第1話 40歳、おめでとうございます。
四十歳になる瞬間を、風呂の中で迎える人間は案外少なくないのかもしれない。
浴室の壁に立てかけてあるスマホの画面が、小さく時刻を切り替えた。
六月十二日、午前0時00分。
「……四十歳か」
誰に聞かせるでもなく呟いて、優馬は天井を見上げた。
めでたい、とは思わなかった。
悲しい、とも違う。
ただ、「四十」という数字が、自分の人生に乗っかっただけだった。
湯船の中で肩まで浸かりながら、ぼんやりと今日一日を思い返す。
急な残業だった。
中規模ゼネコンの経理部。
月末でも年度末でもないのに、現場から数字が合わないと電話が入り、営業から伝票が違うと呼ばれ、上司から「今日中に頼む」と笑顔で資料を渡された。
気付けば終電一本前になっていた。
昔は仕事が忙しいことを言い訳にしていた。
恋人を作る暇がない。
遊ぶ暇がない。
結婚なんて考えられない。
そんなことを言っているうちに、いつの間にか四十歳になっていた。
最後に女性と付き合ったのは大学生の頃だ。
それもすぐに振られた。あの時ほどリア充どもを妬んだ日はない。
社会人になってから恋人は一人もいない。
不本意ながら、童貞だ。
今は別に恥ずかしいとも思わない。
いや、少しくらいは思う。
でも、今さらどうにもならない。
友人は何人かいる。
年に一度か二度、飲みに行く程度の付き合いだ。
会えば楽しい。
けれど話題は、子どもの受験だったり、住宅ローンだったり、奥さんの愚痴だったりする。
気付けば、自分は聞き役に回っている。
嫌ではない。
ただ、自分には話すことがないだけだった。
父は自分が三十代前半の頃にで亡くなった。
数年後には母も後を追うように逝った。
兄は結婚し、家庭を築いている。
子供も今の時代にしては多く、四人もいる。
まあ、うちの血筋は保たれるだろう。
最後に会ったのは母の葬式だった。
それ以来、一度も連絡は取っていない。
仲が悪いわけではない。
ただ、お互いの人生が交わらなくなっただけだった。
「……上がるか」
湯船から立ち上がる。
バスタオルで身体を拭き、パンツだけ履いた。
八畳ワンルームの部屋は、いつも通り静かだった。
テレビもない。
流れているのは、冷蔵庫の低い駆動音だけだ。
今日は少しだけ奮発して、プレミアムなビールを一本買ってある。
四十歳になった自分への、ささやかな祝いだった。
冷蔵庫の前まで歩き、扉を開く。
キンキンの冷気が肌を撫でた。
冷気ごと缶を取り出そうとして、ふと違和感を覚える。
……誰かいる。
背中ではない。
視界の端。
リビングのローテーブルの向こう側に、何か黒いものが見えた気がした。
優馬はゆっくりと首を動かす。
そこには、一人の来客がいた。
黒いローブをまとい、床に届くほど長い裾を垂らしている。
その横には、人の背丈ほどもある巨大な鎌が置かれていた。
そして、その中央に白い骸骨がいた。
綺麗な正座をしている。
「…………」
頭の中が、理解を拒否した。
泥棒。
違う。
強盗。
それも違う。
コスプレ。
いや、違うだろ。
夢。
……風呂で寝たか。
いや、身体はちゃんと濡れている。
じゃあ現実か。
骸骨は微動だにしない。
ただ、正座したまま、こちらを見ている。
目が合っている。気がする。
眼窩には何もないはずなのに、確かに視線だけは感じた。
不思議と恐怖はなかった。
もちろん驚いている。
普通なら悲鳴を上げてもおかしくない。
警察を呼ぶべきなのかもしれない。
けれど、相手が骸骨では110番も困るだろう。
『犯人の特徴を教えてください』
骸骨です。
……やばいお薬を使っていると思われる。
場違いにも、そんなことを考えてしまう。
骸骨は相変わらず微動だにしない。
妙に礼儀正しそうな座り方だけが印象に残った。
鎌まで床へきちんと揃えて置いてある。
几帳面なのか。
いや、そこじゃない。
優馬は冷蔵庫の扉を閉めた。
部屋に静寂が戻る。
エアコンもつけていない室内では、冷蔵庫のモーター音だけがやけに大きく聞こえた。
心臓は少し速くなっている。
それでも、不思議なくらい冷静だった。
逃げるべきか。
話しかけるべきか。
いや、そもそも骸骨と会話なんて成立するのか。
そんな場違いな感想を抱いたところで、優馬はようやく一つの結論にたどり着いた。
(そうか。俺は死ぬのか)




