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西の山は、天使の村のある山と違って、おかしなトラップもないし、村のすぐ裏手から入ることが出来た。それに、歩きやすいように整備されていた。ハイキングのような気分で行けそうだ。奴らがあんまり危険だなんていうものだから、もっと物々しい鬱蒼とした樹海を想像していた。
「どんなもんかと思ってたが、護衛なんているのかね」
妻のことがなければ思わず口笛くらい吹きたくなる陽気だった。
「油断するなよ」
プラトンが落ち着かない様子で、キョロキョロしている。でかい図体をして、滑稽だった。
「おーい」
山を登り始めてすぐ、背後から声が聞こえた。聞き覚えのある声だったので、僕とプラトンは顔を見合わせた。
「待てって」
ぜえぜえと肩で息をしながら追ってきたのは、僕たちの想像通りソクラテスだった。
「何しに来たんだよ」
プラトンがソクラテスの前に立ちはだかる。
「何って……ごめ、ちょっと息整えていい?」
ソクラテスはプラトンとは対照的に細長い脚に細長い手をついて、息を整えようとした。少し待っても、全然彼の呼吸は整わないので、僕は先に行こうとした。
「ちょ、ちょっと待てって。お前らそれでも人間の血が流れてるのかよ」
ソクラテスが這いつくばって僕の足を掴む。まるでゾンビだ。
「あんたに言われる筋合いはない。大体、なんであんたのことを待たなくちゃいけないんだ。こうしてる間にも、妻が危険な目にあっているんだぞ」
ソクラテスの腕を蹴り飛ばそうとしたら、その前に腕を引っ込められた。
「おい、今回はマジなんだ。遊ぶなら他所でやってくれ」
プラトンがソクラテスの体を起こしてやる。プラトンは筋骨隆々でソクラテスは骨と皮だけみたいなひょろ長い体型だから、大人が子供を起こしてやるみたいにヒョイと持ち上げられた。
ようやく息が整ったのか、ソクラテスは僕に向かって真っ直ぐ指を差した。
「だあれが遊んでるってえの。俺はなあ、お前のことを助けてやりに来たんだぜえ」
「せっかくだけど、あんたの助けなんて必要ないよ」
もう相手をしていられない。早く預言者だか祈祷師だかに会って、妻の居場所を教えてもらわねばならない。そう思って一歩踏み出すと、突然、耳の近くでヒュッと風切り音がした。
なんだ――振り返るより早く、僕の体は何かに絡め取られた。
「ほら、いわんこっちゃない」
ソクラテスが嬉しそうに僕に向かって唾を吐く。
僕は巨大な花の様なものの触手に掴まっていた。首しか動かないのでよく見えないが、僕の体がゆうに三人は入りそうな位の大きな花だった。花冠を開く姿はクジラが口を開けている様で、凶暴な肉食獣に見えた。よく見ると、歩道の両脇には、この食肉植物が等間隔に植えられていた。間抜けな動物が通りかかったときに、こうやって姿を表すのだろう。僕は奴らがその姿を見せないので、油断していたのだ。プラトンの警戒は正しかったのだ。それを、僕は馬鹿にして、なんと愚かしいことだろうか。
「助けてくれ」
「え? 何だって?」
ソクラテスが楽しそうにこちらに耳を向ける。
「プラトン、頼む」
プラトンは顔を真っ青にして助けに来たが、すぐに他の触手に捕らえられてしまった。あんなムキムキなくせに、まるで無力だったことに腹がたった。
「ほら、正義の味方がここにいるぜえ」
「頼む〜ソクラテス〜」
プラトンが情けない声でソクラテスを呼ぶ。ソクラテスは愉快そうに笑っている。
「そっちの男前は? 恐ろしくて声も出ないか?」
「早く助けてくれよ」
「おいおい、兄弟。それは人にものを頼む態度じゃあねえなあ」
「あんたの兄弟になった覚えはない」
「あっそ。じゃあ、そこで死ね。てめえの女房とやらも、死体が浜辺に打ち上がったら犯して動物に喰わせてやるよ」
ソクラテスが腰を動かしながら言う。あまりの怒りにこめかみの血管が切れそうだ。
「貴様、殺してやる」
腕がもげそうなほどもがくが、少しも触手は緩まなかった。そもそも、何本もある触手に抑え込まれていたら、人間の力では太刀打ちできなそうだ。
「早く助けを呼んだほうが良いと思うけどなあ」
「ソクラテス。すまない、頼むから助けてくれ」
プラトンがわめく。ソクラテスはプラトンに指を突きつけると睨んだ。
「良いか、プラトン。今はお前と話してるんじゃあない。そっちの間抜けと話してるんだ。ちょっと黙ってろや」
