シューリムへ
(一年ぶり、だわ…)
今年の夏は来られなかったシューリムの風が、私を心地よく迎え入れてくれた。
包帯を巻いた顔に、お母様は驚くだろうか。
火傷を負った次の日、包帯の交換に訪れた医師が帰った後、父から神妙な面持ちで聞かされた。
お母様に私が火傷を負ったことを伝える手紙を書いたこと、リンドーネ侯爵に破談にしたいことを書いた抗議文を送ったこと。
『後のことはこちらに任せて、心のままに生きなさい』
それは言外に、お母様のいるシューリムで心ゆくまでのんびりしたら良いという意味を孕んでいた。
(お父様は本当に…どうしてしまわれたのだろう…)
父には強い信念があったはずである。女は女らしくあるべきだ、何よりも家のために生きるべきだ、我慢は美徳だ。
その父が、火傷を負った私の顔を見て泣いた。溢れそうなあの目が忘れられない。
ふいに胸に甘酸っぱいものが込み上げてくる。それは、黄金色のススキの中で泣く、幼い私を抱き上げた眼差しによく似ていたと思ったからだ。
(そんなこと、あったかしら)
父はなぜ急に怒りに任せてリンドーネ侯爵に破断の申し入れをしたのだろう。今までの父ならば、嫁の立場である私か我慢するべきで、文句の一つも言ってはならないとでも言いそうなのに。
こんな火傷では、遅かれ早かれダステムから破談の申し入れがあったと思う。それが、抗議文まで書くなんて、リンドーネ家だけではない、トノール家にも様々な噂が立つだろう。一番父が嫌がりそうなことだ。つまり、
(それほどまでに怒っていたのだわ)
何を?何に怒っていたのだろう。
私が我慢できなかったばかりに、リンドーネ家との破談の要因を作ってしまったから?トノール家を侮辱されたと感じたから?
ダステムが私に火傷を負わせたから?
(まさか…)
そう思って首を振る。私の知っている父は、私のために怒るような人ではないはずだ。
だから、ここ最近の父の言動に心が揺さぶられて、辛い。
『お父様はあなたのことが心配なのよ。心配しすぎて拗らせているのよ』
あの時の母の言葉は、耳障りが良いだけで形を捉えていないと感じる。
けれど
(逃げても良い、心を大切に生きよ、と言っていたわ。それから…)
『ダステムと婚約を解消したいなら、いつでもシューリムへ…』
「……まるで、すべてお見通しじゃない」
いろんな思考が込み上げてきて、重力を十倍にもしたように感じられる。私は母の生家であるホーネスト家を前に、それ以上歩くことができなくなってしまった。
「…お嬢様?」
一緒に着いてきてくれた侍女・リーンが何度も私を呼んだが、汗が吹き出してきて応えることができない。
その時、ホーネスト邸から何人かの侍女がこちらに気づいて、走ってくるのが見えた。
玄関の脇で手を振っているのは、母だ。
「っっっ!!!」
私は途端に恐ろしくなって、顔を隠してその場にしゃがみ込んでしまう。
バタバタと足音が近づいてきて、止まった。
「ああ!やはりマリーアお嬢様!!ようこそいらっしゃいました!」「ご主人様と奥様がそれはそれは首を長くして待っていらして!」「フェリア様もお待ちですよ」
周りでたくさんの声がする。
(久しぶりに聞いた、お母様の名前)
結婚して別の家庭に入れば、「奥様」「夫人」「お母様」という役割で呼ばれるのだから仕方がない。
(あんなに思い切り手を振るお母様を、初めて見たわ)
このままお母様はお父様と離縁されてしまうのだろうか。
(その前に自分が婚約破棄するかもしれないのに)
ぐっと影の色が濃くなるのを感じた。「え」と思うのと同時に、影は言う。
「まあ!私の娘はそんなに恥ずかしがり屋だったかしら?」
すぐ真上で母の声がして、思わず顔を上げた。
太陽を背にして立っている母は、生き生きと輝いて見える。
「お母様……」
母もまたしゃがんで、私の肩を抱くと、しゃん!と立たせてしまった。
「わ、私…私っ……」
肌艶の良くなった母は、ふっと微笑み私をまっすぐに見た。
「お帰りなさい」
母はそれだけ言うと、私の腕を引っ張った。
「貴方が来ると聞いて、おばあ様が張り切ってレモンクッキーを焼いたのよ。マリーアの好物だからって」
「え……」
「もちろん、ここにはしばらくいるのでしょう?」
「あの…ええ、そのつもりです」
(お父様から手紙を出したとはいえ、何も聞かないのかな、顔の包帯のこと)
空気が澄んでいる。平たい大地の遥か彼方で、山の稜線がくっきり見える。空が高い。
(お母様はお帰りなさい、と言ったわ)
その言葉に少しの違和感も感じないまま、素直に受け入れている自分自身を不思議に思った。
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