序章
踏みつぶされた虫は何を思うのだろうか。突如、自身に訪れた圧倒的な物量によって、その体を歪められ、もがき苦しむ。 ひくひくと短い脚を震わせ、一歩でも前へと進もうとしている。
帰巣本能か、それともただただ生き足掻いているのか。幸か不幸か、私には虫の言葉は分からない。だが、必死に生き抜こうとしているのだけは分かった。それがとても悲しくて、むなしい。まるで、自身を映しているようで、目をそむけてしまう。
「……こんなはずじゃなかったのに、ね」
逃げた視線の先、膝の上には静かに眠る最愛の存在。慈しむようにして、頬を撫でると指先が赤く染まる。
「…………」
ひとつ、ふたつと拭っても拭っても、彼の頬を染めていく、赤。 ぽつり、ぽつりと空から滴り落ちてくる、紅。
「ごめんなさい、タスク」
濡れた髪を払い、眠る彼の顔を覗かせる。眠り続ける彼から当然返事もなく、眠り続けているだけ。もう答えを貰うこともできない。
「……ごめんなさい」
いくら謝罪の言葉を述べたところで、この現実は変わってはくれない。
「こうなることは分かっていたはずなのに……」
見上げた空に描かれた真紅の百合。花弁から零れ落ちてくる赤い雫。私に触れる前に蒸発し、霧となって昇っていく。
「……本当にふざけた世界」
何もかも儘ならない。守るべきもの、守りたいもの、その全てが瓦解した今、私はどうすればいいのだろうか。この作られた檻の中で、私は何をすればいいのだろうか。
「……タスク」
もう何度目になるのだろうか。愛しい名前を漏らし、救いを求める。だけど、そのせいで私は失ってしまったのかもしれない。作られた運命のまま、歩き、狂人の望む結末を迎えさせられた。
やりようはあったはずなのに、ただ今ある日常を守りたい。その甘えが私の罪になってしまった。
「だけど、きっとあなたはそんな私でも許してしまうから……」
このまま身を任せることも出来る。だけど、それだけはできない。そこまでの罪を私は受け入れきれないから。
「………っ」
悩んでいる間にも、時間は進んでいく。気づけば、彼の体を包む赤、このままでは本当に何もかも失ってしまうから。
「タスク……あなただけは絶対に奪わせない!」
奪われる前に、私の迷い、後悔、その全てを断ち切るようにして、振り上げた腕を私は最愛の彼に思い切り突き立てた。




