最低の説得力
ナタリアとルチアは駆け引きを行っていた。
ナタリアの立場は明白だ。
マクシムの妻としての立場だ。
マクシムがルチアと浮気したと考え、それを許すことで主導権を握ろうとしたのだ。
だから、マクシムが床に座っていても、ルチアはソファーに座らせた。
つまり、ルチアは被害者なのだ。マクシムに手を出されてしまった幼い少女。かわいそう。
マクシムが本当に加害者であるかどうかは重要ではない。被害者として扱うことで、マクシムとルチアを対等と扱わなかったのだ。
ナタリアはアメデオ・サバトから暗黒大陸の過酷さを少しだけ聞いている。
それだけ過酷な状況、自分のことを慕う美しい少女、我慢できずに手を出したとしてもおかしくないという答えに至った。長年連れ添った夫婦のような雰囲気だったからそう考えるのも不思議ではない。
別にマクシムを許したわけではない。
自分を守られない環境下で、人道を説いても通用しないことを理解するだけの理解があったというだけ。納得したわけではない。
実際、かなりナタリアは腹を立てていた――誰の子どもを産んだというのか! があったので、反省させようと考えていた。
それに対して、ルチアの立場はもう少し手が込んでいる。
彼女は自分の手の内を隠したままナタリアの態度を見ることにしていた。
高い可能性は見えていたが、いくつか重要なポイントを押さえる必要があったからだ。
その第一手が純愛。
性愛で手を出したと考えていたナタリアに対する一撃としては効果的だった。
+++
マクシムはまるで何が起きているのか分からなかった。
ナタリアがショックを受けている理由が理解できなかったのだ。
手を出していないのだから怒らない方が正しいような気がした。
しかし、ナタリアは明らかに顔色を失い、口元が微かに震えている。
「ナタリア……?」
「マクシム、本当ですか? 本当にルチアちゃんには手を出していないのですか?」
「そりゃね。まだルチアは子どもだし、いや、そもそも、違うか。えーっと、何から話せば良いんだろうね」
「正直、あまり聞きたくはありませんわ」
ナタリアは力の抜けた表情で、そう小さく笑った。
「いや、本当に暗黒大陸での話もしたいんだけど、いや、ん-、それよりもこれからの話をした方が良いのかな」
マクシムとしてはこれから起きる戦争の話にまでつなげたかった。
備える必要があったからだ。
ナタリアとも共有は急がねばならない。
「っ!」
だが、その瞬間、ナタリアは悲鳴をあげるような、それをどうにか吞み込むような間があった。
「ナタリア?」
「き、聞きたくありませんわ……」
「いや、大切なことなんだよね。いろいろ準備もあるからさ」
「聞きたくありませんわ!」
ナタリアの眼に涙が浮かぶ。
「ワタクシはマクシムのことを愛していますわ! 一緒に子どもを育てていくと思っていましたのに……絶対に別れたくありませんわ!」
別れる? どうしてそういう発想に?
条件はあるが、別に重婚は禁止されていないし、マクシムとしてはそんなつもり毛頭ない。
反発はあると思っていたが、理解してもらえるように努力するつもりだった。
いや、そうか。
ナタリアは知らない。
本来ならマクシムと結婚していたのはルチアだし、ナタリアと出会うのは世界終焉の直前だった。
本来の歴史を知る前はマクシムもそういうつもりはなかったのだ。
本来の歴史という情報の有無――それを知らなければ、決して理解できない。
本来の歴史という言い方が正しいかどうかは分からないが、『予言者』とルチアが介入しなければ高確率で発生していた未来を伝える必要があった。
ただ、その前にナタリアを説得する必要があった。
「違う、違うよ。そんなつもりないから。全然別れるなんて思っていないから」
「……では、どうしてです?」
「どうしてって、いや、ん-、えっと、ナタリアは僕がルチアに手を出していないのがおかしいって思うんだよね。いや、別におかしくないでしょ。まだルチアは子どもだよ」
「そんなこと関係ありません。暗黒大陸はそういう人倫が通用する環境ではないはずですもの。高ストレス環境で二人きり、何が起きてもおかしくありませんわ」
ナタリアはどれだけあの大陸を過大評価しているのか。いや、勇者たちが多く散り、英雄も傷つきながら戦った世界だから別におかしくはないか。
