お前の請求は上で止まる。これは公安部の決定だ。身柄は完全に管理下だ。実質的には無力化されている」
「お前ら……」
そのとき、スマートフォンが震えた。画面には「小林主任」の文字。
光は一瞬だけ井上を見た。
「捜査会議だろ? 今回は本庁合同らしいな」
「……公安って暇なのか?」
「公安だからな。情報を拾うのが仕事だ」
井上は薄く笑った。
その笑みは柔らかいのに、どこか冷たい。
「価値のある情報なら、どこからでも拾う」
着信が止む。
光はスマホを握りしめたまま呟いた。
「……柊音無も、その『情報』か?」
「全員そうだ」
井上翔太は立ち上がった。
「行け。今回の事件は、君が知りたがっていることや、柊顧問の過去にも繋がっているかもしれない」
「……」
「コーヒー、ありがとう。それと――」
井上は自分の唇を指先で叩き、それから光を指した。
「口外するな、警部」
◇
公安部管理下・特殊セーフハウス。
柊音無がドアを開けた。
壁には監視用のミラーガラス。天井の隅には監視カメラ。首には黒い電子首輪。
常に監視され、管理される空間。
ここは今の彼の仕事場でもある。
音無はデスクへ腰を下ろした。端末へ長い認証コードを入力する。
起動を待つ間、何気なく頬杖をついた瞬間、頬骨の傷が引きつった。
昨日、一方的に殴られた傷だった。
痛みに息を漏らし、壁のミラーガラスを見た。
鏡に見えて、その実、監視用の一方向ガラスだ。
やがてドアが開き、井上が入ってきた。
ひどく疲れた顔だった。視線が音無の顔をなぞった。
乱れた黒髪。腫れた頬。口元には、絆創膏でも隠しきれない傷が残っている。スーツは整っているが、その下にはまだ痣が残っているはずだった。
それでも湖を思わせる緑の瞳だけは、不思議なほど澄んでいる。
「先に言っておくが、たとえ今は公安の管理下にあり、こちらのために働いているとしても、俺は君に同情する気はない」
井上は壁にもたれたまま言った。
「でしょうね」
「こちらは危険を承知で君を使っている。なら君も相応の責任を負え。泉上に何を話した?」
「監聴しているんじゃないんですか」
音無は首輪を軽く叩いた。
「これ、作動音がうるさくて敵いません」
「あまり趣味じゃないんだ。久々に再会した恋人同士の会話を盗み聞きするのはな。
後輩のプライバシーくらいは尊重してる」
音無は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……仕事の話に戻りましょう」
そして、画面へ向き直った。
「奴らが動き始めました。昨日、新宿のホテルで殺されたのは大場譲治という警備会社社長です。あの手口は、まず間違いなくStyxによるものです」
井上は黙って聞いている。
「ただ、裏付けが必要です。現場報告と捜査資料を確認したい。今日の捜査会議が終われば、そちらから資料も上がってくるはずです。それまで少し時間をください」
「目的は?」
「……僕を探している」
「なるほど」
井上は腕を組んだ。
「なら、それまでは手が空いているな」
「何でしょうか」
しばし沈黙が落ちる。
そして井上は静かに尋ねた。
「泉上一警視正を撃ったのは、本当に君だったのか」
音無は答えなかった。
だが井上は引かなかった。
「九年前の捜査一課長暗殺事件。
現場の痕跡は乏しく、証拠も決め手を欠いた。結局、事件は未解決のまま終わった。
東京中を揺るがせた大事件だ。
警視総監が記者会見まで開いたが、犯人には辿り着けなかった」
井上は音無を見据える。
「そんな事件の犯人が、今さら現れて『自分がやった』と言い出した。
しかも当時は十六歳だ。十六の少年がWA2000で現職警視正を撃った? 普通なら信じない」
音無は首を振った。
「頭部ではありません。胸部です。長距離狙撃で、頭を狙う人間は少ない。
それに、普通の十六歳とStyxが作った十六歳は違います」
「以前話していた薬物の件か。だが、Styxという組織も、お前の経歴も、あまりに現実離れしている」
「普通の人間には想像もつかないでしょう。 薬も、訓練も、身体改造も」
音無は画面から目を離さない。
そのとき、端末が電子音を鳴らした。
音無は画面を開く。
「質問はそこまでです。
――仕事を始めましょう、井上警官」




