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弾んだ足音に、心がなぜだか嬉しくなる。
「泉、紙と鉛筆持ってきた。早速描こう。描きながらでも、喋れるし」
小波は璃雪の部屋の襖を開けるなりそう言って、璃雪の傍らに座る。縁側に腰掛けていた璃雪は、小波の声がしたほうを振り返った。
「きっと、すぐに完成しますね」
そう言うと、いいや、と返ってくる。解らず首をかしげると、楽しそうな小波の声がした。
「何枚でも描くよ。鉛筆で何枚も何枚も書いて、一枚だけ、一番良いのを、描きたいと思ったのを絵の具で描く」
その全部を、いつか泉が見ればいい。すでに鉛筆のこすれる音が聞こえていた。それじゃ、見るほうも大変ですね。声が震えそうになるのをこらえて、璃雪は静かに言い、微笑む。
この人は本当に、絵を描くのが好きなんだなと、璃雪は思う。いつもよりずっと楽しそうに笑って、鉛筆を走らせていた。
こうして、小波はほとんど毎日やってきた。何枚も何枚も絵を描いていく。
「どうして、そんなに?」あまりの量に訊ねると、心外そうな声が返ってきた。「証が欲しいって言ったのは泉だろ」そう言って笑って、ごめん、と突然謝った。「誰かのために描くのって、初めてなんだ」だから楽しい。小波は、そう言ったきり、黙り込んでしまった。手を伸ばす。肩のあたりにぺたりと触れると、苦笑が返ってきた。「ごめん、ちょっと照れた」本心らしき言葉を紡ぐ。「ほんとのこというのって、照れないか」さぁ、どうでしょう。はぐらかして、璃雪は笑った。
別の日。スケッチブックが一冊終わった頃。
「小波さん」絵を描いている途中、璃雪が硬い声で小波に声をかけてきた。「名前を教えてくれませんか」そう願われ、あれ、と小波は声に出して戸惑う。「言ってなかったか」小波の様子から拒否されないと確信したのか、力強く、うなずく。「知りません」けれど小波は苦笑して、うーん、と笑った。「名前、あんまり好きじゃないんだよなぁ」
「どうして?」
「これがまた、可愛い名前なんだ」苦った言い方だ。仕方ない。一生付き合っていく名前がこんなものだなんて、両親を恨みたくはないが愚痴くらいは言いたい。心底いやいやそうに、璃雪に身を小さくさせるくらいには嫌そうに、小波は自分の名前を告げた。
「……」
ぽかんとした璃雪の様子に、小波は何も言わない。ひたすら、目隠しをした少女の返事を待った。「ええと」小さく呟く。
「かっこいい、名前です。よ」バレバレだ。
毎晩、昼間のことを思い出して、璃雪は一人膝を抱える。
毎日夜になると、胸が痛かった。苦しかった。病気も、怪我もない。けれど、治る見込みのない痛みだった。本人に伝えなければ意味がないのに、ごめんなさいごめんなさいと何度も心の中で繰り返した。
もうすぐ、小波と璃雪が出会って一ヵ月。
いつものように、小波は璃雪の屋敷を訪れた。いつもの道具は鞄の中、手の中にあるのは、リンと響く、小さなもの。
「泉」
いつものように声をかけて、奥に行く。いつものように、璃雪が襖を開けて待っている。
部屋に入って、座って、スケッチブックを開いて、しばらく沈黙のまま、小波の鉛筆を走らす音だけが響いていた。
「目隠し取って、すぐにはさ」
唐突に、鉛筆を走らせながら小波は言った。
「外に出たりできないだろうから、璃雪、しばらく家にいるだろうな」
璃雪が問いかける間を与えずに、小波は続ける。
「俺が高校卒業する頃には、泉、目隠し取れてるかな」
小波は穏やかに、『もしも』を話し始めた。
「目隠ししたままでも、泉が良いならいろんなところに行くといい。一人が嫌なら、ついていくし、行きたい人がいるなら、それもいい。俺、卒業したら家業継ぐから、進学しないんだ。―――うちの学校の奴ら、大体みんなそうだけど。進学校なのに、変だよな」
じゃなくて、と小波は苦笑しながら話を戻す。
「だから、卒業してもここに来る。絵が完成しても、多分」
小波の言葉を聴いているうちに、璃雪は俯いていた。小波は気がつかない。無邪気に言葉を紡ぐ小波は、気付かない。
璃雪の目隠しが、濡れていた。
いつものように、小波は屋敷を訪れた。いつものように、出迎えのない玄関に上がって、いつものように、廊下の奥を目指す。
「泉」
今日は、返事がなかった。
襖も、閉まったままだった。
初めて出会う静けさに、冷たいものが降りてきた。
「……泉?」
璃雪がいるはずの部屋の前に来て、呼びかける。返事はない。静かに、襖を開いた。
「お嬢さんはいませんよ」
男の声に、小波は顔を上げる。
「今朝方、父親の迎えの車に乗りました」
なぜだか冗談にしか聞こえない言葉を、小波は黙って聴いていた。
ぽかんとこちらを見つめる背の高い少年に、律は苛立ちを抑えて言葉を繋げる。
「周囲が今まで止めていましたが、限界が来たようです。お嬢さんは、父親の元に戻りましたよ」
「なんで……」
「二ヶ月も前から決まっていたことです」
少年と璃雪が会う前から、決まっていたこと。そう告げると、困ったように小波は首をかしげた。
「そんなの、泉、一言も―――」
「言ってないから、どうなんです?」
容赦なく、律は切り込んだ。
「たった一ヶ月ですか、それとも、長い一ヶ月でしたか。あなたは外の世界を知っている、お嬢さんは知らない。あなたがお嬢さんに対して思っていたのはなんですか。なぜここで戸惑うのですか。ずっと黙っていた、嘘をついていたお嬢さんを憎みませんか。裏切ったお嬢さんを恨みませんか」
どんなつもりで。そう、律が問いたいのはそれだ。
「どんなつもりで、お嬢さんと親しくなったんですか」
迷い込んで、そのまま二度とこの屋敷を訪れないこともできたはずだ。なぜ、この少年はそうしなかったのだろう。なぜ、璃雪に光を与えたのだろう。車に乗り込む際の、璃雪の歪んだ口元が、忘れられない。
「お嬢さんに対して上からの立場で、同情を、していたのですか」
願うように問いかける。
「……知らないって。そんなこと」
小波は男に呟いた。だって、気が向いたから、楽しそうに笑うから。そうだ、最初は鮮やかな赤い布に惹かれたのかもしれない。隠されたモノに疑問を抱かせず、ただ綺麗だと思った。あったのは、ほんの少しの興味。それ以外の思いが生まれるには、一ヶ月というのは短い。
「……あなたは、泉に会えるんですか」
「あなたよりは」
簡潔な答えに唇をかんで、小波はポケットを漁った。入っているのは自転車の鍵と家の鍵。そこについているストラップを、引きちぎりそうな勢いで外す。
リンと、音が鳴った。
「……泉に」
搾り出すように、言葉をさがす。
「いつか、絵を見にこい、と。この町に、俺はいるから、と」
男に鈴を握ったこぶしを突き出して、男の、底冷えするような目を見据える。心得たように、男はそれを受け取った。
すべては奇妙な出会いからだった。璃雪に出会った瞬間、小波の非日常は始まった。それが、今、突然に終わっただけだ。突然すぎて、驚いただけだ。
璃雪に出会った一ヶ月から半年。三年生。放課後の美術室。
小波は今日も、着物姿の少女の絵を描いていた。




