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海だ。真っ暗な海だ。
どこまで泳いでも、何も見えない。
妻が助けを呼ぶ声が聞こえる。
まだ、彼女は死んでいない。確信していた。僕と妻とは強い絆で結ばれているのだ。わからないことなんて何もない。
すぐに助け出してやるぞ――。
「今すぐ、村の若い男を集めてください。ヒッポカンポスと戦って妻を取り戻さなくちゃ」
プラトンに支えられながら村に帰ってきた僕は、すぐに村長に直談判した。村長は僕の話を聞いているのかいないのか、テーブルに腰掛けてお茶をすすっている。しびれを切らした僕が、テーブルを思い切り殴ると、村長は湯呑を倒してしまった。
「暴力はやめて」
同席していたシモーヌが僕を咎めた。湯呑を起こすと「火傷してませんか?」と村長に声を掛けて、テーブルを拭いた。まるで介護の現場のようだ。このジジイ、非常事態なのがわかっているのか。僕がこんなに頼んでいるのに、まるでラジオでも聞いているみたいに無反応だ。
「クソっ」
再び机を叩く。
「止めてって言ってるでしょ。それ以上したら追い出すわよ」
シモーヌが僕に食って掛かる。プラトンが僕と彼女との間に割って入って仲裁した。
「落ち着けよ、シモーヌ。こいつも悪気があるわけじゃない。大切な人が攫われたんだ。感情的にもなるだろ。なあ?」
同意を求められたが、こんな風に肩を持たれるのは情けなくて、僕は彼らから顔を背けた。
「村の預言者に会ってくると良い」
それまで黙っていた村長が、突然言った。
「預言者? そんな悠長なことを言っている暇はないんですよ。今すぐ助けに行かないと」
「預言者は山にいる」
僕の話を全く聞いていないのかこのジジイは。ゲームのNPCのように、言いたいことしか言わない。
「預言者は西の山だ」
村長が脇に置いてあった杖で西を示した。天使の村とは反対方向だ。
「西の山は危ない。俺も行こう」
プラトンが真剣な顔で僕を見る。
「そんなに危ないのか? こんなに平和な島なのに」
プラトンがシモーヌを顔を見合わせる。
「その……なんていうか、危ないことは危ないんだけど……」
歯切れが悪い。シモーヌがプラトンの尻を叩いた。
「うん、まあ、そうだな。知っている人間がいれば、なんてことはないただの山だ。ちょっと、肉食の植物とかがあるっていうだけだ。脅かしてすまない」
プラトンがバツが悪そうに、硬そうな髪の毛がガシガシとかき回した。
「いや、良いんだ。それより、僕が山に行く流れみたいになっているけど、そうじゃない。僕はそんなところに行っている暇はないし、何だってこんなときに預言者なんかに会わなくちゃいけないんだ。占いでもしてもらうのか?」
イライラが爆発してしまった。プラトンが目の前に立っていなかったら、椅子をけとばして机をひっくり返しているところだ。
「そうじゃないの。ヒッポカンポスがどこにいるか、私達にはわからないのよ。だから、預言者様に視てもらわないといけないの」
僕は唸った。シモーヌが言うことは正しい。僕はあの入江に行けば良いものだと思っていた。あの入江の近くの海に潜ればいるのだと。どうも、彼らの話を聞いているとそうではないらしい。ヒッポカンポスというのは生き物ではなくて精霊のようなもので、何処にでもいるし、何処にもいないのだという。そんな哲学的な話をされて、僕も怒りの矛先を彼らに向けるわけにはゆかなかった。
「じゃあ、まだ儀式を済ませていない人間を海に入れればいいじゃないか」
シモーヌが僕の頬を叩いた。
「あなたのために、他人を犠牲にしろというの!? そんなこと、この私が認めません」
この女、本気で叩きやがった。一瞬、脳が揺れて尻餅をついてしまった。叩かれた頬がジンジンと痛んだ。
「シモーヌ。やめろ」
プラトンがシモーヌの腕を掴んだ。
「痛いわ。やめて」
プラトンとシモーヌが視線で火花を散らす。
僕は立ち上がると、尻をパンパンと払った。
「わかった。必要なら今すぐ行こう。一秒でも早く」
僕は村長の家を出た。プラトンが僕についてくる。
「預言者の居場所は知っているのか?」
尋ねると、プラントンはヒゲを撫でながらちょっと考える仕草をした。
「うん、まあ知ってるっちゃあ知ってるかな」
「何だよ、はっきりしないな」
「あの人はなあ。まあ、行けばわかるさ」