「誰が間抜けだ。あんたは僕をいつも間抜けと呼ぶが、それはあんただ。村長の息子だからって村の誰からも甘やかされて、裸の王様を気取っているだけだ」
ソクラテスの顔面がみるみる赤くなってゆく。
「村人はあんたにおもねるかも知れないが、残念ながら僕はただの漂着者だ。あんたに気に入られる必要はないんだよ」
「兄弟……その辺に……」
隣から、弱々しい声でプラトンがたしなめる。
「プラトン、あんたもあんただ。そんなでかい図体して、こんな弱そうなやつに媚びるなんて、恥ずかしくないのか」
「やめろよ」
ソクラテスが近づいてきて、僕の顔を殴る。植物はソクラテスを避けるようにして、僕を放した。
「何するんだ」
僕は激高して叫んだ。体が自由になったことで、ソクラテスの襟首をつかむ。
「助けてやったのに」
怒りで気付いていなかったが、植物は完全に僕を解放していた。
「どうして……」
「この植物はソクラテスの言うことをきくんだ」
まだ捕捉されたままのプラトンが言う。
「何だって?」
「これは、ソクラテスの叔父さん、村長が言ってた預言者様が作った植物なんだ。だから、村長の血筋の者に従うようになってる」
「村長の血筋?」
「預言者様は、村長の双子の兄弟だ」
まるでファンタジーだ。いや、天使がいる世界でファンタジーも何もないか。だから、ソクラテスは植物に攻撃されなかったのだ。
「なんで僕を助けた」
ソクラテスの襟を投げるようにして離す。助けられたからと言って、ソクラテスへの怒りが収まったわけではない。
「別に助けようとしたんじゃねえ。てめえがプラトンの悪口を言うから、手が出ちまっただけだ」
ソクラテスは決まりが悪そうにつばを吐いた。
「おい、じっとしとけよ。役立たず」
そう言うと、ソクラテスはプラトンが絡め取られている触手を一撫でした。触手は筋肉が弛緩したように、柔らかくなると、プラトンを地面に落とした。体重が重いせいか、地面と衝突するときに鈍い音がして、プラトンが呻いた。
「ありがとう、ソクラテス」
プラトンが礼を言うが、ソクラテスは顔をそらした。
確かに、こんな植物を自在に操れるのだとしたら、ソクラテスを甘やかしてしまう気持ちもわかる。彼の意向一つで、これらが襲ってくるのだ。
「ということは、僕が襲われたのはあんたのせいなのか。あんたが命令したのか?」
ソクラテスは答えなかった。
「まあまあ。助かったんだから良いじゃないか。ソクラテスについてきてもらえば、奴らは襲ってこない。預言者様のところまで、一緒に行こう。な、ソクラテス」
プラトンがソクラテスの肩を叩いた。ソクラテスは鬱陶しそうに手で払う。
「まあ、一緒に行ってやる。ありがたく思えよ、間抜け共」
ソクラテスはまた、つばを吐いた。
納得いかないが、確かに、彼がいれば危険が減るというなら仕方ない。あの植物に捕まった時の恐怖は、もう二度と味わいたくない。
ソクラテスは僕を助けたのではないと言うが、どうして、突然ソクラテスが僕を殴ったのかわからなかった。何か、彼の気に障ることを言ったからだろうか。プラトンの悪口を言うから、と彼は言うが、ソクラテスだってプラトンのことを役立たずと罵っていたのに。
「おい、いつまでボウッとしてるんだ間抜け。早く行くぞ。俺だって、行きたくて行くわけじゃねえんだ」
ソクラテスが先頭に立って歩いて行く。
「多分、村長に行けって言われたんだよ」
後ろから、こっそりプラトンが耳打ちしてきた。
「村長には逆らえないからね、あいつ」
面白そうに笑うプラトンの顔は、いたずらっぽい子供のようだった。
「二人はずっと一緒に育ったのか?」
訊いてから、馬鹿な質問だと思った。こんな狭い村の中で、どうして別々に育つことがあるというのだ。
「あいつとは同い年だからね」
「えっ」
思わず二人の間で何度も視線を行き来させてしまった。
「プラトンはいくつなんだ」
「来年30歳になる」
自分より年下であることに驚いてしまった。体格の良さと良い、ヒゲの濃さと良い、もっと年寄りだと思っていた。
「同い年の子供は少ないんだ。だから、何をするにしても、いつもソクラテスと一緒だった。儀式だって一緒に受けたよ」
楽しそうに話すプラトンを見ると、どうしてソクラテスがあんなに意地悪をするのか不思議だった。
「ああ見えて、根は良いやつなんだ」
ソクラテスの根が良いとは、とても思えなかった。




