四一年前
それは四一年前の話。
ハセ・サトリが存命だった頃の物語。
+++
テルツァは心配していることがあった。
ハセ・サトリの件だ。
最近、彼女は体調を崩しがちで、テルツァの訓練中も寝込んでいることが多い。
それでも、テルツァは呪詛蒐集について学ぶために彼女の元へ通っている。
正直、サトリ様のことは怖い。
だが、まだ自己研鑽できるレベルにないため、テルツァは教わるしか選択肢はない。
ただ、サトリ様のことは別に嫌いではなかった。
怖いけど、嫌いではない。
怖ければ嫌いになるのが普通だが、微妙に矛盾した気持ち。だから、ハセ・サトリが体調を崩している状態も心から心配していた。
ハセ・サトリは人間種である。
テルツァは面識がないが、英雄『案山子』は獣人種であったらしい。
サトリ様と英雄にどういう繋がりがあったのかはテルツァには想像できない。
サトリ様から英雄についての話は聞けなかったからだ。
何となく言いたくないということは伝わっていたし、それは嫌だからではなく、大切だからこそ伝えたくないのだろうと、そう感じていた。
不愛想だし、テルツァに優しくしてくれない。
それは怖がるには十分な理由かもしれない。
ただ、こちらに真剣に向き合っていることは事実だと感じていた。
+++
「人殺しは幸せになれないと思う?」
ハセ・サトリはまだ三十歳くらいのはずだけど、とてもそうは見えないほど老けて見える。
それは病のために極端に痩せているからだ。
美人や不細工という容姿の話ではない。
呪詛蒐集による弊害か、太ることがまるでできず、枯れた老人のような気配を発していた。
肌艶のくすみや髪の細さなど年齢不相応に弱っている。
自分の母親とあまり年齢は大差ないはずなのに……という、その『老い』はテルツァを怯えさせる理由のひとつだった。
実際、今もサトリ様の自室で、彼女はベッドから上体を起こした状態だ。
修行の合間に淡々と会話をしている。
テルツァはなんと答えて良いか分からず、口ごもった。
「人殺し……い、いえ、そんなことはないと思います」
「本音は?」
「わ、分からないです」
本音が分からないのか、本当に何も分からないのか、テルツァにはそれさえも分からない。
サトリ様は珍しく少し笑った。
口の端っこがちょっと上向く程度の笑顔だったが、紛れもない笑顔。
あまりにも珍しくて、嬉しいとかいう感情よりもテルツァは慌てる。
サトリ様は元の平板な様子に戻り、会話を続ける。
「これはナナセさんが言ったことだ」
「そうなんですか」
「ああ、私は幸運にも人を殺さずとも生きられたから」
はい、とテルツァは頷いたが、正直、疑っていた。
口ではこう言っているが、サトリ様の能力であれば、人を殺すことも不可能ではないと知っていた。
その能力をまともに使わない、そんなことが可能なのか疑問だったからだ。
誰かに強要されたり、汚い仕事を人知れずこなしているのではないか、と考えていた。
それと、初めて英雄『案山子』ハセ・ナナセの話が出てビックリ動転していることもあった。まともに思考が回らない。
「ナナセさんは英雄だったんだ」
「はい」
そのくらい知っています、とは言えなかった。
そんな常識を説く意味があるのかもしれなくて、頷いて応じることしかできなかったからだ。
「英雄として暗黒大陸で活躍したから恩赦が下りた」
「おんしゃ?」
「罪が許されるという意味だ。ナナセさんは元々伝説的な殺し屋だった。『大魔法つかい』と『士』、『予言者』が手を組んで捕まえなかったら、そもそも、あの人は英雄にはならなかっただろう」
「はい」
「でも、私もナナセさんの全盛期は知らないんだよ」
「そう、なんですか」
「ああ。やっぱり、暗黒大陸で戦っていた頃が一番強かったらしい。もう三十年以上昔だからね。私が物心ついた頃には世界は救われていたし、能力も下り坂だった」
「はい」
「で、罪が許されたナナセさんは、その時に得た報奨を使って、別人に成りすまして暮らした」
「そうなんですか」
テルツァは曖昧に頷く。どうして今、『案山子』ハセ・ナナセの話をし始めたのか、内容と同じくらいその理由が気になっていた。
「でも、それは十年に満たない時間しか続かなかった」
「……どうしてですか」
「子どもができたんだよ。その出産の際に、いろいろあってバレたんだ」
