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襖が開く音に、璃雪は顔を上げた。続いてかけられた声に、表情をパッと明るくする
「おじょーうさん」
「律、お帰りなさい」
立ち上がろうとして肩を押さえられ、璃雪はその場に留まった。
「お嬢さん? お部屋に誰を招いたんです?」
小波に会うまで、ほとんど唯一の友人だった青年の問いに、璃雪は小さく笑って小首をかしげる。
「気になりますか?」
「気にします。自分がいない間を狙って、他人を家に上げようとするのはいい加減やめてください」
「律は過保護です」
「……誰に習いましたか、そんな単語」
さぁ、だれでしょう。と璃雪は微笑む。律は昔からこうだった。璃雪にあれをしてはいけないこれをしてはいけないと、うっとうしいほどかまってくる。
「彼は、いい人ですよ」
「……」
わずかな沈黙があった。
「……男の方ですか」
「迷い人のようでしたね。彼から、山の匂いがしました」
律が何を言いたいのかわかっていながら、璃雪はあえて返事をはぐらかす。
「信用しても、いいんですか」
低い声。内心苛立っているだろうに冷静さを装って問いかけてくる。璃雪にはそれが楽しくて仕方がない。律には悪いけれど、これくらいの気晴らしには付き合ってもらいたい。
「律は、わたしを信じてくれればいいんですよ。方向、間違っていないでしょう?」
「会わせる気、無しですか」
「だって、わたしの友達ですから」
おまけに律と小波は歳の近い同姓だ。二人が意気投合して、璃雪一人のけ者にされてしまってはたまらない。律に限って、他人と早々に仲良くなるなんてことはないだろうけれど。ぼんやりと璃雪が考えていると、律が低い声で呟いた。
「その方に、助けは求めないのでしょう」
唐突なその台詞に、璃雪は笑みすら浮かべて答えた。
「もちろん」
週に二度の訪問が習慣となり、出迎えのない玄関に上がりこむのにも慣れた頃。小波は廊下の奥へ声をかけた。
「泉」
返事は間もなく帰ってくる。
「小波さん、いらっしゃい」
襖の開く音がして、小波は足を速めた。
いつもどおり顔をあわせて、いつもどおり他愛もない言葉を交わす。会話がひと段落し、わずかな間が空いた瞬間、小波は口を開いた。
「泉」
どことなくいつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、戸惑ったかのように璃雪の返答が遅れた。不自然な間が空き、続いて璃雪の言葉がくる。
「どうしたんです?」
「色々、聞きたいことが」
璃雪は一瞬困った反応をし、けれどその口元はすぐに弧を描いた。
「例えば、なんでしょう」
すました璃雪の態度に、小波は苦笑する。相手に見えないとわかっていても、指折り数えながら答えた。
「たくさんあるよ。どうでもいいことからわりとまじめなものまで。たくさんある。例えば、どうして泉は俺に敬語で話すのか、とか。いつからこの屋敷に住んでいるのか、とか。どうしてこの屋敷で人に会わないのか、とか。どうして―――」
強調するように、小波は言葉をきった。
「泉は目隠しをしているのか、とか」
璃雪を見る。一度だけ、彼女は困ったように頬に手を当て「ええと」とつぶやいて顔の向きを小波から逸らした。
「敬語は、祖母に教わりました。そうこうしてるうち、切り替えが出来なくなったんですよ」
というより、敬語を必要としない相手が傍にいなかった。璃雪はさりげなくそう付け加える。
「この屋敷には、十年前から。七歳の頃から、ずっとです。ずっと、この屋敷にいます。それから―――」
「この屋敷には、泉しかいない?」
「いいえ」
璃雪は小波の言葉を素早く否定した。
「昼食をとってから日が落ちるまでの日中は、一人なだけです。他の人たちは、お仕事やそれぞれの生活がありますから」
それにしたって、目隠しをした少女を一人にするのもどうだろう。庭園から縁側に上がれば、簡単に侵入できてしまうこの家に、強盗の類がきたら?
