夜
ルチルが家に戻った時、母さんは寝ていました。昼間ですから。
いつものように、家の中はしんとしていて、薪の匂いと、薬草の乾いた香りが漂っています。
村の喧騒とはまるで違う、“いつもの静けさ”です。
けれど、ルチルの胸の中には、いつもの静けさではありませんでした。
エミリの声が、まだ胸の奥で温かく響いています。
『私のカップケーキは無敵なの。空腹にも疲れにも。黒い森は遠いですからね。』
その言葉は、まるでお守りのように、ルチルの胸の真ん中に落ち着いていました。
そして――
『また来るんですよ』
その言葉だけは、胸の奥にそっと沈んで、まだ形を持たないまま、静かに疼いています。
扉の中のお友達は、いつもより顔色が良く見えました。
ルチルの胸の中の変化を、まるで知っているかのようです。勿論のこと、ルチルには今日の出来事を隠す気はありません。
『あのね、今日は初めて村に行ったのよ』
扉の中のお友達は黙って聞いています。その沈黙は、責めるでもなく、驚くでもなく、ただ“聞いている”という優しい沈黙でした。
『途中で大蛇のナーダに名前を貰ったの。私、ルチルって言うのよ』
名前を言うとき、ルチルの声はほんの少し誇らしげでした。
『それから、なんでもやの奥さんのエミリさんにカップケーキを貰ったの。私、初めて食べたのよ。カップケーキって世界で一番美味しいものなの。
貴女も一緒に食べれたら良かったって思うの』
家に持ち帰ることはできなかったのです。黒くない食べ物は母さんの気に障ります。
それだけではなく、名前を貰ったこともです。扉の中のお友達に伝えるだけにしておこうとルチルは思いました。
母さんに言えないことがあるなんて、良くないことでしょうか。ルチルは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じました。
ルシルは埋め合わせとして一生懸命に昼間の仕事をこなしました。村へのお使いを考えるととても早く昼間の仕事を済ませて母さんが起きる時間までに食事の支度を済ませました。
日が森の奥に沈むころ、家の奥から布の擦れる音がして、母さんがゆっくりと起き上がりました。
家の空気が、ぴん、と張り詰めます。
『愚図。ちゃんと使いはできたのかい』
その声は、いつも通りの棘を含んでいました。
眠気と苛立ちが混ざった、低くて冷たい声。
ルチルの胸の奥で、エミリの「また来るんですよ」がふっと震えました。
返事をしようとすると、喉の奥がきゅっと縮みます。
『舌がはりついちまったのかい。あたしは聞いているんだよ。返事はないのかい、役立たず』
その言葉は、今日一日で触れた優しさとはまるで違う、いつもの冷たさでした。
『すみません、母さん。薬は渡して、お金と次の注文はテーブルの上に置きました』
ルチルはどうにか舌を動かすことが出来ました。
母さんはなんとなく怪しむように次の注文を読んでからルチルを見ました。
『そうかい。それじゃ、今日はその薬を作るまでは寝てはいけない。なんでもやの腰はまだ良くないようだね。』
なんと答えるのが正しいのでしょうか。ルチルにはよくわかりません。
『お前は役立たずだけども、もう一回くらい村に行けるかもしれないねえ』
どくんとルチルの心臓は跳ねました。
『いや、お前みたいな馬鹿にはもう無理だろうか…』
母さんは横目でルチルを見ながら食事を始めました。ルチルは行きたいのでしょうか。行きたくないのでしょうか。ルチルにはよく分からないのです。それでもルチルが行きたいと言ったら母さんは村には行かせないだろうと思えました。
『母さん、村は大きな音がして、人が一杯で怖かったです』
これは、嘘ではありませんでした。
むしろ、今日の出来事の中で一番“母さんに言ってもいいこと”でした。
けれど、母さんはルチルの言葉を聞いても、慰めるでも、心配するでもなく、ただ冷たく鼻を鳴らしました。
『ふん。お前みたいな間抜けには荷が重いんだよ』
母さんは食事を口に運びながら、ルチルを村にやろうか迷っているように見ました。
『・・・だけど、商人が来れないんだからお前を使うしかないんだろうね』
ルチルに新しい注文薬を言いつけ、朝にはもう一度なんでもやに納品に行くように言いつけてから、箒に乗って夜空にと消えたのでした。
ルチルは、母さんがいない家の中で、そっと息を吸いました。
「……明日、また村に行くんだ」
声に出すと、胸の奥がきゅっと縮みました。
でも、その奥で、小さな灯りがふっと揺れました。
今日はナーダが名前をくれたのです。
エミリさんは笑ってくれました。
もしかしたらまたカップケーキをくれるでしょうか。
「また来るんですよ」という言葉。
その全部が、
母さんの棘のある声に押し潰されないように、胸の中で小さく光っていました。
ルチルは薬を作り始めました。また明日、ルチルはなんでもやに行くのです。エミリはいるでしょうか。またルチルと話をしてくれるのでしょうか。村はルチルを押しつぶすほど賑やかなのでしょうか。昨日までとは違い、ルチルはもう村がどんな場所か知っています。村に行くのはとても怖いような、楽しみのような不思議な感じがします。ルチルは薬を冷めして瓶に詰め、眠れそうにないと思いながら寝床に横たわりました。扉の中のお友達も同じように眠る時間だったそうです。ルチルと同じように寝床に入るのが扉に映りました。
『おやすみなさい。扉の中のお友達』
そういったつもりですが、実際には目を閉じ・・・気が付いた時には朝日に起こされていたのです。




