壱 ーー 遠のく影 ーー (9)
衝動に逆らうのは難しいのかもしれない。何かをしたいから。何かがほしいから。何かが……。それは仕方がないのかもしれない。衝動に従うからこそ、心が落ち着くのかもしれない。
9
いきさつなんて覚えていなかった。ただ、空が撮りたくて屋上に向かってしまう。この衝動が強くなっただけ。
静かな日常はゆっくりと流れていく。学はそれまでより屋上に向かう回数が多くなっている。
デジカメのレンズを空に向ける。そして、彼の存在を知りながらも、集中する者が一人。
若林望である。
彼女はビルのある方角を眺めながら、手にしていたスケッチブックに筆を走らせていた。
どの方向にするべきか悩んだ挙げ句、ビルのある景色を残そうと決めたらしい。
二人の間に大きな会話はなかった。互いが自分の趣味に没頭し、屋上の空間を共有していた。
まったく意識しないと言えば嘘になるだろう。互いに距離を開きながらも、学は若林と屋上にいる間、自然と心が弾んでいた。
いつしか、屋上に行くのを楽しみにしている自分を、心の片隅に意識するようになって、一週間がすぎていた。
朝、自分の席に着くと、すぐにでもデジカメを取り出し、昨日までに撮り溜めていた写真の画像を確かめたい衝動を堪えていたとき、圭介が前の席に座り込む。
気持ちを整理していると、圭介は机の上に一冊の文庫本を置いた。
圭介は意外にも読書家で、よく本を読んでいるのを見かけた。その豊富な知識が、彼の社交的な性格に表れているのかもしれない。
だからか、圭介が読んでいるのを本を学もいくつかは知っていたが、目の前に置かれたのは初めて見る本であった。
「よ、あれからどうなんだよ」
軽いあいさつのあと、文庫本がなんなのか聞こうとしたが、圭介は間髪入れずに聞いてきたので、タイミングをうしなってしまう。しかも、意図が読めず、「何が?」と問い返した。
学の薄い反応に対して、圭介はしばらく真剣な眼差しで睨みつけるが、何も言わなかった。
いきなり睨まれ、学は視線を逸らすと、圭介はフウッとため息をもらし、表情から険しさを消した。
「いや、いいんだ。それでいいんだって」
独り言のように小さく頷き、自分なりに納得したのか、背筋を伸ばしながら、「うん、うん」と唸っている。
一人で納得されて話を進めてしまう圭介に、途方に暮れる学。
「朝から変なこと聞くぐらいなら、その本を読んで静かにしておけ」
さすがに、少し棘のある言い方をしてみせた。しかし、圭介に動揺を与えることさえできなかった。
それどころか、自分の好きなことに話が逸れてしまったためか、嬉しそうに口角を上げてしまう。また圭介を饒舌にさせたしまうかもしれない。
仕方ない、と諦めた。誰だって趣味の話に触れられると嬉しい。あいさつのあとに素っ気ない態度をしてしまった代わりとして、付き合おうとした。
「それって、また新しいやつか?」
「ーーそ。三日ほど前に買ったやつ」
文庫本には紙のブックカバーがつけられており、タイトルを確認することはできなかったので、学は文庫本を手に取り、一ページめくってタイトルを確認する。
「……お前が恋愛小説?」
「あれ? よく、それだけでそうだって分かったな」
開いたページにはタイトルと著者名が書かれているだけであったが、学はそれだけで声が出ていた。
タイトルはそれだけで恋愛小説と分かるものではなかった。裏表紙にはあらすじが書かれているが、そこまで読んでいない。だからこそ、一目でジャンルを当ててしまうと、圭介は驚きを隠せずにいた。
「確かこれ、記憶障害のある主人公が、精神病棟で会うーー」
「あ、ちょ、待てって。俺まだそんなに読んでいないんだ。先のことは言うなよっ」
よほど楽しみにしているのか、圭介は目を見開き、右手をブンブンと勢いよく振って話を遮る。声も今まで以上に切羽詰まっていた。
あからさまに動揺する圭介に、学は調子に乗って、「それで」「それから」と、接続詞をわざとらしく言って茶化してみせた。