「え、ハセ・ナナセの血縁がいるんですか」
「いや、殺されたらしい。子どもが生まれたばかりの時にな」
「酷い、一体、誰に……?」
「父親」
「え?」
「自分の娘を父親が殺した。つまり、ナナセさんの旦那の手で絞殺されてしまったらしい」
テルツァは耳を疑った。
どうして結婚してできた子どもを殺さねばならなかったのか、その理由が理解できなかった。
テルツァは目を丸くしながら呟く。
「え、どうして……?」
「その旦那の両親を、ナナセさんが殺していたらしい。ずっと昔にね」
「……そ、それは……」
「で、その旦那は復讐のために娘を殺し、その旦那をナナセさんは殺した」
「…………」
テルツァはその凄惨な過去に何も言えなかった。
「ナナセさんは自暴自棄になって、殺しの仕事を再開した。いや、再開しようとした」
「じゃあ、再開できなかったんですか」
「ああ。『武道家』が命を懸けて止めたんだ。結果、『案山子』は『武道家』バジーリオ・スキーラを殺したんだが、そこで奇跡が起きた」
「奇跡?」
「ああ、死んだと思った『武道家』は別人となって甦ったんだ。それが最初の転生だったらしい。そして、『武道家』は『案山子』の天敵と成った」
「……? 天性?」
「気にしなくて良い。覚えておく必要もない。『武道家』も英雄らしく超人だったというだけだから。それでナナセさんは『武道家』に止められ、諭された」
「何ですか?」
「『弟子を取れ』と」
「それは、どうしてですか?」
「私にも理屈は分からない。ただ、私がナナセさんに出会ったのはその頃だ」
「では、その時に弟子に……?」
「ああ、今のテルツァと同い年くらいだった。教わる中で、ナナセさんは言ったんだ。『人殺しは幸せになれないと思う?』。彼女はそう問いかけてきた」
「はい」
「テルツァは私がその時になんて答えたと思う?」
「分かりません」
「考えなさい」
「……幸せになれる、ですか」
「どうしてそう思った?」
「英雄『案山子』を否定するのは怖いからです」
サトリ様は目を丸くする。
そして、フフッと少しだけ笑った。
「正直だね。でも、不正解。私は幸せになれないって答えた」
「ど、どうして、ですか……?」
「人殺しだったから子供を失った。それで不幸になったんだから――結果を見てそう答えた」
「…………」
「ナナセさんは悲しそうでも、怒るでもなく、『そっか』って呟いただけだった」
「そう、なんですね」
「私は更に言った。『幸せになれなくても、ナナセさんの力は継承するから。ずっと伝えるから』って。
覚えて貰えることと幸せは似ていると思ったから、それでフォローした気分だった」
「はい」
「でも、今考えると傲慢というか、なかなか難しいな。私はナナセさんに比べると弱いが、テルツァは更に弱くなりそうだ。これで『案山子』が続いているのかは疑問がある」
「その、すみません……」
「気にしなくて良い。もしかしたら、世界が平和になり、呪詛濃度が下がっていて、それはどうしようもないことかもしれないから」
ハセ・サトリはボソッと最後に言う。
「テルツァ、あんたが生きやすいように手伝えたら良かったけど、なかなかそうもいかないかもしれない」
「そんなこと……」
「多分私はもう長くないから、あんたが成長するまで手伝えないと思う」
「…………」
「それに異端の力だから捨てたくなるかもしれない。特別だし、使い方次第では便利だが――下手をすると命に関わる」
「…………」
「その場合は捨てても良いから」
「え、でも、ずっと伝えるって」
「それが叶わないのも、人殺しが不幸になる話のオチとしては相応しいじゃないか」
「……はい……」
「でも、私はあの世に行っても忘れないと思う。英雄『案山子』ハセ・ナナセは最悪の人殺しだったけど、私にとっては恩人だから」
「…………」
「だからお願い。全てを捨てても良いけど、この時間を少しだけ覚えておいて欲しい」
+++
ここで、テルツァもサトリ様のことを恩人だと伝えてあげれば良かったとずっと先になって思った。
だが、その時は「そうなんですね」と同意することしかできなかった。
ただ、テルツァはその思い出話をずっと覚えていた。
四十一年前。
ハセ・サトリが亡くなる一年前の出来事である。