実際に体験したマクシムとしては「危険だし、命の危機を感じることはあったが、さすがに過大評価」である。
実際、数カ月間をマクシムたちは暗黒大陸を生きぬいて、『大魔王ゴッズ』の湖、『幻想境』まで辿りつけたのだ。
そこまでの世界ではない。
――だが、この点をマクシムは勘違いしていた。
彼が安全に旅をできたのはルチアの能力のおかげだ。
彼女の『夢界』がいかに究極の能力かを理解していないからだった。
完全なる予知能力者であるルチア・ゾフがいたからこそなのに、それを理解していない。
だから、そこまで危険な世界ではないと評価を下してしまっていた。
そこに生まれた温度差。
この場にいたルチアだけは気づいていたが、彼女は口を挟まない。
場の流れを予知していたこともあるが、マクシムの決断を待っていたからだ。
「本当に違うから。僕は大丈夫だったからさ」
「それにしては二人の仲が……いえ、これを認めるのは許せませんわ」
「分かった。そこまで疑うなら正直に言うよ」
マクシムは腹をくくった。
ただ、それをルチアに聞かれるのはイヤというか、聞かせたくなかった。ナタリアにも言いたくないが、説得のために仕方なかった。
「ルチア、ちょっと出ていてくれない?」
「ルチアはマクシムが何を言うのか知っているのです」
「いや、知っているかどうかというか、あんまり聞かせたくないんだよね……お願いだからさ」
「ルチアもあんまり聞きたくないので出て行くのです」
ルチアはさっさと部屋から出ていった。最後マクシムが見た彼女の表情は呆れたものに近かった。辛い。
ナタリアは流れがよく理解できないのか、何度も目を瞬かせている。
いや、それは涙が零れ落ちそうなのを堪えているのかもしれない。
愛する妻にそんな表情をさせたいわけではなかった。
それはまちがいなくマクシムの罪であった。
だとしたら、罰は――正直に打ち明けることだろう。
「僕がルチアに手を出さなかったのは、まだあの子が子どもだったからってのはあるんだけど、それ以外にも一つ理由というか、なんというか、まぁあるんだよね」
「歯切れが悪いですわ。あまり知りたくはないのですが、ワタクシを納得させたいのでしたらハッキリおっしゃってください」
「これ、分かる?」
マクシムは一葉の写真をおずおずと差し出す。
床に座っているので、ほとんど土下座のような体勢になった。
ナタリアは不思議そうに言う。
「これは、ワタクシの写真ですわ」
それはナタリアが笑っている写真だった。
何気ない写真だ。服装も普段着だし、マクシムが撮った写真だから構図も彼女の全身が写っているだけ。
このサバトの屋敷の前で照れたように笑っている。まだお腹も目立たない。たしか、妊娠が発覚した直後に撮らせてもらった一葉。
「ですが、ボロボロですわね」
「僕が暗黒大陸で常に身につけていたからね」
肌身離さず。
写真自体は包装して汚れないようにしていたが、ずっと手元に置いていたのでやはりボロボロになっている。
それから、ナタリアは理解の色を示す。
「ワタクシの顔を忘れないようにしたのですか?」
「そんなわけないでしょ。忘れるわけがないんだから。それにそれでどうして手を出さなかった理由になるのさ」
「ワタクシに対する罪悪感と言いますか、ワタクシの写真で自分を引き締めていた。手を出さないように戒めていたからということですわ」
「いや、ルチアがいるなんて思っていなかったから違うよ。この写真を撮らせてもらったのは君のことを想うためだよ」
だが、それだけでは説得力がないだろう。
最低かもしれないが、それを明かすのは結構勇気が必要だった。一度会話が途切れたのは、唾液を飲み込んだため。覚悟を決めた。
「僕、この写真で思い出していたんだよね」
「何をです?」
「君との性行為を」
「……は?」
ナタリアが完全に硬直した。完全に止まった。
混乱しているのか目が右往左往している。
言い訳のようにマクシムは言葉を続ける。いや、言い訳というか、開き直るしかなかった。
「僕、ナタリアとの経験しかないんだから仕方ないだろ」
「それは、つまり……?」徐々に彼女の顔が赤面してきた。理解したのだろう。
マクシムは最低の説得の台詞を決めた。
「うん、僕、ナタリアの写真を見て、自己処理していたんだよ」