わ、わ、わ、と声を張り上げる圭介に満足して止めると、圭介もホッと胸を撫で下ろした。
「けど、お前がこの話を知っていたなんてな」
落ち着きを取り戻した圭介が感心する。
「うん。昔に読んだことがあったんだ」
「珍しいな。あんまり興味がないって思ってた」
「確かそれ、誰かに薦められた気がするんだよな……」
ペラペラとページをめくりながら、かいつまんで小説を読んでみると、やはり記憶のなかに内容が残っている。
「誰に聞いたんだ?」
「さぁ? そこまでは覚えていないんだよね。それより、結末、教えてやろうか?」
パタンッと文庫本を畳んで返すと、嫌味も与えてやった。すると、圭介は眉間にしわを寄せて睨み、乱暴に文庫本を奪った。
「ーーバカかっ」
最後に吐き捨てた台詞を、学は満面の笑みで迎え入れた。
必死に話を拒もうとする圭介を茶化していると、本気で嫌なのか、学を無視して奪った文庫本を読み始めた。
何度か呼びかけるが、返事どころか、反応すら見せない圭介に、学は渋々諦め、頬杖を突いて、窓の外の空を見上げた。今日も晴れていて、一日熱くなりそうな気配を漂わせていた。
まったくと言っていいほど、小説には興味がないと言っても過言ではなかった。興味があるとすれば、マンガばかり。雑誌や単行本は買っていても、本屋に行っても小説の売り場は素通りでしかなかった。
活字は睡魔を召喚しる呪文。そんな考えを持っていたが、誰かに執拗に薦められ、一度だけ読んだ。
興味がなかったはずなのに、タイトルを見ただけで、内容が鮮明に蘇ってくる。流れる雲を見上げながらも、物語の状況が脳裏に広がる。
最初は嫌々だったが、読み出しているうちに興味が強まり、時間の空きがあれば、本を開いていた。
学校で話す相手がいなくなったとき、家で御飯を食べる前の隙間。夜、ベッドに入ってからの数分間。
誰かに呼ばれたとき、仕方なく本にしおりを挟んでその場を離れていたのを思い出してしまう。
後ろ髪を引かれる思いで挟んでいた特徴的なしおり……
「……スノードロップ……」
本に挟んでいたしおりの形を思い出したとき、学の顔が上がり、視線を宙に彷徨わせる。
誰かに強く薦められた。
しおりの形が見えたとき、嫌がる学に満面の笑みを浮かべて押しつけ、手の平に文庫本を乗せた人物が鮮明に蘇った。
ーー いい? ちゃんと読むのよ。あ、でもそのしおりだけはなくさないでよ。気に入っているんだから。
はにかみながらも強く言う姿に根負けする学。
渡瀬、由紀だ…… ーー
小説との出会いのいきさつに、突如姿を現した渡瀬由紀に学は声を失い、目を見開いてしまう。
窓に反射した自分の姿は滑稽に見えるほど、情けなかった。
同時に、学は急激に焦ってしまう。
どこかで半ば諦めようとしていたのかもしれない。信じる自分に対して、夢だからこそ、記憶が曖昧になっていたと捕らえようとしていたのかもしれない。
しかし、小説の内容にいたっては違った。確実に“記憶”なんだと確信してしまう。夢であるとごまかせるほど、曖昧ではなかった。
スノードロップの形をした特徴的なしおり。なぜ大切にしているのかは、しおりが限定商品であり、裏にシリアルナンバーが刻まれていたから。
番号は「27」番。
現実味を帯びていく記憶の断片。心の奥深くにある渦に手を伸ばし、必死にすくい上げて並べたとき、その存在は学にとって、確たるものへと変わろうとしていた。
渡瀬由紀は存在していた。
彼女の存在が一層強まる一方で、学の胸苦しさはより酷さを増してしまう。激しく脈打つ鼓動に、胸に手を当てた。
なぜ、忘れていたんだろう? ーー
ここ数日、渡瀬由紀のことを考えていなかったことに気づかされた。目を閉じ、暗闇の奥に彼女の姿が浮かび上がると、急激に罪悪感に苛まれてしまった。
忘れることは罪なのか。
罪だからこそ、穏やかな日々にそれは突然姿を現し、何かを訴えてくるのだろうか?
それはどうして?
何か理由があるから?
それとも、忘れていた者が本当は忘れてはいけない、と心で思っているからなのか?




