壱 ーー 遠のく影 ーー (8)
苦手なことに目を向けてしまうのは、なぜなんでしょう。それは、ただの好奇心が突き動かしているんだろうか。それを指摘されると強がってしまうのは、自分が弱いと思われるのが恥ずかしいから? それでも、苦手なことや嫌いなことをしてしまうことに意味はあるのだろうか?
8
結局、若林が帰るまで学は屋上に意味なく居座ってしまった。彼女に対して芽生えていた突っかかりが理解できたのは、家に帰り、さらに時間がすぎた夜だった。
ーー 本当にそうなのかな。
「なんで、あんなことを言ったんだろう」
今になって、聞こえ難くかった台詞が脳裏に蘇り、真意が気になった。
次の日。本音としては、朝のうちに若林に確かめたかったのだが、友達と喋っている輪にどうしても入れないでいた。
結局、放課後まで話すきっかけがなく、聞かないでおこうかとも考えつつも、屋上に学は足を動かしていた。
扉を開け、今日も生暖かい風を頬に受けながら、眼前に広がる屋上を見渡してみる。しかし、若林の姿はなかった。
「ーーま、当然だよな」
若林がいるのを期待していた自分に自嘲気味に呟くと、そのまま踵を返すかちょっと躊躇ったあと、うつむきながらそのまま足が動いた。
「あれ、高原くん?」
視線が捉えた場所から離れた方向から聞こえたのは、若林の声。彼女の声に体がビクッと反応してしまう。
振り返ると、昨日に続いて悩んでいるのか、屋上をぶらぶらと歩いている様子に見えた。
昨日、持っていたスケッチブックは入口のそばでは死角になる場所に置かれていた。今日はさらに、普段、彼女が肩にかけている学校指定の紺色のカバンもそばに置かれている。カバンは荷物で膨らんでいる。
「まだ、どの方向を描こうか悩んでいるの?」
昨日散々悩んだ挙げ句、「今日は止めっ」と唐突に叫んで帰ったのが蘇り、聞いてみた。
若林は照れ臭そうに首を傾げ、鼻頭をさする様子から、どうやら図星らしい。
若林は周りを見渡しながらこちらに向かって来た。
「高原くんは? また空の写真?」
景色を眺めながら聞く若林に、学は曖昧に頷いた。
「ほんと、好きなんだね。けど、もったいないよ。ほかにも撮ればいいのに」
「ーー景色、とか?」
どこか、頑なに拒む自分に対しての皮肉も込めてもらし、ふと目線を動かした先には、薬品会社のある方向であった。思わず胸が詰まってしまう。
「やっぱり、好きになれそうにない?」
立ち竦む学とすれ違い際に聞いてくるが、学は黙ってしまう。
返事を待たないまま、若林は首を何度か振り、そのまま進むと、ビルを背にした鉄柵間際まで歩き、背を凭れさせた。
「でも、ちょっと変だよね」
「何が?」
「だって、人って嫌な物から目を背けてしまうじゃない。ほら、嫌いな人とはあまり喋らなかったり、嫌いな食べ物は食べないとか」
確かに若林の指摘通りであった。これまで何度も学は屋上に足を運んでいる。デジカメに保存されている空も、ここから撮ったものも数枚含まれている。
そのときも、背中にビルの存在をひしひしと受けながら、シャッターを押していたのは強く記憶に刻まれている。
自分の不可解な行動に、答えを求めてふと若林の顔を眺めた。すると、若林は学の悩みを受け入れるように、屈託ない笑顔で迎え入れてくれた。
そっか、これを聞きたかったんだ ーー
昨日、彼女から受けた奇妙なしこりは、これを聞きたかったんだと、ようやく理解できた。
嫌いな場所に、なんで何度も足を運んでいたのか。それが昨日の若林の言葉になっていたんだと。
「なんでなんだろ。自分でもはっきり分からないんだ。けど、ほんと、何回もここに来てたんだよな」
「今日も?」
「ーーいや、今日は……」
若林に会って聞きたいことがあった。
