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標的がスコープに映るまでのあいだ、スナイパーは何を考えているのだろう。
標的の人生だろうか。
期待を寄せる両親がいて、幼い頃があって、学校へ通い、友人を作り、恋をして、働いて、
誰かと家庭を築いたのかもしれない。
——そんな人生がこれから放たれる一発の銃弾で終わるのだ、と。
だが、それは違う。あまりにも感傷的すぎる。
武器が考えるようなことではない。
スナイパーが考えるのはもっと単純なことだ。
時間を数え、心拍を落とし、呼吸を整える。
自らの存在を夜の闇へ静かに溶け込ませていく。
そして標的が現れた瞬間、風を読み、照準をわずかに修正し、レティクルを後頭部へ合わせる。
——引き金を引く。
◇♪2025年(令和7年)夏 泉上光(25) 柊音無(25)
「ぐっ……!」
古びた小さなアパートだった。
深緑の手すりに、打ちっぱなしのコンクリート階段。同じ形のドアが無機質に並んでいる。
安普請で飾り気もない。生活に頓着しない独身警官にはちょうどいい住まいだった。
その一室で、柊音無は泉上光に畳へ叩きつけられた。
短い呻き声。反射的に頭をかばった腕もすぐ乱暴に払いのけられる。
次の瞬間、拳が骨を打つ鈍い音が響いた。
ローテーブルの灰皿が床へ落ちた。
吸いかけの煙草が灰の中へ転がり、すぐ踏み潰される。
音無はただ体を丸め、横向きに倒れていた。
逃げようとはしない。
その諦めきった態度が癪に障ったのか、光は音無を無理やり仰向けに押し倒した。
抵抗しなかった。
ゆっくりと両腕を広げ、大の字になって畳へ横たわった。
このままここで殺されても構わない、そこにあるのは諦めだけだった。
光は音無の胸ぐらを掴み上げた。
掌に伝わる鼓動は、異様なほど速かった。
平然としているくせに、心臓だけは馬鹿みたいに脈打っていた。
光の手がわずかに緩んだ。
音無はそっと手を伸ばし、光の手に触れた。
何かを言いかけ——不意に、首元の黒い電子首輪が微かに震えた。
音無の肩がびくりと跳ねた。
光の手に添えられていた指先から、ゆっくり力が抜けていく。
張っていた全身も崩れるように弛緩した。
「……ごめんなさい」
振り下ろしかけた拳が止まる。
やがて力なく下ろされ、そのまま畳へ叩きつけられた。
指の関節からじわりと血が滲んでいた。
連絡用の端末はいつの間にか床へ転がっている。
液晶画面の縁を伝い、誰のものとも分からない血が一筋畳へ滴っていた。
〈From Myosotis〉
はじめまして
僕は柊音無
そして、Myosotis
泉上一を殺した犯人です
——ごめんなさい
光は音無の胸ぐらから手を放した。
数歩あとずさり、そのまま壁へ背中を預ける。
「…俺のことなんか、とっくに忘れたと思ってた」
「忘れたことなんて、一度もありません」
「じゃあ、なんでだよ」
「……」
「なんで親父を殺したんだよッ!!俺たちは……俺たちは……!」
——違ったのか。
恋人じゃないのか。
十四歳、十六歳。
山吹中学から桜咲高校まで。
同じイヤホンを分け合って音楽を聴いた。
パガニーニのあとにリンキン・パークが流れるようなめちゃくちゃなプレイリストだった。
門限ぎりぎりまで未来の話をした。夢の話もした。
閉まりかけた校門を前に、光が塀を乗り越えると、音無もケースを背負ったまま軽々と続いた。
——その黒いヴァイオリンケースが、今も二人の背後に置かれている。
開かれたケースの上段には見慣れた鈴木ヴァイオリン。
音無が何より大切にしていたヴァイオリンだった。
光の前でも何度も弾いていた。
だが、開いたままの下段に収められていたものは——
ワルサーWA2000狙撃銃。
ブラウンの木製フォアエンドに、黒いアロイフレーム。ブルパップ構造の無駄のない長方形のシルエットは、狙撃銃というより精密機械じみていた。異様なほど端正だった。
その隣に、.300ウィンチェスター・マグナム弾のマガジン、シュミット&ベンダー製スコープ、AN/PVS-4暗視サイト、サプレッサー。
傍らにはPPKとHK P9。
どれも狂気じみたほど整然と並べられていた。
それは泉上光の知らない世界だった。
柊音無の中に存在していたもうひとつの顔。
自分の知らない九年間、そこに並んでいた。
音無の唇がわずかに動く。
何かを言おうとして——結局、飲み込んだ。
「……ごめんなさい。九年間、ずっと隠していました」
「んなもん聞きてぇわけじゃねえんだよ!!」
光は再び音無の胸ぐらを掴み上げて、真正面から睨みつけた。
「俺が聞いてんのは、そこじゃねぇだろ……!
