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「あれは何なんですか」
片づけをしてログハウスに戻ると、リビングで僕は預言者に尋ねた。預言者はジロリと僕を睨む。
「あれは負の感情……人間の負の意識の集合体が生んだものじゃ。精霊と呼んでおる」
言いながら、預言者がせき込んだ。向かい合っていた預言者が、ゆらりと体勢を崩した。
「預言者様はお疲れだ。あとにしろ」
体勢を崩した預言者を、ソクラテスが支える。
預言者が片手で口元を抑えながら、ソクラテスを手で制した。
「よい。今が話をする時じゃ。ソクラテス。お前さんも、いつか必ず来るその時を見誤るでないぞ」
ソクラテスが預言者をソファの上にそっと座らせる。
「ソクラテス。そこにいろ」
その場から離れようとしたソクラテスを、預言者が鋭い声で止めた。ソクラテスは一瞬迷うような顔をした後、少し離れた床に座った。
僕はローテーブルを挟んで、預言者と向かい合うようにソファに座った。プラトンがどうして良いかわからないような顔で僕を見ていたので「ここにいてくれ」と頼んだ。
「さて、何から話そうか……いや、話すことは決まっておる。もう、ずっと、このときを待っておった」
「待っていた? 僕が来るのをですか?」
預言者がゆっくりと頷く。
さすが預言者と言うことか。未来が見えているのかも知れない。こういった神秘的なことには懐疑的だが、さすがに、先程見た超常現象的なもの、僕のメンタルは引っ張られていた。
「わしにはもう時間がない」
「預言者様、そんなこと……」
ソクラテスに対して、預言者が再び手で制する。
「よい。わかるのじゃ。わしはもう死ぬ。それは変えられぬ運命。次の預言者はお前さんじゃ。これもまた運命」
ソクラテスが深々と頭を下げる。それを見て、預言者は僕に向き直った。再び激しく咳き込んだ後、彼の唇は血で濡れていた。口を押さえていた手を、預言者はじっと見る。床にしたたり落ちるほどの血が出ていた。
「それで、お前さんに教えておくことは……」
血が喉に絡んでガラガラしていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。話より前に、医者を……村からシモーヌを呼んできましょう」
「馬鹿野郎。預言者様の話を聞け」
ソクラテスが大きな声を出したので、体がびくりと震えた。
「ヒッポカンポスは再びやってくる。ポセイドンを復活させて連れてくる」
「ポセイドン?」
「そうじゃ。海の主。海神ポセイドンじゃ。今は封じておるが……」
預言者が重くたれた瞼を持ち上げ、僕をまっすぐに見る。
「いずれ復活するだろう。そのときは、お前さんが戦うんじゃ」
「僕が?」
「ああ、そうじゃ。それは、ここに流れ着いたお前さんの宿命」
「そんな……それじゃあ、まるで僕がそのためにここに来たみたいじゃないですか」
せっかく、安住の地を求めたのに、まだ僕を利用しようというのか。
預言者がジッと僕を見つめる。先程から、何か言いたげな目をしてみせるのが気になった。
「何ですか」
「いや……それより、ポセイドンは手強い。ヒッポカンポスのように単純ではないからのう」
「でも、封印されているってことは、誰かが以前に倒したってことでしょう」
「倒した、というのは少し違う。倒せずにやむなく封印したのじゃ」
「あなたが?」
尋ねると、意外そうな顔をして、ソクラテスを見る。
「先代じゃ。そのとき、わしはこいつと同じように、先代の助手のような真似をしておった。そのときはお前さんに似た男も一緒にいた」
「僕に似た男?」
預言者が再び咳き込む。
「いよいよ時間がない。ソクラテス、跡継ぎは貴様じゃ。わかっておろうな?」
ソクラテスが頷く。あれだけ悪態をついていたのに、感傷的な表情である。それを見て、預言者が頷いた。
「ようやく、わしの番も終わりじゃ。長かったのう」
しわしわな顔が、ほっとしたように緩む。ソクラテスが、そっと毛布を掛けた。
預言者の咳き込みが徐々に激しくなってきた。ヒュウヒュウと喉が鳴る。僕は人が医者ではないが、この人の命の灯火は、消えかかっているのだと強く感じた。何故か、手を握ってやりたくなる。




