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Myosotis  作者: Bpch


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1/2

1

1.


午後の東京。

泉上光は、父から譲り受けたトヨタのSUVを走らせ、日野のアパートへ向かっていた。

この車は泉上一のもとで十四年、そのあと光のもとでさらに四年走り続けている。メーターの数字は、もう笑えない。


少し荒れた路面を踏むたび、車体が揺れる。


「なんか、お前、あんまり揺れてなくないか?」

「背が低いので」

助手席で音無が答える。

「重心も低いですし」

「別に低くねえだろ」

「光さんと比べたら、低いですよ」


そう言って、音無がこちらを見る。

湖みたいな緑の目だった。

「でも、九年でずいぶん背が伸びましたね。安心しました」


――その目だ。

――その呼び方だ。


十五の頃から、音無はずっと光を「光さん」と呼んでいた。

恋人になっても変わらなかった。

大人になった今でも、変わらない。


「……覚えてたんだな」

光は前を向いたまま言う。


「何も言わずに消えたから、俺のことなんか忘れてるのかと思ってた」

「忘れたことなんて、一度もありませんよ」

光は鼻で笑い、アクセルを踏み込む。




坂の先に、古びたアパートが見えてきた。

深緑の手すり。打ちっぱなしの外階段。古いワンルームが並んでいる。

共有駐車場へ車を停め、シートベルトを外したところで、助手席から小さな音がした。


「どうした」

「……引っかかりました」


音無が首元を押さえる。

シートベルトの金具が、黒いレザーの首輪に噛んでいた。

光は舌打ちを飲み込み、身を乗り出す。

バックルの隙間へ指を差し込み、無理やり金具を外した。

勢いで音無の身体が少し前へ傾く。


「そのうち埋め込み式にでも替えてもらえよ。追跡だけなら、こんなもん付ける必要ないだろ」

「警察のわりに、優しいんですね」


音無が小さく笑う。


「僕を少しでも楽にしてやろう、って顔してます」

「井上先輩がお前を公安から引っ張り出して、俺に預けたんだ。そういう意味だろ」


光はドアにもたれたまま、音無を見る。


「……それに、俺はまだ知らねえんだよ」


青い瞳がまっすぐ向けられる。


「お前が何やったのか」


音無は黙っていた。


「柊音無。捜査一課の警部である俺ですら、お前の調書は閲覧権限がない。紙資料もほとんど残ってねえ。名前だけだ」


煙草を咥え、ライターを鳴らす。

火がついて、すぐ消えた。


「十五の頃の俺は、お前が海外でヴァイオリンでも弾いてるんだと思ってたよ」

もう一度ライターを擦る。

「まさか公安にいるとは思わなかった」

音無は答えない。

「お前、どこ行ってたんだよ」

沈黙。

「……何してた」


それでも音無は何も言わなかった。

光は小さく息を吐き、もう一度ライターを擦る。

そのときだった。

音無がそっと隣へ回り込み、風を遮るように手を添える。

掌の内側に、小さな火が灯った。

光はその火で煙草に火を点ける。

煙を吐き出したあと、音無は静かにライターを返した。


「井上さん、何も話してないんですか」

「『預かれ』だけだ」

「そうですか」


音無はトランクへ視線を向ける。

「僕のケースは?」


光は煙草を咥えたままトランクを開けた。

釣具、テント、小型コンロ。雑多な荷物の奥に、黒い大型ケースが横たわっている。

四角い、艶消しのケース。

光が持ち上げようとした瞬間、音無が先に引きずり出した。

細い腕がわずかに張る。

軽いはずがなかった。


「十四の頃も、それ背負って学校来てたのか」

「ケースはいつも持ってましたよ」

「そういう意味じゃねえ」


光は音無を見る。

「――銃だよ」


音無はケースを背負い直した。


「ああ。もう知ってたんですね」

「今知った」

乾いた声で光が笑う。

「中学の頃は疑いもしなかった。知ってたら真っ先に教師に突き出してたよ」

「うちの親父、警察だったしな」


音無は少し目を伏せる。

「……もっと早く話していたら、何か変わっていたのかもしれませんね」




部屋へ入ると、六畳半の和室がひとつ。

ローテーブルの灰皿。片付けきれていないカップ麺の容器。丸められた布団。

男一人で暮らしている部屋、という感じだった。

光は畳へ胡坐をかき、顎でケースを示す。


「開けろ」


向かいに座った音無は、きっちり正座をする。

ケースへ指を滑らせる。

指紋認証。

小さくロック音が鳴った。

蓋が開く。

中には、赤茶色のヴァイオリン。

弓。松脂。黒いベルベット。

昔と変わらない。


光は思わず手を伸ばしかけ、止めた。


「……まだ使ってたのか」

「ええ」


音無が静かにヴァイオリンを撫でる。


「ずっと、この一本だけでした」

「――下は?」


光が遮る。


音無は黙り込み、ケースの底へ指をかけた。

隠しラッチが外れる。

わずかに浮いた底板を、そのまま光へ向けた。


「どうぞ」


光は煙草を灰皿へ押し潰し、ポケットから白手袋を取り出す。

そして、ケースの上段を跳ね上げた。

――狙撃銃。

黒とブラウンで構成された、美しいブルパップ。


ワルサーWA2000。


可変倍率スコープ。

暗視スコープ。

黒いサプレッサー。


すべてが静かに収まっていた。

光はゆっくり顔を上げる。

電子首輪をつけたまま、正座している音無。

あまりにも静かな姿だった。

そのとき、井上に言われた言葉が脳裏をよぎる。


「泉上。柊顧問をどう扱うか、その判断は君に任せる」


光は無意識に息を止めていた。

畳の上へ視線を落とす。

音無は、マガジンの脇に収まっていたPPKとHK P9を取り出し、静かに畳へ置いた。

黒い拳銃が、畳の上で鈍く光る。


「光さん」


音無が顔を上げる。


「今日の内部通信、確認しなくていいんですか」

「……は?」


光は反射的に腰へ手をやった。


「『M』から連絡が来る頃でしょう」

音無は淡々と続ける。

「もしかしたら、もう気づいてるかもしれませんね。『その人物は今、自分の目の前にいる』って」


光は眉を寄せた。


「だから今日はもう連絡は来ないと思ってます。でも、一応確認してください」

「ここへ来る前に、予約送信してる可能性もあるので」

「お前――」


その瞬間、電子音が鳴った。

暗号通信端末の振動。

狭い部屋にやけに大きく響く。

光は無言で端末を取り出した。

表示されていたのは、短い文章だった。


――はじめまして。僕は柊音無。そしてmyosotis。

――泉上一を殺した犯人です。

――ごめんなさい。


光の指が止まる。

空気が静まり返っていた。

音無は深く頭を下げる。

額が畳につくほど深く。

黒い髪が垂れ、表情は見えない。

電子首輪の青いランプだけが、呼吸するみたいに点滅していた。



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