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午後の東京。
泉上光は、父から譲り受けたトヨタのSUVを走らせ、日野のアパートへ向かっていた。
この車は泉上一のもとで十四年、そのあと光のもとでさらに四年走り続けている。メーターの数字は、もう笑えない。
少し荒れた路面を踏むたび、車体が揺れる。
「なんか、お前、あんまり揺れてなくないか?」
「背が低いので」
助手席で音無が答える。
「重心も低いですし」
「別に低くねえだろ」
「光さんと比べたら、低いですよ」
そう言って、音無がこちらを見る。
湖みたいな緑の目だった。
「でも、九年でずいぶん背が伸びましたね。安心しました」
――その目だ。
――その呼び方だ。
十五の頃から、音無はずっと光を「光さん」と呼んでいた。
恋人になっても変わらなかった。
大人になった今でも、変わらない。
「……覚えてたんだな」
光は前を向いたまま言う。
「何も言わずに消えたから、俺のことなんか忘れてるのかと思ってた」
「忘れたことなんて、一度もありませんよ」
光は鼻で笑い、アクセルを踏み込む。
坂の先に、古びたアパートが見えてきた。
深緑の手すり。打ちっぱなしの外階段。古いワンルームが並んでいる。
共有駐車場へ車を停め、シートベルトを外したところで、助手席から小さな音がした。
「どうした」
「……引っかかりました」
音無が首元を押さえる。
シートベルトの金具が、黒いレザーの首輪に噛んでいた。
光は舌打ちを飲み込み、身を乗り出す。
バックルの隙間へ指を差し込み、無理やり金具を外した。
勢いで音無の身体が少し前へ傾く。
「そのうち埋め込み式にでも替えてもらえよ。追跡だけなら、こんなもん付ける必要ないだろ」
「警察のわりに、優しいんですね」
音無が小さく笑う。
「僕を少しでも楽にしてやろう、って顔してます」
「井上先輩がお前を公安から引っ張り出して、俺に預けたんだ。そういう意味だろ」
光はドアにもたれたまま、音無を見る。
「……それに、俺はまだ知らねえんだよ」
青い瞳がまっすぐ向けられる。
「お前が何やったのか」
音無は黙っていた。
「柊音無。捜査一課の警部である俺ですら、お前の調書は閲覧権限がない。紙資料もほとんど残ってねえ。名前だけだ」
煙草を咥え、ライターを鳴らす。
火がついて、すぐ消えた。
「十五の頃の俺は、お前が海外でヴァイオリンでも弾いてるんだと思ってたよ」
もう一度ライターを擦る。
「まさか公安にいるとは思わなかった」
音無は答えない。
「お前、どこ行ってたんだよ」
沈黙。
「……何してた」
それでも音無は何も言わなかった。
光は小さく息を吐き、もう一度ライターを擦る。
そのときだった。
音無がそっと隣へ回り込み、風を遮るように手を添える。
掌の内側に、小さな火が灯った。
光はその火で煙草に火を点ける。
煙を吐き出したあと、音無は静かにライターを返した。
「井上さん、何も話してないんですか」
「『預かれ』だけだ」
「そうですか」
音無はトランクへ視線を向ける。
「僕のケースは?」
光は煙草を咥えたままトランクを開けた。
釣具、テント、小型コンロ。雑多な荷物の奥に、黒い大型ケースが横たわっている。
四角い、艶消しのケース。
光が持ち上げようとした瞬間、音無が先に引きずり出した。
細い腕がわずかに張る。
軽いはずがなかった。
「十四の頃も、それ背負って学校来てたのか」
「ケースはいつも持ってましたよ」
「そういう意味じゃねえ」
光は音無を見る。
「――銃だよ」
音無はケースを背負い直した。
「ああ。もう知ってたんですね」
「今知った」
乾いた声で光が笑う。
「中学の頃は疑いもしなかった。知ってたら真っ先に教師に突き出してたよ」
「うちの親父、警察だったしな」
音無は少し目を伏せる。
「……もっと早く話していたら、何か変わっていたのかもしれませんね」
部屋へ入ると、六畳半の和室がひとつ。
ローテーブルの灰皿。片付けきれていないカップ麺の容器。丸められた布団。
男一人で暮らしている部屋、という感じだった。
光は畳へ胡坐をかき、顎でケースを示す。
「開けろ」
向かいに座った音無は、きっちり正座をする。
ケースへ指を滑らせる。
指紋認証。
小さくロック音が鳴った。
蓋が開く。
中には、赤茶色のヴァイオリン。
弓。松脂。黒いベルベット。
昔と変わらない。
光は思わず手を伸ばしかけ、止めた。
「……まだ使ってたのか」
「ええ」
音無が静かにヴァイオリンを撫でる。
「ずっと、この一本だけでした」
「――下は?」
光が遮る。
音無は黙り込み、ケースの底へ指をかけた。
隠しラッチが外れる。
わずかに浮いた底板を、そのまま光へ向けた。
「どうぞ」
光は煙草を灰皿へ押し潰し、ポケットから白手袋を取り出す。
そして、ケースの上段を跳ね上げた。
――狙撃銃。
黒とブラウンで構成された、美しいブルパップ。
ワルサーWA2000。
可変倍率スコープ。
暗視スコープ。
黒いサプレッサー。
すべてが静かに収まっていた。
光はゆっくり顔を上げる。
電子首輪をつけたまま、正座している音無。
あまりにも静かな姿だった。
そのとき、井上に言われた言葉が脳裏をよぎる。
「泉上。柊顧問をどう扱うか、その判断は君に任せる」
光は無意識に息を止めていた。
畳の上へ視線を落とす。
音無は、マガジンの脇に収まっていたPPKとHK P9を取り出し、静かに畳へ置いた。
黒い拳銃が、畳の上で鈍く光る。
「光さん」
音無が顔を上げる。
「今日の内部通信、確認しなくていいんですか」
「……は?」
光は反射的に腰へ手をやった。
「『M』から連絡が来る頃でしょう」
音無は淡々と続ける。
「もしかしたら、もう気づいてるかもしれませんね。『その人物は今、自分の目の前にいる』って」
光は眉を寄せた。
「だから今日はもう連絡は来ないと思ってます。でも、一応確認してください」
「ここへ来る前に、予約送信してる可能性もあるので」
「お前――」
その瞬間、電子音が鳴った。
暗号通信端末の振動。
狭い部屋にやけに大きく響く。
光は無言で端末を取り出した。
表示されていたのは、短い文章だった。
――はじめまして。僕は柊音無。そしてmyosotis。
――泉上一を殺した犯人です。
――ごめんなさい。
光の指が止まる。
空気が静まり返っていた。
音無は深く頭を下げる。
額が畳につくほど深く。
黒い髪が垂れ、表情は見えない。
電子首輪の青いランプだけが、呼吸するみたいに点滅していた。