小波の思考をよそに、璃雪は手を挙げる。ゆるゆると、自分の目元を覆っている布に触れた。
「この、目隠しは―――」
言いよどむ。
「そうだ!」
ぱっと布から手を離し、璃雪は明るい声をあげた。この期に及んでかわす気かと小波が意識した時、璃雪は楽しそうに呟く。
「とある男の人のお話をしてもいいでしょうか。律……ええと、知り合いから聞いた、とても滑稽で哀れという、男の人のお話を」
お金持ちの家がありました。その家には一人の男の子生まれました。男の子はやがて大人になり、一人の女性と出会います。男は女性と結ばれ、一人の女の子を授かりました。男は女を愛していました。男は娘を愛していました。女は男を愛していました。女は娘を愛していました。
けれど、男は娘を愛するあまり、外に出さなくなりました。女が言っても聞きません。男は娘を家の中に閉じ込めました。娘の視界を奪いました。時折おかしくなったような言動を繰り返す男を恐れ、女は男の下から立ち去ります。女に去られ、男はますます娘に執着しました。一族を背負って立つ男の行動に、焦ったのは周りの人々でした。男から娘を取り上げ、縁ある土地に閉じ込めます。男は娘を取り上げられ、仕事に明け暮れるようになりました。
冗談でも、「めでたしめでたし」で終わりにすることはできない話だ。童話のように璃雪に語られたけれど、教訓も何もない。ただの冗談のようなできの悪い物語。
「目が見えないわけじゃ、ないんです」
ぽつりと、璃雪は囁いた。
「ただ、この生活を十年も続けてきました。今さら、戻れると考えるのは、とても怖いんです。普遍というのは安穏です。変化というのは恐怖です」
「変化が、怖い?」
「たとえ、それがどんなに良い方向に変わるのだとしても」
小波は黙り込んだ。その傍らで、璃雪が居心地悪そうに膝を抱える。
「だって、わたし、学校に行っていません。何も知りません。字も、正直読めるかどうか怪しいものがいくつもあるに違いないです。そんなわたしが、今から人の世界で生きていけますか?」
璃雪は続ける。
「目が見えても見えなくても、関係なかったんですよ、わたし」
家からは出られなかった。璃雪はこの屋敷にずっといたけれど、世界がとても広いことを知っている、自分のいる場所が、閉ざされた場所なのだと理解している。だからこそ、足を踏み出すことを恐れた。
あぁ、と璃雪が声をあげる。
「質問の答えに、なりませんでしたね」
わざわざ昔話をしたのに、と、璃雪は苦笑する。
「結局、逃げているだけなんです」
これがあるから外にいけない。と、嘯くことが、できるから。
「自分は、もしかしたら幽霊かもしれないって、たまに思うんです」
「……?」
「わたしがここにいたって、残るものはなにも無いから。いたのかわからなかったら、いなかったのと同じじゃないですか」
その言葉に、小波が抱いたのは違和感だった。―――そんなの。
「そんなの、みんな同じだと思うけど?」
「違います」
「違わない」
「わたしは、何一つここで生きてたって証を残すことができません」
ほら、違うじゃないですか。璃雪はそういって力なく首を振る。目元は赤い布に隠されていて見えない。けれど、口元は今にも泣きそうに歪んでいた。あぁ、これ以上言ったら泣くのかな、小波はそう思いながら、口を開いた。
「だって、同じだ。命あるものに等しくあるのは死だけだ、って、聞いたことがある。平等なんて嘘で、容姿も財産も健康も、人それぞれ違う。けど、死だけは等しく誰にでもあるってさ。すごく芝居じみていて、陳腐なことを言ってるってのはわかってる。けど、間違ったことではないと思うけど? 俺だって、歴史に残るほどの偉業をやるわけじゃない。人が生きた証って何だよ。死んだら何も残らない。みんな同じだ。違うことなんて何も無い」
それでも、璃雪は首をふった。
「―――も」
掠れた声で、何かを呟く。
「誰の記憶にも、残らないです。わたし」
何か変だ。小波はようやく気がつく。俯く璃雪を見ながら、小波は思った。何か、変だ。
「泉。俺たちがここでこんな話をするのは、なんだか変な気がする」
璃雪は不安なのだ、この屋敷の中で、一生を終えるのが。璃雪がそう思い込んでいることも、そう育てた父親も、干渉しようとしない周囲も、璃雪に関係するはずの全ての人間がおかしい。出会ったばかりの小波にはわかる。
「泉、生きてる限り、いつか世界は変わるよ。そんな風にできてるはずなんだ。泉は病気とかじゃないんだろう? それなら、その目隠しさえはずす気になれば、なんだって出来るようになる」
あぁ、そうだ。と小波は思った。こんなことは初めて思いつく。こんなに強く、思ったのは。
「生きてた証が欲しいなら、俺が作ってやる」
え? と泉が顔を上げる。心底驚いたように、そして、信じて、落胆しないように、慎重に言葉を聞き漏らすまいと息を潜めた。
「俺が、泉の絵を描いてやるよ」
目隠しに、肩で切りそろえられた黒い髪、明るい色の和服。肖像画、というには、おそらく趣味の悪いできになるだろう。けれど、小波はそれでかまわなかった。証が欲しいと泣きそうな少女のためだけに、彼女の絵を描こうと思った。描きたいと思った。
「でさ」
いい考えだ。小波は思いながら、言葉を続ける。
「出来上がってすぐじゃなくてもいい、いつかでいいから、目隠しを外してさ、俺の描いた絵を見て欲しい」
可愛くない、下手くそだ、遠慮なくそう言って、けちょんけちょんに貶してもいいから。
「でも俺、そこまで下手じゃないと思うから、楽しみにしといてよ」
そう言って笑う。ぎこちない顔で、璃雪も笑った。
その笑顔が、どこか寂しそうだった。
「先生」
帰りのSHRのあと、小波は担任を呼び止めた。
「考え直してくれたか?」
開口一番にこれだ。小波は笑って、そうじゃなくて、と首を振る。
「画材とか一式、ちょっとの間借りていいですか? 美術部もどきに入る件、考えてみても良いから」
そう問いかけると、不思議そうな表情が返ってくる。
「美術室で描かないのか?」
「描きたい人がいるんです」
無邪気にそういう小波に、担任はまぶしそうに目を細めて、苦笑する。若いっていいなぁ、とぼやいて、ついてこい、と誘った。




