最後の夜
その後すぐ直々に辞令が出て、俺はプロジェクトの間だけドイツ支社へ転勤ということになった。
突如、俺がプロジェクトメンバーに加えられたことに、社内の多くの人は驚き、羨ましがられたりもした。「頑張れよ」という言葉をかけられるたび、行きたくても行けない人がいるんだから、自分なりにしっかりと仕事をしなくてはと改めて感じる。
出発の前の晩は、凛も仕事を早めに切り上げて帰ってきてくれた。一緒にキッチンに入り、夕飯の支度をする。
「今夜はなに作るの?」
「ちらし寿司だよ。ちょーっと奮発して、魚介も買っちゃった。大斗さん、しばらくは和食にありつけないだろうなあと思って」
「いいね!じゃあ俺はお吸い物でも作ってようかな。花麩がまだ残ってたよね」
「うん、ありがとう」
次はいつ、こんな風なやりとりができるんだろう。俺はそんなことをふと思って、無性に寂しくなった。
「あっ!フリーズドライのお味噌汁とか、向こうに持ってく?」
「それぐらいなら向こうでも売ってるんじゃないかな?日本食って世界的にブームだし」
「あ、そっか。じゃあ食品は特に何もいらないかな」
凛がちょっと寂しそうに言う。
そんな凛を見てると、なんだか俺も胸がきゅっと苦しくなって、彼女を後ろから抱きしめた。
「毎日、凛のご飯食べられたらいいんだけどなあ」
「もう…、そんなこと聞いたら、寂しくなっちゃうでしょ」
「寂しがってよ。俺、凛と一緒に居られないの、すごく辛いよ?…なるべく早く成果上げて、帰って来るからね」
「うん…!」
凛が後ろを振り向いて、ぎゅっと抱きついてきてくれた。
いつものやさしい香りがして、すごくほっとする。
「…向こうにはきっと、背が高くてすらっとしてて綺麗な人がいっぱいいるだろうけど、浮気しないでね?」
「あははっ、しないよ。俺は、凛みたいに小さくて、笑顔が可愛い子が好きだから。…凛の方こそ気をつけろよ。その…、専務とか」
「え、専務?」
キョトンとした顔で、まるでなんのことだかわからないというように俺を見上げる凛。
本当に俺の思い過ごしならいいんだけど。
「うん。なんかあの人、怪しいから。絶対2人きりにならないで」
「え?う、うん…。わかった」
専務だって忙しいんだし、一社員をそこまで相手にしている時間はないだろう。けれど、これまで何度も凛を気に掛けるような言動があったから、意識していることは間違いないと思う。俺が向こうに行っている間、何も起こらないことを願うばかりだ。
「あ!そうだ。私、来月ドイツに遊びに行ってもいい?もうすぐ夏季休暇がとれる時期でしょ?有給も何日か足せば2週間ぐらい居られるよね」
うちの会社では、社員全員が交代で1週間の夏季休暇がとれる。その休みを利用して海外へ行く人も多く、俺も去年は凛と台湾へ行った。
「ほんと?嬉しいなあ。俺は向こうじゃまとまった休みがとれないだろうし、きっとプチ帰国とかもできないんだろうなって思ってたから、ほんと助かるよ」
「ふふっ。必要な物とかあったらそのとき持っていくから、何でも言ってね」
「凛が来てくれるなら、他には何もいらないよ」
そうして、転勤前最後の夕食の準備中にも関わらず、俺たちは甘いキスに酔いしれたのだった。