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再び森に戻ってきた。夕日が空を赤く染めていた。いつの間にこんなに時間がたっていたのだろう。
「何処へ行くんですか」
森に足を踏み入れようとすると、後ろから村人に声を掛けられた。いつの間に後ろにいたのだろう。村人は笑顔で物腰も柔らかかったが、どうしてこんな人気のないところで僕に声を掛けたのかわからない。
「ちょっと、散歩に」
「もう日が暮れます。危ないですよ」
薄気味の悪い男だ。少しずつ近付いてくる。ぶつかりそうになったので、体をかわすと、彼は僕が行こうとしていた方向で止まって振り返った。ここは通さないとでも言うつもりだろうか。
「別に良いだろう。僕が何処に行こうとあんたには関係ない」
僕は村人を強く押した。彼はグラリと体勢を崩すと、僕の視界から消えた。
思わず「えっ」と声を上げてしまった。その直後、どこかから、重いものが落ちるような音がした。音がした方へ行くと、足が滑って体勢を崩したが、慌てて体勢を整えた。そこは下生えで見えづらくなっていたが、妻を探しに行ったときと同じ様に、ちょっとした崖になっていた。僕が押した反動で、村人は崖の下に落ちてしまったようだった。
慌てて下生えをかき分けて崖の下を見ると、果たして村人はそこにいた。彼は頭から血を流して、虚空を見つめていた。
僕は頭を抱えた。隣には村人の遺体がある。僕の名誉のために言うが、決して見捨てたわけではない。僕が崖下に降りたときには、すでに息をしていなかった。蘇生も意味をなさなかったろう。なぜなら、首が折れていたからだ。
殺人者になってしまった。
いや、彼が勝手に足を滑らせたのだ。僕は関係ない。
嘘だ。僕が押したから、彼は崖から落ちたのだ。
頭の中で何人もの僕がささやきあっている。嵐の日に、タオルケットに包まれて震えているときのような、姿の見えない誰かのささやき声だ。
村人に射していた夕日が姿を隠した。辺りは暗い。
僕は立ち上がった。誰にも見られていない。このままここから去ってしまえば、誰も僕がやったとはわからないだろう。それに、彼の遺体が見つかることはないかもしれない。
泥だらけの手で、再び崖を登る。下生えが顔に当たってくすぐったかった。
手についた泥を払うと、僕は森を奥へ進んだ。ここであったことを忘れて。