なんで二年前、Myosotisを名乗って俺に近づいた!?
なんで今さら、全部バラしに来た!?
井上先輩のところにまで——!」
——着信音が鳴った。
二人とも反射的に動きを止めた。
震える手で端末を取り出して、画面に表示されていた名前は小林拓也。
小林班を率いる刑事で、光の直属の上司でもある。
深く息を吸い込んで、目元を腕で乱暴に拭い、そのまま立ち上がった。
背後でドアを叩きつけるように閉めた瞬間、自分でも驚くほど大きな音が響いた。
——これだけ騒げば、苦情くらい来るだろう。
……どうでもよかった。
最悪、部屋を引き払えば済む。
光はアパートの外廊下に立ったまま、投げやりにそんなことを考えていた。
外へ出た瞬間、夏の湿った夜気が全身にまとわりついた。
頭はちっとも冷えなくて、胸の奥の息苦しさが余計に酷くなる。
光は震える息を何度か吐き出し、乱れた呼吸を整える。
喉を一度鳴らして、ようやく通話ボタンを押した。
「主任」
「遅ぇ」
通話が繋がるなり、小林のぶっきらぼうな声が飛んできた。
光は適当に応じながら、わずかに眉を寄せる。
用件だけ告げると、小林はすぐ通話を切った。
通話が切れたあとも、光はしばらくスマホを耳に当てたまま動かなかった。
視線は背後のドアへ向けられたままだった。
まるでその向こうにいる男を見透かそうとするみたいに。
小林が告げたのは、新宿で発生した狙撃事件だった。
——だが、なぜこのタイミングなんだ。
昔の恋人が殺し屋だった。
しかも九年前、自分の父親を狙撃で殺した相手でもある。
そんな事実を突きつけられた直後に、今度は新宿で狙撃事件。
偶然にしては出来すぎている。
だが今の光に、冷静に物事を考える余裕はなかった。
荒い息を吐きながら、ただ目の前のドアを睨みつける。
胸に引っかかった違和感だけが消えなかった。
◇
部屋に残された音無はしばらくしてようやく身を起こした。
壁にもたれかかり、静かに窓の外を見る。
電柱の防犯カメラ。
赤いランプが一定の間隔で点滅していた。
音無はゆっくりと視線を伏せて、小さく咳き込んだ。
唇の端の血を拭い、そのまま這うようにケースへ近づいた。
開いたケースの中には、狙撃銃も拳銃もそのまま残されていた。
それらには一切触れなくて、代わりに取り上げたのはヴァイオリンだった。
指先が触れた瞬間、松脂の匂いが鼻を掠めた。
音無は壁際へ身を寄せ、ヴァイオリンを抱え込んだ。
ヴァイオリンを抱え込んだまま、小さく体を丸めた。
張り詰めていたものが切れたみたいに、うつむいた肩が震え始める。
「……ごめんなさい、
ごめんなさい……」
何度も謝りながら、それでもほとんど声を出さなかった。
血が唇を濡らしていた。
目を閉じ、ヴァイオリンを強く抱き締めた。
部屋のドアが乱暴に開いた。
音無の肩がびくりと震えて、抱えていたヴァイオリンが力なく畳へ滑り落ちた。
光は無言のまま音無の腕を掴み上げて、強引に立たせ、部屋の外へ連れ出した。