とは、素直に話せるだけの勇気がまだ学にはなく、上手くごまかせる言い訳を探すのだが、どうも見つけられずに執拗に後頭部を掻き毟ってしまう。
「何、動揺してんの?」
見るからに不自然な動きに容赦なく突っ込まれる。それには首筋で腕はピタリと止まり、頬の辺りが急激に熱くなってくる。
「変なの」
笑ってしまう若林の声に、気恥ずかしさに顔を上げられない。確実に顔が紅潮している自覚があったから。
「さ、私はそろそろ帰るね」
「あれ? もう決めたの?」
陽気な声に顔を上げた。
「うん。まぁね」
答えながら振り返ってビルを眺めた。おそらく、このビルがある風景を描こうとしているのだろう。
あのビル、好きなんだ ーー
口を開き、声に出そうとしたけれど、急に声が喉で詰まって唇を強く噛んだ。
若林の体越しに見えたビルのある光景。背中から注がれる西日によって紅く色づく若林の背中。そして、窓ガラスが紅く反射する光景に、これまでに学が抱いたことのない気持ちが胸を詰まらせた。
ビルが儚く見えてしまう。それは初めてだった。
「それに、実は今日は用事があって。早く帰らないといけなかったんだよね」
何かを思い出した様子で、若林は恥ずかしそうに言うと、荷物を置いてあるところに小走りになる。
「ねぇ、その荷物って、いつもどこに置いてるの?」
スケッチブックなどが私物なんだと昨日聞いたのだが、教室に置かれている様子はない。美術部に入っていないのなら、どこに置かれているのか気になった。
「あぁ、これ? 美術部の人に無理言って、荷物だけ美術部の教室に置かせてもらってるの」
言いながら、最後に「よいしょっ」と声を張ると、すべての荷物を持ち上げて立ち上がると、くるりと体を反転させたが、勢いがあまってつまずきそうに、体を揺らしてしまう。
よ、と体勢直したあと、学と目が合うと苦笑いする。
若林は背が低く、あらためてすべての荷物を持ち抱えたとき、どうも窮屈に見えた。
「何か一つ、荷物持とうか?」
ゆっくり歩き出す若林に、学は駆け寄って手を伸ばす。すると、申し訳なさげにかぶりを振った。
「けど、なんか両手塞いじゃってるし」
「いいのっ」
短く、それでいて強く放たれた拒絶に、一瞬たじろいでしまい、そのまま手を引いた。
「ありがと。でも、ほんと、大丈夫」
すぐに柔らかい口調に戻る若林だが、学は何も言えなかった。
気まずくなった若林は目を逸らし、
「ゴメン。手伝ってもらえるのは嬉しいんだよ。けど……」
「ーー……けど?」
「手伝ってもらおうとしたり、助けてもらおうと思う自分が嫌なんだ。ちょっとしたことでもすぐ、誰かに手を差し伸べてもらったりするの、甘えてる気がして」
「考えすぎじゃないの?」
やけに真剣な若林に、学は気さくに言う。
「そうなんだけどね。なんていうか、負けた気がするんだ、自分に。そういうのなんか嫌で。弱い自分に負けるのって」
えっ? ーー
「高原くんも帰る?」
「あ、うん……」
両手を荷物で塞ぎながらも悠然と立ち、校舎の入口に向かう若林の後ろ姿をじっと目で追ってしまった。
すぐに追う気になれなかった。
若林が最後に残した言葉を聞いた瞬間、目の前が一瞬、真っ白に霞んでしまう。
そして、刃物に刺されたみたいな痛みが急激に全身を走り、息が詰まった。
今も鼓動が激しく脈打ち、顔が呆然とする。
「……高原くん?」
入口のそばで呼びかけられ、ようやく意識が鮮明になり、学は慌ててあとを追うが、足取りは重たかった。
急激に襲った感覚。それは、彼女が放った台詞が頭から離れない。まるで、前にもどこかで聞いたことのあるあるような感覚に。
それが誰だったのかは思い出せなかった。
そこに誰かがいる。ちゃんと話もしていた。何気ないこと、楽しいこと。でもそのとき、どうして誰なのか分からなくなってしまうのか。
どうして?
問いかけることもできない。