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儀式は預言者から少し離れた広場で行われた。広場は地面が砂の空き地と、池で出来ていた。池には蓮の葉が無数に浮いており、何処までが池なのかわからないくらい広かった。
「落ちるなよ。死ぬぞ」
プラトンが小声で僕に言う。預言者に会ってから、ソクラテスは静かだった。預言者が近くにいるときは、いつのものような憎まれ口は影を潜め、ずっと預言者の方を気にしているようだった。
預言者とソクラテスが地面に大仰な魔法陣のようなものを描き、預言者の指示通りにいくつかの箱を置いた。箱は何の素材で出来ているのかわからない。マットな質感の立方体だった。色は赤黒く生臭かった。先程は触れただけで気を失ったが、今は大丈夫だった。
魔法陣の中心に火を焚き、その周辺に箱を置いてゆく。
「この箱はなんなんだ」
「わからん……わからんが、良いものではなさそうだ」
僕とプラトンが小声で話している横で、ソクラテスが嘔吐した。
「これ、場を汚すでない」
預言者が言うと、ソクラテスは虫が這うように広場から出ていった。
「あれが後継者だなんて、頭が痛い問題じゃな」
預言者が深いため息をついた。
「さて、準備は良いかのう」
僕たちの答えを待つ前に、預言者は箱を一つ一つ火の中に投げ入れてゆく。箱は、熱を浴びると形を保てなくなり、ドロリと溶けて液体になった。完全に火の中に溶けるとき、赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえた。暗闇の中で見た女と赤ん坊を思い出す。いよいよ、あの箱が何なのか気になる。
預言者は玉串を振ると、何某かの祝詞を上げた。先程、ソクラテスが呟いていたものに似ている。
預言者の祝詞は徐々にヒートアップしてくる。それに追従するように、火は大きくなってゆく。
「見ろ」
池の水が気泡を上げ始めた。始めは気にもならない程度だったが、徐々に気泡は激しさを増して行き、まるで池の水がすべて蒸発してしまうみたいに苛烈に水泡が踊る。ひときわ激しさを増したとこが盛り上がり、水は馬の半身を象った。普通の馬の二回り以上も大きな体だった。
「貴様が呼んだのか」
体表面の産毛が震えるような声だった。一体どこから聞こえてくるのかわからないが、これがヒッポカンポスの声であるということだけは、この場にいる全員が理解した。
「そうじゃ。そこの若者の女房を誘拐したじゃろ。返しておくれ」
預言者は少しもたじろがずに言った。
「ならぬ」
ヒッポカンポスが、前足で池の水を思い切り踏むと、水が預言者に降りかかった。
預言者が水をかぶる直前、大きな植物の葉が彼を守った。どこからそんなものが出現したのかと思ったが、その葉を支えていたのは、ソクラテスだった。ソクラテスは預言者に水が跳ねないように、丁寧に水を横に散らすと、預言者の後ろにピタリと張り付いた。
預言者はソクラテスを一瞥もしなかった。
「信頼してるってことか」
僕の言葉に、プラトンが頷く。
「ソクラテスはああ見えて、自分の役目をわかっているからな」
彼はこのわけのわからない立場の後を継ぐことがわかっているから、村では捨て鉢のような態度をとっていたのだろうか。
「どうしても駄目かのう」
預言者がだだをこねる子供のように言う。それに対して、ヒッポカンポスは反応を示さない。
「用がそれだけならば帰らせてもらう」
「待っ……」
交渉が決裂しそうに見えて、僕は慌ててそこに割って入ろうとしたが、プラトンの強い力で口を塞がれた。
「邪魔したら駄目だ」
さっきまで、青い顔で震えていたのに、抜け出せないほど強い力で僕を拘束する。ソクラテスがこちらを睨んでいるのが見えた。
「お前さんは帰れんよ」
預言者は茶でも飲み交わしているように、のんびりした口調で言った。ヒッポカンポスがあと数歩足を前に出せば踏み潰されてしまいそうな、小さい老人なのに、彼はどうしてそこまで強気になれるのか不思議だった。
「戯れ言を」
ヒッポカンポスの足下で、再び気泡が発生する。周りの空気がビリビリと震えた。何か、目に見えない衝撃波のようなものが場の空気を荒々しくかき混ぜる。
足下の気泡は激しいままだが、ヒッポカンポスの体は、その中へ沈もうとしなかった。
「どうしたことだ。貴様、何をした」
ヒッポカンポスが言葉に怒気を含んだ。
預言者はおかしそうに笑う。あの人を馬鹿にしたような笑い方は、ソクラテスに似ていた。
「お前さんを呼び出すのに、どれだけの贄を使ったと思う?」
ニタリと邪悪な笑みを、貼り付け、預言者はヒッポカンポスを見上げた。
この二人の間に、どんな力が拮抗しているのかよくわからなかったが、それでも、僕には踏み込めない世界なのだと言うことだけはわかった。
預言者は贄と言った。あの箱は、何かの呪詛的なものなのだろうか。火の中から聞こえた悲鳴や、あの幻覚を思い出す。どうみても、良くはない力だろう。
「贄……私を縛ったのか」
ヒッポカンポスの足下の、気泡だと思っていたものは、よく見ると無数の赤ん坊の形をしていた。それらがヒッポカンポスの体を縛っている。
急にヒッポカンポスが呻いた。目を細め、口吻をゆがめ、歯の間からよだれを垂らした。
何か、キラキラしたものが跳ねた。よく見ようと思って目を細めたとき、何かが飛んできて足下の地面に刺さった。鱗だった。
神話の通りなら、ヒッポカンポスの下半身は魚である。あの気泡の赤ん坊たちが、ヒッポカンポスの下半身から鱗を剥いでいるのだった。
「貴様……何と言う真似を」
先程と違って、明らかに余裕のない声だった。噛みしめた歯の間からボタボタとよだれが垂れる。見事なたてがみが、逆立ち小刻みに震えていた。
「今回の贄は水子の詰め合わせじゃ。さあ、久しぶりのオモチャじゃ。好きなだけ遊ぶがよい」
預言者の狂ったような笑い声に呼応するように、ヒッポカンポスは水の中にめちゃくちゃに前足を突き刺し、尾びれ背びれで気泡を叩いた。しかし、形が崩れては再び戻ってしまう水子は、潰されるたびに別の箇所に取り付き、ヒッポカンポスの体を引き裂いて行く。精霊であるヒッポカンポスの体からは流血しなかったが、その体は徐々に質量を失っていった。
「ポセイドンがいれば、こんな稚拙な罠には引っかからなかっただろう」
ポセイドンは海神である。神話によると、ヒッポカンポスというのは、元々はポセイドンの乗り物であったのだ。しかし、今のヒッポカンポスには、ポセイドンの陰さえ見えない。
ヒッポカンポスが悔しそうに嘶いた。ここからでも感じるほど、荒々しい鼻息が熱い。
「人間、覚えていろ」
ヒッポカンポスが燃えそうなほど憎しみのこもった目を、僕たちに向ける。
「貴様らの顔は覚えた」
「負け惜しみは家に帰ってからやってはどうだ。わしはもう後先短い。早いところポセイドンに泣きつきに行くんじゃなあ」
何がそんなにおかしいのかわからないが、預言者は大笑いする。
ヒッポカンポスは一度、大きく震えた。次の瞬間、霧散した。
「水子たち。もうお帰り」
預言者が池の中へ優しく言う。気泡が大きく膨れ上がり、水泡となってはじけながら空へ飛んでいった。それに向かって、預言者は手を合わせていた。




